既存の詩や文から章句を切り出し、もとの文脈を無視して再利用することを「断章取義(だんしょうしゅぎ)」という。
『列子』にある列子の故事を、弓の名人・紀昌のこととして「名人伝」に取り入れた中島敦の方法も断章取義と言える。他にも「名人伝」では、『列子』中の章句をさかんに流用、元のシチュエーションから切り離して使っている。
ネガティブな面を強調して断章取義を言い換えれば、盗用あるいは故意の誤用ということになるが、ポジティブには、断章取義こそすべての創作活動の基本ではないか。
創作物の中身がすべて創作者の内部から発しているなどとは言えない。すべてが作者のオリジナルだとしたら、それらは遺伝子で伝えられてきたものとでも考えないと説明できない。逆に、すべては借用、流用、盗用と言ったほうが事実に近いだろう。
「凡才は模倣し、天才は盗む」とピカソは言った。
「盗め、どうして盗まないのだ」とウィリアム・バロウズも言っている。
名人伝 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/名人伝
名人伝 - 青空文庫
https://www.aozora.gr.jp/cards/000119/files/621_14498.html
中島敦の短編「名人伝」の登場人物、紀昌、飛衛、甘蠅の名は、『列子』湯問篇に弓の名手として出てくる。
射術を飛衛に学んだ紀昌が、飛衛を倒して第一人者になろうと図ったこと、野中で出会った二人が矢を撃ち合ったくだりなども主として湯問篇に拠り、一部の表現をを仲尼篇から借りている。
「名人伝」に紀昌の上達を表現して、「一杯の水をたたえた盃を右肘の上に載せて強弓を引くに、狙いに狂いの無いのはもとより、盃中の水も微動だにしない」とあるのは、『列子』黄帝篇に列子の故事として書かれていることの流用。
名人・紀昌の晩年の述懐「既に、我と彼との別、是と非との分を知らぬ。眼は耳の如く、耳は鼻の如く、鼻は口の如く思われる」も、同様の表現が列子の言として黄帝篇に出てくる。
これらの他、「名人伝」は『列子』から多くの出来事やフレーズを借りている。
仙術の修行は年月を要すること。
列子は老商氏を師とし、伯高子を友として、この二人の道をきわめ、風に乗って帰ってきた。それを聞いた尹生という者が列子に弟子入りし、風に乗る術を教えてくれるよう数カ月のあいだに十遍も頼んだが、教えてもらえない。――という話が『列子』黄帝篇にある。
列子を恨んで家に帰った尹生だったが、再び弟子入りして教えを請うた。
すると列子は次のように言った。
自分は老商氏と伯高子に学んで3年後、心に是非を思わず、口に利害を言わなくなって、はじめて師がちらっとこちらを向いてくれた。そして5年後にはかくかくのことがあって、ようやく師はにっこりされ、さらに7年後、こうこうのわけで師の部屋で同席することを許された。
9年たって、考えたいように考え、言いたいように言っても、その是・非、損・得は気にならず、師が師であるとか、友が友であるとかも気にならず、内・外、自・他を区別する意識もなくなった。
かくてはじめて、木の葉が風に舞うように東西することができるようになった。今や、自分が風に乗っているのか、風が自分に乗っているのかも知らない、と。
以後、尹生は二度とそのことを口にしなくなった。
百科事典サイト「百度百科」から、幻術研究書『鵝幻彙編』の項の冒頭記事。
意図がわかりにくいが、要約のつもりだろう。
中國的變戲法(又稱幻術、魔術)到底起於何時,已難考證。《列子·周穆王篇》載:“周穆王時,西極之國有化人來,入水火,貫金石,反山川,移城邑;乘虛不墜,能實不礙。千變萬化,不可窮極。”唐代雜技和幻術空前繁榮,幻術節目中的“走火術”、“種瓜”、“植樹”,不但流行於本土,而且還傳入了日本。
https://baike.baidu.hk/item/鵝幻彙編/956065
『列子』周穆王篇を引用したのは、そのへんを最古の伝えと見たためか。
唐代に幻術が大流行した、そのうちでも代表的な走火術、種瓜、植樹は、日本にも伝わったとあり。幻術そのものが日本に伝わったのか、それとも幻術譚が伝わったのか。後者だろう。果心居士などもその例か。
『列子』にある壁抜け男のことは前に書いた。
https://fedibird.com/@mataji/111303871533007165
https://fedibird.com/@mataji/111311452595172000
これらの話に、「金石を貫く」「金石を游(くぐ)る」とあるのを壁抜け術と解したが、まったく同じ表現が、唐代の出来事として唐代の書『酉陽雑俎(ゆうようざっそ)』に出てくる。
