子貢がこのことを孔子に伝える。
「彼らは何者でしょう。ふるまいは出鱈目で、礼儀をわきまえず、遺骸の前で歌を歌って恥じることもない。まったく言いようがありません」
孔子が答えていう。
「彼らは世俗の外で遊ぶ者、我々は世俗の内で遊ぶ者だ。内と外は相容れないものなのに、お前を弔問に行かせるとは考えが足りなかった。俗塵の外で気ままにふるまい、無為自然を楽しむ彼らが、どうして儀礼や形式を整えて、世人の耳目に応えることなどするだろうか」
これにつづく子貢との会話のなかで、孔子は儒家らしくないことを言い出す。
子貢「それでは先生の拠りどころはいかなるものでしょう」
孔子「私は俗世で生きるよう天から罰された者である。けれども私は彼らについていきたいと思う、お前といっしょにね」
彼らとは、子桑戶の遺骸を前に歌を歌っていた孟子反や子琴張のこと。礼儀をわきまえないと子貢が評した者たちのことなのだが。
先の引用箇所の後半に、「たとえ、最も親しい友人が死んでも、その葬式に行こうとはしないだろう」とあり、妻を亡くした荘子が盆を叩いて歌ったという話を思わせる。
私も妻に死なれた当座は悲しみに耐えられなかった。だが、人は混沌の中から生じて、混沌に帰る。妻がその混沌の世界で眠りにつこうとしているのに、ここで泣きわめいたら天命に通じぬ者となってしまう。だから私は泣くのをやめた。――というのが荘子の弁で、荘子の思想・言行を集めた『荘子』中でもよく知られた一話。
これと同様の話がほかにも『荘子』にある。
子桑戶、孟子反、子琴張は、たがいに世俗にとらわれない生き方をする者として理解しあい、友人となった。
しばらくして子桑戶が死んだ。
それを聞いた孔子が、弟子の子貢に言いつけて葬式の手伝いに行かせた。
すると孟子反と子琴張は、手仕事をしたり楽器を鳴らしたりしながら歌っている。
ああ桑戶よ
ああ桑戶よ
君はすでに君の真実に帰った
我々はまだ人間のままだ
子貢は思わず走り寄って、「なきがらを前に歌うのは礼にかなうことですか」とたずねる。
すると二人は顔を見合わせて、「こいつには礼はわからんな」と笑った。
中国人のような異常な人生とは――
不自然に活発で、不自然に健康で、不自然に冷淡で、花や岩や木のように生き、自然と戦いながら同時に自然とともに生きる、そんな生き方。
中国人を不審がったり、けなしたりしているのではない。逆である。ミラーは人としての生き方の理想を中国に見ており、ドゥルーズらの『千のプラトー』もそれを引き継いだ。中国人なら壁抜けができるとの『千のプラトー』の論が『南回帰線』のこのあたりに拠っていることは、著者らが認めている。再掲すると、
《壁を通り抜けること、たぶん中国人ならできる。しかしどんなふうに。動物になること、花または岩になること、さらにまた、不思議な知覚しえぬものになること、愛することと一体の硬質になることによって。 》
『南回帰線』つづき。
《もし、ある人が、キリストのように十字架にかけられずに生命を保ち、絶望と無能感を超越して生きながらえたならば、まことに奇妙なことが起るにちがいない。つまり、その人間は実際に死んで、しかもまた生きかえったことになるのだ。中国人のように、異常な人生を送ることになるのである。いわば、不自然に活発で、不自然に健康で、不自然に冷淡にならざるをえないだろう。悲劇感は消え、花や岩や木のように生き、自然と戦いながら、しかも同時に、自然とともに生きるようになるのである。たとえ、最も親しい友人が死んでも、その葬式に行こうとはしないだろうし、目の前でだれかが電車にひかれても、知らぬ顔で行きすぎるだろう。戦争が起きれば、友人たちを戦線へ送り出すことはしても、自分自身は、そんな殺生なことには、なんら興味を持とうとしないだろう。すべてが、そういうぐあいになるのである。》
・十字架にかけられて生命を保ったキリスト
・十字架にかけられずに生命を保つことになる人
両者の対比がわかりにくいが、いまは措く。
ともかく、ある人が絶望と無能感を超越して生きながらえると、その人は中国人のような異常な人生を送ることになるのだという。その人生とは――
「復活」の実相
《There was a resurrection which is inexplicable unless we accept the fact that men have always been willing and ready to deny their own destiny. 》
