「自我を穴だらけのマント同様に脱ぎ捨てること」と、ダダ運動発祥の場とされるキャバレー・ヴォルテールの主人フーゴー・バルが書き残している。
johf.com/memo/046.html#2024.5.

自我を捨てる。壁抜けの有力な解ではないか。

コートを脱ぎ捨てて壁に入り込んだオノレ・シュブラックのケースをどう考えるか。着ているものを脱ぎ捨てて、姿を壁に溶け込ませたものの、壁に撃ち込まれた銃弾で殺されてしまったらしいのだが。

バルの言におけるマントとは自我の喩えであって、自我そのものではないこと。

その漫画を見たのは学齢前。ひらがなは読めたが、漢字はまだ読めなかったはず。
それが『モンテ・クリスト伯』と気づいたのは、中学時代、学校の図書館から借りた要約本を読んで。小学校時代の6年をはさんで、そんなにも長く記憶に残っていたのは何故か。作者の挫折に自分の感性が反応したからだろう。

今にして思えば、あれは予言的体験だったか。
何ごともやり遂げられず、挫折、放棄、諦めといった形で終わる。おまえの人生はその繰り返しだよ、といったような。
幼時にして備わっていた挫折体質。そんな体質が、あることで訪れたある理髪店の二階のひと間でひとり過ごす間に、低い棚からみつけて読んだ漫画に感応したのだろう。

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自分の記憶にある最初の漫画は、『モンテ・クリスト』を脚色しようとしたか、あるいは下敷きにした別物。最後のコマで、作者が両手で頭をかきむしり、「行き詰まった」といった意味のことを言って、連載の中止を宣言している。原作に即して言えば、まだエドモン・ダンテスがシャトー・ディフの牢にいる段階なのに、早々に先行きを見限られた残念な作品。

もしかすると、この漫画は最初の漫画体験というにとどまらず、記憶に残った最初の読書体験だったのかもしれない。
同じころ、身辺に子供向けの絵本が1、2冊あったような気がしないでもないが、そちらは記憶がおぼろ。色の付いた本があったようなという記憶にとどまる。それなのに、子供には意味の取りにくそうな、しかもよそで一度見ただけの漫画が記憶に残ったことをどう考えるか。

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《エドモンダンテスが苦労して牢獄の壁掘り抜いたら、外ではなくお隣のお部屋へ出てしまった。でもやらないよりはマシだったと考えるようなものです。可能性あれば賭けてみて、こけたならそれまで…》
twitter.com/Doranekodo/status/

う〜む、とりあえず無難を選ぶのも人間というものだが…、つまりは賭けか。

出口はこちら。方向だけだが。

正確な引用にこだわらない。
出典を詳記しない。
できれば自分の言葉で書き直す。盗む。
虚実を分けない。

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「実」の世界から「虚」の世界への招待という形で、寺山修司は出口を用意した。
観客を無理やり舞台に上げようとして問題になった『邪宗門』のヨーロッパ公演(1971年)がその代表例。
fedibird.com/@mataji/111677875

劇団員でない者を当人の同意なしに舞台に立たせるというアイデアは、寺山が演劇活動を開始する前からのものだったという。
ラジオドラマを書きはじめたばかりのころ、寺山が番組制作者に述べたこと。
《街頭でパッと人間を拉致するんだ。全然不特定の人。それで目かくしして車に乗せて三十分か四十分か街を走りまわる。それからどこか劇場の舞台の真ん中におくんだ。ベルが鳴り、幕があがって、スポットライトが当たる。そして目かくしをはずすと、その人物は「助けてくれ〜!」と絶叫するだろう。
「こんないい芝居はないだろう?」》――田澤拓也『虚人 寺山修司伝』

[参照]

寺山修司の戯曲『壁抜け男――レミング』の最終場面「死都」のト書き。

《車椅子の妹が、髪を逆立てて立ちあがり、「風だあ!」と叫ぶと、つむじ風がまき起こり、壁という壁が吹きとばされ、ビラがとび、夢は破片となって飛び散る。品川区五反田にある安下宿「幸荘」を仕切っていた壁だけではない。品川屠殺場のコンクリートの壁も、区役所の塀も――ありとあらゆる立体はかき消えるように失くなり、あとに残されるのは一望の荒野だけとなる。》

歌舞伎で言う屋体崩し(屋台崩し)。劇の山場で、大きな屋敷などを崩壊させるスペクタクル。

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深みにはまらないうちに、どう寺山を切り上げるか。
少なくとも『壁抜け男――レミング』を自分なりに理解してからと思っていたが――