《張魏公在蜀時,有梵僧難陀,得如幻三昧,入水火,貫金石,變化無窮。(……)僧不欲住。閉關留之,僧因是走入壁角,百姓遽牽,漸入,唯余袈裟角,頃亦不見。(……)僧已在彭州矣。後不知所之。》
https://zh.wikisource.org/wiki/酉陽雜俎/卷五
蜀の地に難陀というインド僧がいて、水火をくぐり金石を貫き、そのほかさまざまな幻術や予言をした。ある時、成都で僧を供養した者がいたが、僧が逗留をきらったので部屋を締め切って引き止めると、僧は壁の中に逃げ込んだ。しばらく僧の姿が壁に残っていたが、しだいに薄れて七日目に消えてしまった。そのとき僧はすでに彭州にいた。その後のことはわからない。
紀元前10世紀の出来事と唐代の出来事が、同じ「入水火、貫金石」という表現で伝えられることをどう考えるか。
人が壁を通り抜ける。これは誰もが思いつくことなのか。
列子が用いた「種」と「機」は同じことの二つの側面で、「種」が物としての側面、「機」がメカニズムの側面。
ここでの列子の言は「万物皆出於機、皆入於機」と締めくくられ、すべての物は「機」によって生じ「機」に帰るの意だが、「種」に置き換えても同じ。すべては「種」から生まれて「種」に帰る。
この締めくくりを敷衍したような表現がミラーの『暗い春』にある。
こちらでは、用語「芽」が「種」と「機」を兼ねている。
《肉体の耐久力には限界があると人は思うかもしれないが、じつは限界などない。我々の身体はどんな苦痛をも超越した高みにあり、何もかもが死滅したあとも、足の指の爪とか、ひとつかみの髪の毛ぐらいは必ず残って、それが芽を出し、永遠に残っていくのはそうした不滅の芽なのである。》――ヘンリー・ミラー『暗い春』「中国彷徨」
マッハが引用した列子の言葉は『列子』天瑞篇にある。
列子が越の国に行ったときのこと、途中、道端で食事をしながらふと見ると、死んで百年は経たと思われるドクロがころがっている。そこで列子はヨモギを抜いてドクロを指し、弟子に向かって曰く、「この私とドクロだけがわかっているのだ、何物もいまだかつて生起したことはなく、いまだかつて死滅したこともない、と。はたしてこのドクロは、死を悲しんでいるのか、よろこんでいるのか。およそ種子には機というものがあり……」
種子の「機」とは、変化の働き、メカニズムといった意味らしい。『列子』はこれにつづいて、水気のあるところでは種子は水垢になり、あるいは水草となり、土の上で育つと草になり、その根は虫となり、葉は蝶となり、…と変化の例をつらねて、万物は種子から出て種子にかえるとする。
人の生死もそのメカニズムの過程にすぎず、よろこんだり悲しんだりするものではない。言外だが、これが結論。
マッハが『列子』を読んでいたこと。
《私共は、未来における科学のすがたを確然と描き出すことはできません。しかし、人間と世界を隔ててきた壁が次第に消えるであろうということ、人間が己れ自身に対してだけでなく、すべての生あるものに対して、いや、いわゆる無生物に対してすら我利我利な態度をすてて温かい気持で接するようになるであろうこと、こういうことは予感するに難くありません。二千年も前に支那の哲学者列子はこういう予感を抱いていたのかもしれません。彼は古びた舎利を指さしながら、表意文字で記される簡勁な文体で、弟子達に向かって次のように説いたのであります。「彼と我のみぞ知る。我等生けるにも非ず、死せるにも非ず。生死の境なし」と。》――エルンスト・マッハ「科学の基本的性格――思惟経済の体系」(廣松渉編訳『認識の分析』)
マッハは、エルンスト・ファーベルによるドイツ語訳(1877年)で『列子』を読んでいる。
ファーベルは長く中国に滞在した宣教師、中国学者
https://de.wikipedia.org/wiki/Ernst_Faber
紫大納言の場合
これも坂口安吾の短編「紫大納言」に描かれた「ぜい肉がたまたま人の姿をかりたように」太った色好みの大納言も、自分をほどいてしまった人物か。
青空文庫の「紫大納言」
https://www.aozora.gr.jp/cards/001095/files/42764_33439.html
「風博士」も「紫大納言」も、人の消滅を描いて笑話的に終わる。
とはいえ、博士や大納言をおとしめて終わるのではない。かといって、嘆くわけでもない。あはは、そんなわけで消えてしまいました。人物たちもそのように終わり、小説自体もそのように終わる。
死を悲劇的なものとは見ない。『荘子』や『列子』の死の認識に通じる。ミラーの死生観とも。