原文に "a resurrection" とあり、文脈から見て明らかにキリストの復活を指すが、ならば普通は "the Resurrection" とするところを、なぜ不定冠詞・小文字にしたか。
答えは、それが特別な復活だったから。その特別さを "the" の代わりに "a" で示す曲芸がここで行なわれている。
ある復活があった。それは、ある事実を受け入れないと説明のつかない復活である。その事実とは、人々はつねに自らの(死すべき)運命を否定すべく望みつづけ待ちつづけてきたという事実である。その願望の実現としてキリストは延命した。それが「復活」と呼ばれる出来事の実相。
キリストの復活によって人々は生命の永遠という安心を得たが、ミラーは逆に失われたものにこだわる。それがミラーの「中国」ないし「中国人」なるもの。
ここで話はキリストの死に転じる。その復活ということの意味。
《ある意味では、ある深い意味でいえば、キリストは、その袋小路から全然押し出されなかった。彼が、よろめきながらふらふらと外へ出ようとした瞬間、その否定の逆流は、まるで大きな反動で巻き返されでもしたように彼の死に待ったをかけたのである。人間の否定的な全衝動が、人間の完全体を創り出すために凝結して、奇怪な不活発なかたまりになり、まとまった一人の人間の姿を生んだものらしい。復活ということも、人間はつねに自分の運命を否定しようとしている事実を認めなければ、説明のつかないことである。地球は回転し、星は回転するが、人類は――世界を構成する人間の総体は――一人の、ただ一人のイメージに集約されているのである。》
ミラーはキリストの復活を良きこととは見ていない。それどころか、キリストは死ななかった、彼の死は「待った」をかけられた、それがいわゆるキリストの復活であるとする。
キリストの延命という出来事は、人々の願望に応えて起こった。その認識を示したのが訳文後半の「復活ということも…」ではじまるセンテンスである。原文は次エントリーで。
『南回帰線』つづき。
世の中の正常にあわせようとすること。
《かといって、もし他人の笑うときに笑い、他人の泣くときに泣いていたら、結局は、他人の死ぬように死に、他人の生きるように生きなければならなくなるだろう。ということは、自分を正常な人間にしようとして、それに負けることである。生きているあいだ死んでいること、死んだときしか生きられないことを意味する。そのような人間社会のなかでは、世の中はいつも、たとえ最も異常な状態にあっても、正常な様相を帯びる。ものごとはすべて、それ自体正しいわけでも正しくないわけでもなく、ただ考えかたによってそうなるだけの話である。もはや現実を信じないで、人の分別だけを頼ることになる。そして、その袋小路から押し出されるときには、思想もいっしょについて行くが、しかし、そのときには、もはや思想は、なんの役にも立たなくなっている。 》
世の中は正常であるかのような見せかけで動いている。その正常にあわせることの無意味。
袋小路から押し出されるとは、死ぬこと。
誰が社会から誤解されているか。浮いているか。
欧米社会で浮いているのはユダヤ人や中国人である。一般化していえばよそ者、中国人を自認するミラーもその一人。
ところが、"If it happens that you are neither of these" をそのまま(正しく)訳した場合、「諸君」にはユダヤ人や中国人は含まれず、もっぱら欧米人が「いつもおかしくないときに笑う」ことになって、本来はよそ者のふるまいである場違いな笑いが、欧米人に帰せられてしまう。これはミラーの認識ではない。「おそろしく陽気」で「不自然な明朗快活さ」を身につけているのは、ユダヤ人や中国人でなければならない。
東洋(中国)の異常をもって西洋の正常を撃つ。それがここでのミラーの姿勢だろう。そのことは、以下で見る後続の段落でも一貫している。その流れに従うなら、上の段落の意味は、「もし諸君が中国人だとしたら、精神が強靭で忍耐強いだけなのに、ここ西洋では残酷で薄情な人物と思われている」であるべきで、大久保訳はそのようになっている。
