2018年9月7日19:16:42 经济学家马光远在微头条转发了一张图片。图片中一头猪从猪圈的墙边探出头来看---- 看到的景象是一群人正在宰杀处理另一头猪。马光远对此图片没有做任何解释。但是此图片却引来众多网友围观,并发表了各种各样不同观感。在这里转发部分网友评论
https://www.sohu.com/a/252706439_126758
解奴辜(?—?),中國東漢方士。籍貫不詳。
解奴辜和張貂,不知是何郡國人。史稱壓能隱形,不從門出入。解奴辜能變易物體形狀,用幻術騙人。
https://zh.wikipedia.org/zh-tw/解奴辜
「かいどこ」とでも読めばいいのか。解奴辜という方士がいたと台語版 Wikipedia にあり。
出典は『後漢書』とのことで、ネット上の他の版とあわせ読むと、解奴辜は後漢末の幻術師。呼び名、出身地、生没年、いずれも不詳。姿を隠すことができ、門戸を通らずに出入りした。物体の形状を変えることができ、もって人を幻惑した――といったところになる。
門戸を通らずに出入りというのだから、これも壁抜け術と見ていいだろう。
Mastodon難しいです。
検索やフォローなどの基本的なことさえまだわからない。
ある日、皆でクリーニングの仕上がりを取りに店を訪れた私たちは、その中国人にひどく驚かさせることになった。彼は私たちに仕上がり品を渡すと、帳場の下からレイシの実をたくさんつかんで、笑いながらドアから出てきた。
そして笑ったまま、いきなり一人の耳を引っ張った。さらにつぎつぎに私たちをつかまえては、にやにやしながら耳を引っ張ったかと思うと、急に残忍な表情を浮かべ、帳場に飛び込むや長い不格好なナイフを取り出してきて、切っ先を私たちにむけて振り回した。
私たちはわれさきに店を飛び出した。街角まできて振り返ると、彼はアイロンを手に何事もなかったような顔で入り口に立っていた。
ミラーが同じ『南回帰線』の中で、「中国人のような異常な人生」とか、「不自然に活発で、不自然に健康で、不自然に冷淡」などと中国人の属性を述べるとき、そこには賛嘆の気持がこめられているのだが、このクリーニング店員の振る舞いとどうかかわっているのだろう。
私はある偽名を使って詐欺をはじめた。
香港では書籍販売人として身分登録し、教養をつけたがっている中国人宅を一軒残らず訪れた。財布の中はメキシコ・ドルでいっぱい、ホテルではハイボールでも注文するみたいに女を注文したが、中国人を騙すのはやさしすぎて面白くなくなり、マニラに移って同じ商売をつづけた。――
などと、ミラーの『南回帰線』にある。ただし、フィクションのはず。
中国や中国人に人の生き方の理想を見るようなことを述べる一方、20世紀前半の現実世界で出会う中国人や、出会う可能性のある中国人については、ミラーは賛美していない。
同じ『南回帰線』に、少年時代のニューヨークでのこととして、次のようなスケッチがある。
女の子のような年上の男の子がいた。私たちはその子を地面に引き倒して服をはぎ取ったりした。ゲイボーイがどんなものか私たちは知らないまま、なんとなく反感を持っていた。
私たちは中国人にも反感を持った。
街はずれの洗濯屋に中国人が一人いた。
教科書にのっている苦力(クーリー)の写真にそっくりの顔で、弁髪をうしろに垂らし、両腕を服の中に入れたまま、妙に気取った女性的な歩き方をした。彼は悪口にも無関心で、侮辱に気づかないほど無知のようにも見えた。ところが――
《私は旧世界の人間であり、風に乗って移植された種であり、キノコのものにすぎないアメリカのオアシスでは開花しそこなった種である。私はかつての巨樹の系統に属している。私の恭順は、肉体的にも精神的にも、その昔、フランク人、ガリア人、バイキング、フン族、タタール族などであったヨーロッパの者たちにある。私の肉体と魂にとっての風土は、素早さと腐敗のあるここにある。私はこの世紀に属していないことを誇りに思う。》――ヘンリー・ミラー『暗い春』
アメリカ大陸を左端に置き、日本を含む極東を右端に置いた地図上で考えると、上の言はよりイメージをともなって理解できる。
私の郷土はここアメリカではない。郷土はヨーロッパである。さらにその由来をたどれば、ユーラシア大陸のかなた、匈奴や韃靼の極東がわが郷里である。私は東方からやってきた。
紫大納言の場合
これも坂口安吾の短編「紫大納言」に描かれた「ぜい肉がたまたま人の姿をかりたように」太った色好みの大納言も、自分をほどいてしまった人物か。
青空文庫の「紫大納言」
https://www.aozora.gr.jp/cards/001095/files/42764_33439.html
「風博士」も「紫大納言」も、人の消滅を描いて笑話的に終わる。
とはいえ、博士や大納言をおとしめて終わるのではない。かといって、嘆くわけでもない。あはは、そんなわけで消えてしまいました。人物たちもそのように終わり、小説自体もそのように終わる。
死を悲劇的なものとは見ない。『荘子』や『列子』の死の認識に通じる。ミラーの死生観とも。
風博士の場合
坂口安吾の短編「風博士」の主人公も、自分をほどいてしまった人物に見える。