《ラストシーンで、すべての硝子は割れ、書店中の書物は散乱し、スピノザの世界は崩壊している。一枚の鏡の破片にうつる、顔はスピノザだが、そのうしろ姿は別人のように見える。がっしりと肩幅のひろい中年男は、もはや、スピノザではない。
群衆の中へ、逃げこんでゆく、「顔がスピノザで、体が他人」の父親を、カメラは追いかける。
スピノザは、人ごみの中に、見え、かくれ、そしてとうとういなくなる。》――寺山修司「唯一の書物」(『夜想』16)

シナリオを手がかりに読み解いた映画『レゾートル――はみだした男』の評だが、『壁抜け男――レミング』の最後を思わせるものがある。寺山版『壁抜け男』の全体は消化できなくても、その末尾から抜け出せばいいのでは。

当アカウントの最初の記事は2023年8月26日付け。自分がなかばマルセル・メイエ「壁抜け男」の主人公デュチュールであるかのようにして書いている。
fedibird.com/@mataji/110953911

方向性を述べた最初の記事は9月8日付け。「壁抜け譚は中国で生まれたという仮説を出発点に、ただし気ままに脱線しつつ考えてみる」としている。当初から脱線を見込んでいて用心深い。
fedibird.com/@mataji/111026970

仮説の検証といったテーマを掲げながら、過去記事にさかのぼる手段を考えていなかったのはうかつ。途中からハッシュタグを遡行の手がかりとして付けるようになったが、初期の記事にはこれもない。

[参照]

『列子』にある壁抜け男のことは前に書いた。
fedibird.com/@mataji/111303871
fedibird.com/@mataji/111311452

これらの話に、「金石を貫く」「金石を游(くぐ)る」とあるのを壁抜け術と解したが、まったく同じ表現が、唐代の出来事として唐代の書『酉陽雑俎(ゆうようざっそ)』に出てくる。

《張魏公在蜀時,有梵僧難陀,得如幻三昧,入水火,貫金石,變化無窮。(……)僧不欲住。閉關留之,僧因是走入壁角,百姓遽牽,漸入,唯余袈裟角,頃亦不見。(……)僧已在彭州矣。後不知所之。》
zh.wikisource.org/wiki/酉陽雜俎/卷五

蜀の地に難陀というインド僧がいて、水火をくぐり金石を貫き、そのほかさまざまな幻術や予言をした。ある時、成都で僧を供養した者がいたが、僧が逗留をきらったので部屋を締め切って引き止めると、僧は壁の中に逃げ込んだ。しばらく僧の姿が壁に残っていたが、しだいに薄れて七日目に消えてしまった。そのとき僧はすでに彭州にいた。その後のことはわからない。

紀元前10世紀の出来事と唐代の出来事が、同じ「入水火、貫金石」という表現で伝えられることをどう考えるか。
人が壁を通り抜ける。これは誰もが思いつくことなのか。

[参照]

推理小説の特殊性。
ほとんどの推理小説は、作者が壁を通り抜けてから書きはじめられる。
事態に先行する作者 vs つねに遅れて現場に駆けつける探偵。
推理小説の仕組みを知らされないまま、壁の手前で苦労させられる三枚目、その代償としての探偵の名声。

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安岡章太郎は『私説聊斎志異』を書き上げることで壁抜けを果たした。
これは特別なケースか。
むしろ、小説一般、創作一般に言えることではないか。
意識的にしろ無意識にしろ、創作という営為は壁を通り抜けようとして行われる。通り抜けたらそこで完成。抜けられなければ未完、あるいは失敗作。

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小説家である私は、長編小説を書くために寺にこもるが、ついに書けずに終わる。――というのが安岡章太郎が自身を題材に書いた『私説聊斎志異』のストーリー。
ということは、私は小説を書き上げたのである。してやったり。一種の壁抜けを安岡はやってみせたのではないか。

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マルセル・エイメ「壁抜け男」の主人公について、寺山修司の論。

《デュチュールにとって、個人的な内面生活など、どうでもいいことであり、ただ単なるレゾートル(外部の人)として、三級役人の勤めを全うすることだけが、日常の現実だった。
 しかし、彼が「壁抜け男」として他人に認知されたときから、彼の生活の内面化がはじまるのである。壁は、壁として了解されたときから、三級役人デュチュールの中で解釈され始める。そして、とうとうデュチュールは壁を通り抜ける途中で壁の厚さを了解し、能力を失って、壁の内部に閉じこめられてしまうのだ。》――寺山「壁抜け男の神話学」

カネと女ということなら、古代中国の盗跖(とうせき)も同じ。

《盗跖は手下を九千人もひきつれて天下を横行し、諸侯の国々で乱暴をはたらき、家の壁に穴をあけては入口をさぐり、他人の牛馬を追いたて他人の婦女を奪って我がものにしている。物欲にふけっては親戚のことも忘れ…》――『荘子』盗跖篇(金谷治訳注、岩波文庫)