『聊斎志異』のフランス語訳が19世紀末(1880)に始まっていたことは前に書いた。
https://fedibird.com/@mataji/111101177053562015
英訳も19世紀末(1880)に始まっている。
最初の訳者として挙げられているのは、イギリスの外交官・中国研究者の Herbert Giles。
https://en.wikipedia.org/wiki/Strange_Tales_from_a_Chinese_Studio
『列子』のフランス語訳については、Wikipedia に記事あり。
https://fr.wikipedia.org/wiki/Lie_Zi
最初期の訳業(1911- 1913)はイエズス会の宣教師 Léon Wieger による。河北省献県で印刷されたものか。
『列子』の英訳(1912)として、イギリスの中国研究者・文筆家 Lionel Giles の訳が挙げられている。『聊斎志異』を訳した Herbert Giles の息子。
https://en.wikipedia.org/wiki/Liezi
『荘子』の最初期の英訳(1889)は Herbert Giles による。
https://en.wikipedia.org/wiki/Zhuangzi_(book)
『荘子』のフランス語訳については、『列子』を訳した Léon Wieger の訳(1913)が挙げられている。
https://fr.wikipedia.org/wiki/Zhuangzi_(livre)
文侯が子夏に問う。
「その人物は何者なのか」
子夏は孔子の高弟。招かれて文侯の師になっている。
彼が答えて言う。
「孔子先生が言うには、それは和する者である。和者は物とまったく同化してしまうから、物は和者を害することができない。和者は金石を通り抜けることも、水火の中を行くことも可能なのだ、と」
文侯「どうしてあなたはそれをしないのか」
子夏「私はまだ知恵を捨てることも私心を除くこともできません。ただ、せめてそれについて語ることだけはしたい」
文侯「孔子先生はしないのか」
子夏「もちろん先生はできます。でも、それをしないのです」
このようにして『列子』は孔子の地位を引き上げる。
じつは孔子先生は、人前でそれをしないだけで、金石を通り抜け、水火をくぐることはできるのです。「和して同ぜず」という自身の言葉を越えて、対象と同化してしまうのが、ここで描かれた孔子。『列子』はそのように地位――言うまでもなく道家的な価値観による地位だが――を上げることで、孔子を道家の陣営に引き入れる。すでに見た『荘子』の手口と同じ。
次も『列子』にある話。
普の趙襄子が大規模な焼き狩りをしたときのこと。百里にわたって燃え盛る火のなか、石壁から人が出てきて火煙のままに行ったり来たりしている。人々は鬼神かと驚いたが、火が遠のくとゆっくり出てきて、火中をくぐってきた様子などはまるでない。どう見てもただの普通の人である。
不思議に思った趙襄子が問う。
「おまえはどうやって石の中に住み、どうやって火のなかに入ったのか」
その人が答えて、
「何を石といい、何を火というのでしょう」
「おまえが出てきたところが石で、おまえが通り抜けてきたのが火だ」
「そんなこととは知りませんでした」
この話はその後、魏の文侯に伝わり、文侯と子夏の問答を通じて出来事の意味が深められる。というか、ストーリーに列子的価値が盛り込まれる。
周の穆王の時代のこと、西の果ての国に幻術士がいて、周の都にやって来た。彼は水火に入り、金石を貫き、山川を反転させ、城市を移動させた。虚に乗って墜ちず、実に接して妨げられず、千変万化して極まるところがなかった――と『列子』にあり。
原文は、西極之國,有化人來,入水火,貫金石、反山川,移城邑、乘虛不墜,觸實不硋…、ここに「貫金石」とあるのをどう解釈するか。
金属や石に穴をあけると訳した例もあるが、そのくらいのことは工人ならでき、幻術者の能力として列挙するようなものではない。「金属や石を通り抜けた」と壁抜け的に解釈すべきだろう。
「入水火,貫金石」が対句表現であることにも注意したい。金属や石に穴をあけたと解釈したのでは対句性が弱い。つづく「反山川,移城邑」も、「乘虛不墜,觸實不硋」も対句。同じ技法を並べて幻術士の不思議な能力を表現しているのであり、「貫金石」も「入水火」に釣り合う重みで解釈したい。
以上のようなことであれば、『聊斎志異』より2000年ほどもさかのぼった紀元前から中国では壁抜け術が知られていたことになる。すでに穆王の時代からそんな話ができていたとすれば、さらに千年さかのぼることに。