なにしろ、風になってしまったのだから。
その結果をどう評価するか。
風博士は憎むべき蛸博士に復讐を遂げたと言えるのか。思いは果たしたと作者は見ているようだが。
青空文庫の「風博士」
https://www.aozora.gr.jp/cards/001095/files/42616_21000.html
ギボー(魏牟)が言ったソーシ(荘子)の人物像「さらりと自分をほどいて万物の内に溶け込み、すべてを無差別に肯定する境地に達している」は、中国人になったヘンリー・ミラー(『暗い春』)や壁に擬態したシュブラック(アポリネール「オノレ・シュブラックの失踪」)を思わせる。
https://fedibird.com/@mataji/111162010262826065
https://fedibird.com/@mataji/111014920547628374
彼らは現実に(物理的に)中国人や壁になったわけではない。
自分をほどいてしまった。ほどけたから他の何かに融合できた。そういうことのはずである。
いかにして自分をほどくか。
一年ほど前のメモから、『荘子』秋水篇にある話。
論理学派のコーソンリョーが道家のギボーに言った。
「自分は議論の達人のつもりでいたが、このごろソーシの議論に驚かされて、口もきけぬほどだ。自分にはかなわないのだろうか」
するとギボーが言うに、
「あのソーシという人物は、さらりと自分をほどいて万物の内に溶け込み、すべてを無差別に肯定する境地に達している。ソーシと議論するくらいなら、さっさと家に帰ったほうがいい」
https://johf.com/memo/024.html#2022.7.13
原文はずっと長いが、コアな部分を抜き出せばこんなところだろう。
コーソンリョーは公孫龍、ギボーは魏牟。
人名がカタカナなのは、たぶん漢字に変換するのが面倒だったから。
簡略 近代中国対外関係史
1840-1842 アヘン戦争
1842 イギリス軍が上海占領、南京条約により上海開港が決定
1845 イギリス租界設置
1848 アメリカ租界設置
1849 フランス租界設置
1851 太平天国の乱始まる
1856-1860 第2次アヘン戦争(アロー戦争)
1860 太平天国軍の第1次上海攻撃
1862 太平天国軍の第2次上海攻撃
1863 英米両租界が合併、共同租界に
1884-1885 清仏戦争
1894-1895 日清戦争
1895 下関条約(馬関条約)締結、以後開港場における外国資本の工場が激増
1899 英米共同租界が国際共同租界と改称、イギリスが長江流域を「勢力範囲」とする、アメリカが中国の「門戸開放」政策を提起
1904-1905 日露戦争
1912 中華民国臨時政府が上海に成立、清朝滅亡
1914-1918 第1次世界大戦
1917 ロシア革命により白系ロシア人の流入が始まる
1919 中国国民党が成立
1925 五・三〇事件、「反英」「租界回収」運動高まる
1926 国民革命軍(総司令に蒋介石)が北伐を開始
1928 北伐軍が北京を占領、全国統一を達成
1931 満州事変
1932 第1次上海事変
資料: 榎本泰子『上海』(中公新書)巻末年表
『聊斎志異』のフランス語訳が19世紀末(1880)に始まっていたことは前に書いた。
https://fedibird.com/@mataji/111101177053562015
英訳も19世紀末(1880)に始まっている。
最初の訳者として挙げられているのは、イギリスの外交官・中国研究者の Herbert Giles。
https://en.wikipedia.org/wiki/Strange_Tales_from_a_Chinese_Studio
『列子』のフランス語訳については、Wikipedia に記事あり。
https://fr.wikipedia.org/wiki/Lie_Zi
最初期の訳業(1911- 1913)はイエズス会の宣教師 Léon Wieger による。河北省献県で印刷されたものか。
『列子』の英訳(1912)として、イギリスの中国研究者・文筆家 Lionel Giles の訳が挙げられている。『聊斎志異』を訳した Herbert Giles の息子。
https://en.wikipedia.org/wiki/Liezi
『荘子』の最初期の英訳(1889)は Herbert Giles による。
https://en.wikipedia.org/wiki/Zhuangzi_(book)
『荘子』のフランス語訳については、『列子』を訳した Léon Wieger の訳(1913)が挙げられている。
https://fr.wikipedia.org/wiki/Zhuangzi_(livre)
地図の上で私はパリにいる。暦の上では今は20世紀の30年代。
だが私はパリにいるのでもなく、今は20世紀でもない。
私は中国にいて、中国語で話す。
三角帆の船で揚子江を遡っているところだ。
食物はアメリカの砲艦が捨てたごみを拾い集めている。
――ヘンリー・ミラー『暗い春』
文侯が子夏に問う。
「その人物は何者なのか」