壁を通り抜けるところまで共通!
ということは、壁抜けについて何かを考えるということは、盗賊について考えるのと同じということか。古代中国の大盗から近世イギリスの侠盗、現代日本のルパン三世まで。

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クロード・デュヴァルは美貌を歌われた。
墓碑銘に次のようにあるという。(野尻抱影『英文学裏町話』)

  Here lies Du Vall: Reader, if Male thou art,
  Lock to thy Purse: if female, to thy heart.
  ここに、デュ・ヴァル眠る。読む人よ、おん身男ならば
  財布に御用心、おん身女ならば心に御用心。

人が壁を通り抜けるというマルセル・エイメ「壁抜け男」の発想は中国(の文芸や思想)由来ではないか。この仮説が当ブログの出発点。話はあちこちして、今はロンドン近郊を騒がせた盗賊の物語、どこまで外れたら気が済むのか自分といったところだが、むしろ、意図せずして出発点にもどったようでもある。

デュヴァルはカネと女心を盗んでまわった。
壁抜け男のジュチユールが熱中したのも、夫のいる女との情事と銀行破り。

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レニングラードの壁抜け男

ユーリー・ウラジーミロフ(1909-1931)の短編小説『スポーツマン』(1929?)の主人公イワン・セルゲーエヴィチは、壁をすり抜ける能力を持っている。
小説の前半は、その特殊能力によって主人公が社会的成功を収めていく過程。後半は一転して、不運の連続。その折り返し点に置かれているのが、見知らぬ郵便配達人と居酒屋でかわした次の会話。

「うかがいたいのですが」と郵便配達人。「あなたは何ができますか? 何のためにこの世に生きていますか?」
「私はね」とイワン・セルゲーエヴィチ。「壁を通り抜けることができます」
「なるほど」と郵便配達人。「分かりました。でもそれは問題の科学的な解決ではありませんね。純然たる偶然です」

これ以後、つぎつぎと降りかかる災難。
帰宅したイワン・セルゲーエヴィチが妻に「人生の目的はどこにあるのだろう」と問うた直後、屋根から落下したトタン板が妻の耳を削いでしまう。これが第一の災難。なおも問題を考えつづけた彼が、ようやく「人生の目的」を「どうだっていい」と退けたとき、すでに妻は事切れている。
その後も彼は壁抜けを続けるが、失敗ばかり重なって、ついには――

仮説: 西欧の壁抜け譚は中国渡来ではないか。

今のところサンプルは三つ。
アポリネール「オノレ・シュブラックの失踪」
マルセル・エイメ「壁抜け男」
蒲松齢『聊斎志異』中の「労山道士」

「オノレ・シュブラックの失踪」は必ずしも壁抜け譚ではない。主人公は壁を通り抜けたのではなく、張り付いて壁にまぎれこむ「擬態」にとどまる。19世紀以来の生物学の広がりを背景としたアイデアか。そう考えた場合、サンプルは2点に減る。

サンプルの過少は仮説にとって本質的な欠陥ではない。リンゴの実は人々の前でいつも木から落ちつづけて来たのに、誰も引力の存在を想定することはなかった、ニュートン以前には。

自分の能力の使いみちに目覚めたデュチユールは、手はじめに大銀行の金庫に忍び込み、ポケットに紙幣を詰め込んで立ち去る。現場の壁に赤いチョークで残された「狼男」の署名。
銀行、宝石店、富豪邸で繰り返される盗み。わざと捕らえられて入った刑務所からの脱出。有名なダイヤモンドが盗まれたり、中央銀行が破られたため、内務大臣が解任され、巻き添えで登記庁の長官も馘首。

女性運も訪れる。
嫉妬深い夫に監視されている美女との出会い。夜が更けるの忘れて愛し合う二人。
繰り返されるランデブー。そしてある朝の帰り道、壁を抜けようとしてふと感じる抵抗感。壁は急速に粘りを増し、彼は壁に閉じ込められてしまう。アスピリンと思い込んで飲んだ薬が、以前に医師から処方された薬だったことにデュチユールは思い当たる。その薬が過労に効いて、壁を通り抜ける能力が消えてしまったのだった。

デュチユールは生きている。彼の消えた現場を夜更けて通りかかるなら、人は吹きすさぶ風音のようなものを聞くことがあるだろう。それは輝かしい人生の終わりを嘆き、短かすぎた恋を悔しがる狼男デュチユールの泣き声なのである。
[粗筋おわり]

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