無意識のうちに行なわれた直感的誤訳か、それとも意図的誤訳かは別として、以下ではこの誤訳を含む大久保訳に拠って話を進めたい。むしろそうすることで、以後の『南回帰線』の文脈と矛盾なくつながる。
ドゥルーズ&ガタリ『千のプラトー』の中国人のイメージはヘンリー・ミラー由来であること。
《長いあいだ奈落のふちで体のバランスをとりつづけていると、ついにはそれに熟練してくる。どっちへ押されても、しゃんと立っていられるようになる。こうして、恒常的な均衡状態のなかにいると、おそろしく陽気になる。いわば不自然な明朗快活さを身につけるようになるのだ。現在の世界には、以上の論旨をよく理解してくいる人種が、二つある――ユダヤ人と中国人である。もし諸君が、たまたまそのどちらかの人種に属していたとしたら、諸君は、たぶん奇妙な窮地におちいることがあるにちがいない。諸君は、いつもおかしくないときに笑うくせがある。そのために、諸君は、実際は忍耐強く神経が太いだけにすぎないのだが、非常に残酷な薄情な人間であるかのように思われてしまうのである。》――大久保康雄訳『南回帰線』
やや意味を取りにくいが、「諸君(you)」が何を指すかを考えたい。この語は「人は」とか「誰でも」とも訳せるが、この文脈での具体像を絞れば、英語圏ないし欧米言語圏の人物ということになろう。そう考えた場合、この段落の意味は「欧米で暮らすユダヤ人や中国人は、人格を誤解されざるを得ない」となる。
ハッシュタグの問題
https://docs.joinmastodon.org/ja/user/posting/#hashtags
中黒の使えないのがつらい。
ヘンリー・ミラーの場合、自分の記事を検索するだけなら「#ミラー」で足りるが、公的なものだとすると他の人名に広く一致してしまうし、鏡にも一致。
アンダーバーは使いたくない。
残るのは「#ヘンリーミラー」「#HenryMiller」あたりか。
ひきつづきミラー『暗い春』から
あてもなく雨のなかを歩いているうちに、かつて何度も夢で見た街に出て、それがいま現に自分の歩いている街なのだ、ということがある。
ある日、そんな街で男が舗道に倒れていた、両腕を広げ、ちょうど十字架からおろされたところといった格好で。
ふいに男を囲んだ人の群から嵐のような笑い。
私が人をかきわけて前に出ると、犬がうれしそうに尻尾を振っている。男のズボンの前が開いていて、犬はそこに鼻を突っ込んでいた。
別の日の同じ場所、肉屋の前の通りに男が倒れていた。
近寄って見ると、前と同じ男だった。ズボンのボタンははめてあり、そして死んでいた。
男の死骸のほかに人影はない。人声も嵐のような笑い声もない。
だが、夢ではなかった。ならば、私は気が違ったのか。
両手を広げて肉屋の前で倒れていた男は、この私ではなかったか。
私は自分が訪れた先で、いつも死骸をひとつ残してきた。
そのたびに私はかがみ込んで、私が置き去りにしようとしているものが、私の自我であることを確かめた。
私は同じことを繰り返して生きてきた。いまも繰り返している。
雨が降り出すなかを、あてもなく歩きはじめると、旅の途中で脱ぎ捨ててきた自我のすれあう音が聞こえてきて、さて私は、これから先どうなるのだろう。――
ヘンリー・ミラー『暗い春』にもどる。
ひきつづき私ミラーはパリにいる。
毎晩、ラ・フルシュに通う道でひどい目にあう。
頭の皮を剥ぎ取られ、斧を打ち込まれる。
家に帰ると、血を洗い流して、大いびきで眠り込む。かくして私は、身体と魂の安泰を保つ。
私の住んでいる家が、現在、取り壊し中。
外壁が剥がされ、皮を剥ぎ取られた人体にそっくり。その恐ろしい感じがいい。
家の内部がさらされればさらされるほど、私はこの家が好きになる。
幌無しの馬車を雇ってブロードウェイを走らせたことがある。秋の午後、自分の生まれた街を馬車で通り抜けたのだ。
四十二番街まできたとき、私は所持していたピストルを打ちはじめた。
左右に打ちまくったが、人の群は減らない。
生きた者は死んだ者を笑顔で乗り越えていった、白い歯を見せびらかして。
アメリカは貧乏人に笑顔を向ける。笑顔に金はかからない。
笑顔をやってろ、糞ったれども。
地図の上で私はパリにいる。暦の上では今は20世紀の30年代。
だが私はパリにいるのでもなく、今は20世紀でもない。
私は中国にいて、中国語で話す。
荷船で揚子江を遡っているところだ。
食物はアメリカの砲艦が捨てたごみを拾い集めている。
