『聊斎志異』のフランス語訳が19世紀末(1880)に始まっていたことは前に書いた。
fedibird.com/@mataji/111101177

英訳も19世紀末(1880)に始まっている。
最初の訳者として挙げられているのは、イギリスの外交官・中国研究者の Herbert Giles。
en.wikipedia.org/wiki/Strange_

『列子』のフランス語訳については、Wikipedia に記事あり。
fr.wikipedia.org/wiki/Lie_Zi
最初期の訳業(1911- 1913)はイエズス会の宣教師 Léon Wieger による。河北省献県で印刷されたものか。

『列子』の英訳(1912)として、イギリスの中国研究者・文筆家 Lionel Giles の訳が挙げられている。『聊斎志異』を訳した Herbert Giles の息子。
en.wikipedia.org/wiki/Liezi

『荘子』の最初期の英訳(1889)は Herbert Giles による。
en.wikipedia.org/wiki/Zhuangzi

『荘子』のフランス語訳については、『列子』を訳した Léon Wieger の訳(1913)が挙げられている。
fr.wikipedia.org/wiki/Zhuangzi

[参照]

エイメの「壁抜け男 (Le passe-muraille)」は、これを表題作とする1943年刊の短編集所収。
アポリネールの「オノレ・シュブラックの失踪」は、1910年刊の短編集『異端教祖株式会社』所収。
「労山道士」を含む『聊斎志異』の部分訳 Contes magiques は1925年刊。編訳者のルイ・ラロワは音楽学者、中国学者、文筆家。

アポリネールが「オノレ――」を書いた時点で Contes magiques は未刊。
エイメが Contes magiques を読んだ可能性はある。否定されない。ルイ・ラロワはとくに音楽方面の活動で広く知られた人物だったらしい。

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19世紀末から20世紀にかけて『聊斎志異』の翻訳が進んだのがわかる。

仏語訳リストの最初にある Le Poirier planté (1880) は、原題「種梨」の訳。「種梨」は、道に植えた梨の種から見る間に幹が伸びて、たわわに実った梨を道士は人々にわけてあげました、という日本でも知られた「魔法の梨の木」のオリジナル。

次の Contes chinois (1884) は、『聊斎志異』から25話を選んで1冊としたもの。この25話に「労山道士」は含まれていない。

3番めの Contes magiques (1925) は、20話を選んで訳出。「労山道士」が L'ERMITE DU MONT LAO の題で収められている。仏語版 Wikipedia のリンク先に訳文あり。

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フランス語版 Wikipedia に『聊斎志異』の仏語訳リストあり。以下は最初期の3件。

・« Le Poirier planté », traduit par Camille Imbault-Huart, dans le Journal asiatique, août-septembre 1880, p. 281-284 [traduction du conte « Zhong li » 種梨]
・Tcheng-Ki-Tong. Contes chinois, Calmann-Lévy, 1884 [25 contes adaptés en français]
・Contes magiques, d'après l'ancien texte chinois de P'ou Song-Lin (l'Immortel en exil), traduit par Louis Laloy, Piazza, 1925 [20 contes]; réédition, P'ou Song-Ling, Contes étranges du cabinet Leao, traduit par Louis Laloy, Le Calligraphe, 1985

『私説聊斎志異』で言及されている『聊斎志異』の小話のうち、「労山道士」は最後のもの。次のような述懐があって、『私説――』もまもなく終わる。

《何はともあれ、私もまた家には帰らなければならない。そして帰れば私も「労山道士」の男と同様、女房から二箇月間を家の外で空費してきたことを責め立てられ、何等得るところのない才能をあなどられるであろう。うかつに、壁抜けの術を会得したなどとツマらぬことを自慢しても、得るところは額のコブぐらいでしかない。》

仙術にあこがれた王の山ごもりと、小説を書こうとした「私」の寺ごもりの期間がともに二カ月であることを作者は承知している。たまたまの一致というより、王の期間にあわせて「私」の寺ごもりが設定されたと見たい。
王は壁抜けに失敗し、作中の小説家は小説を書けずに終わる。ここでは壁は小説の喩えである。一方、現実の小説家である安岡は『私説聊斎志異』を書き上げる。

とはいえ、『私説聊斎志異』は私小説ではないだろう。少なくとも、自身の現実を材料にはしていても、それをありのままに書いて売り物にするといった態のものではない。
「私」が小説を書くために寺にこもったとあるのも、安岡側の事実かは不明。その実否よりも、寺にこもった期間が2カ月とされているのがおもしろい。この期間は、『聊斎志異』の一話「労山道士」で王という人物が山にこもった時間に相当する。
若いころから仙術にあこがれていた王は、労山に仙人をたずねて弟子入りするが、山に薪取りに行かされるばかりで、いつまでたっても術を教えてもらえない。とうとうねをあげて労山を退去することになるが、この修行期間が2カ月なのである。
去るにあたって王は、数百里の道をやってきて何ひとつ覚えられずに終わるのは悔しい、せめて一番簡単な術でいいから何か教えてもらえないかと仙人に頼む。仙人は承知して壁抜けの術を王に授けるが、帰宅した王が人々の前で術を披露しようとしたところ、壁にぶち当たって王は昏倒――というのがこの一話の結末。

安岡章太郎の小説『私説聊斎志異』は1973年秋から翌春にかけて週刊誌『朝日ジャーナル』に連載された。
作中の実時間は、連載期間より1〜2年さかのぼった時期の2カ月余りで、その間、語り手の「私」は長編小説を書くべく京都の寺にこもっているが、筆は進まず、市中を歩き回ったり、大阪に友人をたずねたりする。

「私」の年齢設定は51歳。
著者の安岡章太郎は1920年生まれだから、これは著者の年齢でもある。
51歳という年齢は、『聊斎志異』の作者・蒲松齢にも重なる。
蒲松齢は科挙の予備試験である県試、府試、院試の三試験にいずれも首席で合格したが、19歳で受けた本試験の第一段階である郷試に失敗すると、その後、ついに第一段階を突破できず、51歳で受けた郷試の落第を最後に、ようやく受験をあきらめたとされる。
安岡あるいは「私」は、3年にわたった自身の受験浪人の体験から蒲松齢の30年余りにわたる不合格体験に思いを馳せ、また51歳という時点においても蒲松齢を鏡にみずからを映してみる。そのように自身と蒲松齢を重ねあわせる中で、自身の過去や交友関係を振り返り、『聊斎志異』の怪異譚と作者について考えをめぐらしたのが『私説聊斎志異』である。