子夏は孔子の高弟。招かれて文侯の師になっている。
彼が答えて言う。
「孔子先生が言うには、それは和する者である。和者は物とまったく同化してしまうから、物は和者を害することができない。和者は金石を通り抜けることも、水火の中を行くことも可能なのだ、と」
文侯「どうしてあなたはそれをしないのか」
子夏「私はまだ知恵を捨てることも私心を除くこともできません。ただ、せめてそれについて語ることだけはしたい」
文侯「孔子先生はしないのか」
子夏「もちろん先生はできます。でも、それをしないのです」
このようにして『列子』は孔子の地位を引き上げる。
じつは孔子先生は、人前でそれをしないだけで、金石を通り抜け、水火をくぐることはできるのです。「和して同ぜず」という自身の言葉を越えて、対象と同化してしまうのが、ここで描かれた孔子。『列子』はそのように地位――言うまでもなく道家的な価値観による地位だが――を上げることで、孔子を道家の陣営に引き入れる。すでに見た『荘子』の手口と同じ。
次も『列子』にある話。
普の趙襄子が大規模な焼き狩りをしたときのこと。百里にわたって燃え盛る火のなか、石壁から人が出てきて火煙のままに行ったり来たりしている。人々は鬼神かと驚いたが、火が遠のくとゆっくり出てきて、火中をくぐってきた様子などはまるでない。どう見てもただの普通の人である。
不思議に思った趙襄子が問う。
「おまえはどうやって石の中に住み、どうやって火のなかに入ったのか」
その人が答えて、
「何を石といい、何を火というのでしょう」
「おまえが出てきたところが石で、おまえが通り抜けてきたのが火だ」
「そんなこととは知りませんでした」
この話はその後、魏の文侯に伝わり、文侯と子夏の問答を通じて出来事の意味が深められる。というか、ストーリーに列子的価値が盛り込まれる。
周の穆王の時代のこと、西の果ての国に幻術士がいて、周の都にやって来た。彼は水火に入り、金石を貫き、山川を反転させ、城市を移動させた。虚に乗って墜ちず、実に接して妨げられず、千変万化して極まるところがなかった――と『列子』にあり。
原文は、西極之國,有化人來,入水火,貫金石、反山川,移城邑、乘虛不墜,觸實不硋…、ここに「貫金石」とあるのをどう解釈するか。
金属や石に穴をあけると訳した例もあるが、そのくらいのことは工人ならでき、幻術者の能力として列挙するようなものではない。「金属や石を通り抜けた」と壁抜け的に解釈すべきだろう。
「入水火,貫金石」が対句表現であることにも注意したい。金属や石に穴をあけたと解釈したのでは対句性が弱い。つづく「反山川,移城邑」も、「乘虛不墜,觸實不硋」も対句。同じ技法を並べて幻術士の不思議な能力を表現しているのであり、「貫金石」も「入水火」に釣り合う重みで解釈したい。
以上のようなことであれば、『聊斎志異』より2000年ほどもさかのぼった紀元前から中国では壁抜け術が知られていたことになる。すでに穆王の時代からそんな話ができていたとすれば、さらに千年さかのぼることに。
私には無数の自我がある。私は何度も死に何度も生まれ変わったから、とするヘンリー・ミラー『暗い春』の私。
6万7千もの身体を得た後、同時に死んだエイメ「サビーヌたち」の分身たち。
この両者の関係を考えるのを宿題にしていたが、無数という共通点のほか思いつかない。何か考えていたはずだが。
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さらに孔子はつづける。
「人はそれぞれが自分を自分として立てているが、どんな根拠で自分を自分としてるのか。
たとえばお前も、夢に鳥となって空を飛び、魚となって淵に潜るだろう。そしてそのことを言うとき、覚めて言ってるのか、夢の中で言ってるのか、わかりはしない。
分別を言うのは笑いに及ばず、笑いは推移に任せるに及ばず、推移に身をゆだねて変化を忘れてしまえば、静謐な天の一部になることができる」
すっかり道家である。
いいのか、儒家の総帥である孔子がそんなことを言って。
もちろん、まったくかまわない。道に目覚める以前、あるいは以後、そんな位置づけ、道との関連づけで『荘子』の孔子像は描かれている。目覚める以前の未熟な孔子、あるいは、じつは道に通じたわかっている孔子。
別の弟子・顔回が孔子にたずねる。
「孟孫才は母親を亡くしたとき、泣き真似をしただけで、衷心から悼むこともなく、喪中も悲しみませんでした。それなのに彼が立派に喪に服したと評判になったのはなぜでしょう。実がないのに名だけは高いということがあるのですね」
孔子が答えていう。
「孟孫才はきちんとやったよ。儀礼を省こうとしたが完全には省けず、形だけ残したのだ。
彼は人の生まれるわけも死ぬわけも知らず、生が先か死が先かも知らず、ただ変化の理にしたがって生まれ、変化のわけを知らずに変化するのみ。生と死、化と不化の別にこだわる私やお前などは、夢を見つづけているようなものだろう。
生死は形を損なうが、精神を損なうことはない。そのことを知る孟孫才こそ、ただ一人目覚めており、だから彼は人が泣けば自分も泣いてみせた。母親の死に際しての彼のふるまいがこれである」