作者による結語
《ルイーズ・メニャンが首を絞められて死んだ瞬間、六万七千余の姉妹たちも首に手をあてながら、幸福そうな微笑をうかべて最後の息をひきとった。そのうちのある者たち――バーベリ夫人やスミスソン夫人のような――は、ぜいたくな墓場に眠り、他の者たちは時間がたてばすぐに消えてしまいそうな、ただ土を盛りあげただけの簡単な墓の下に眠っている。サビーヌはモンマルトルのサン・ヴァン街の小さな墓地に埋葬され、彼女の友だちが時々墓参りにやってきた。人々は思うだろう――彼女はいま天国にいるのだと、そして最後の審判の日に、彼女と六万七千の姉妹たちは生き蘇るだろうと……。》――中村真一郎訳「サビーヌたち」
サビーヌの分身たちが幸福に死んだらしく書かれている。作者の皮肉なのか。それとも、彼女らの幸運を信じて書いたのか。
謎めいた締めくくりだが、これについてはミラーの『暗い春』と対照させて考える。
分身の総数が6万7千に達した時点で破綻が訪れる。
サビーヌは自分の浮気のためにつくった分身ルイーズ・メニャンに、夫を裏切った責を負わせ(たしかに浮気の当事者はサビーヌではなく、ルイーズなのだが)、貧民街の掘立小屋に追放する。
ゴリラにたとえられる毛むくじゃらの大男が掘立小屋に押し入ってルイーズを犯す。この出来事は、他のサビーヌの分身たちをも打ちのめした。分身たちは身体こそ別々だったが、心はたがいにつながっていたので。
大男は毎週小屋をおとずれて、そのたびに2日間にわたってルイーズを犯す。そのなかで、物語をしめくくるにふさわしい、ある和解がおとずれようとするが、ルイーズがゴリラ男に絞め殺されてその機会は失われる。
サビーヌの分身たちは、サビーヌ本人と同じように自分の分身をつくることができ、恋や浮気や結婚、あるいは他の事情でさかんに分身をつくるものもあり、分身の数は急速に増えていった。
なかでもサビーヌの直接の分身で、スペインの探検家と結婚したロザリーは、宗教的な問題でパプアの原住民に夫を食われてしまうと、世界中で愛人をつくりはじめた。船乗り数名、農園主数名、海賊数名、役人数名、カウボーイ数名、チェスのチャンピオン1名、そのほか運動選手から医師、弁護士まで、若くは高校生まで含めて愛人のリストは広がり、ロザリーにはじまる分身は3カ月で990人に達し、さらに6カ月後には1万8千に達した。
サビーヌの場合
サビーヌはマルセル・エイメ「サビーヌたち」(短編集『壁抜け男』所収)の主人公。
彼女の夫は、彼女が食堂の肘掛け椅子でくつろぎ、微笑を浮かべている姿を見るのが好きだった。だがそんなとき、抱きしめてやろうと彼女に近づいたりすると、彼女はいらだたしげに身を離してしまうのだった。
じつはサビーヌには同時存在の能力があり、自分とそっくりの分身を幾人でもつくることができた。彼女が自宅の椅子で幸せそうな笑みを浮かべているとき、彼女の分身は画家志望の若者のアトリエで甘い言葉をささやかれている最中だったり、あるいは別の分身がカサブランカのホテルで美男の憲兵隊長と食事をしているところだったりする。
引き続き「中国彷徨」から。
《午後、ラ・フルシュに腰を下ろして、私は静かに自問する、「ここからどこへ行こうか」と。日が暮れる前に、私は月まで行って帰ってきてるかもしれない。ここ、分岐点にすわって、私のすべての自我、どれも不滅であるそれらを私は思い返す。私はビールを飲みながら涙を流す。夜、クリシーに歩いてもどって行くときも気分は同じだ。ラ・フルシュに来るたびに、私の足元から果てのない道が放射状に広がり、私という存在に住みついた無数の自我が歩き出すのが見える。私はそれらの自我と腕を組み合い、かつては私が独りで歩いた道、すなわち生と死の強迫観念に憑かれた道をともに歩く。私はこれら自分が作り出した仲間たちと多くを話す。かりに私が、不運にも一度しか生と死を経験できず、永遠に孤独になってしまったとしたら、自分自身に語りかけることになるだろうほどにである。今、私は決して独りではない。 最悪の場合でも、私は神とともにいる! 》
私は独りではない、今は。
私には無数の自我がある。私が何度も死に、何度も生まれてきたからである。
私はそれらの自我と手を組み合って、かつては独りで恐れつつ歩いた道を、言葉をかわしながら行く。
無数の自我とあるのが、エイメの「サビーヌたち」を思わせる。