作者による結語
《ルイーズ・メニャンが首を絞められて死んだ瞬間、六万七千余の姉妹たちも首に手をあてながら、幸福そうな微笑をうかべて最後の息をひきとった。そのうちのある者たち――バーベリ夫人やスミスソン夫人のような――は、ぜいたくな墓場に眠り、他の者たちは時間がたてばすぐに消えてしまいそうな、ただ土を盛りあげただけの簡単な墓の下に眠っている。サビーヌはモンマルトルのサン・ヴァン街の小さな墓地に埋葬され、彼女の友だちが時々墓参りにやってきた。人々は思うだろう――彼女はいま天国にいるのだと、そして最後の審判の日に、彼女と六万七千の姉妹たちは生き蘇るだろうと……。》――中村真一郎訳「サビーヌたち」
サビーヌの分身たちが幸福に死んだらしく書かれている。作者の皮肉なのか。それとも、彼女らの幸運を信じて書いたのか。
謎めいた締めくくりだが、これについてはミラーの『暗い春』と対照させて考える。
引き続き「中国彷徨」から。
《午後、ラ・フルシュに腰を下ろして、私は静かに自問する、「ここからどこへ行こうか」と。日が暮れる前に、私は月まで行って帰ってきてるかもしれない。ここ、分岐点にすわって、私のすべての自我、どれも不滅であるそれらを私は思い返す。私はビールを飲みながら涙を流す。夜、クリシーに歩いてもどって行くときも気分は同じだ。ラ・フルシュに来るたびに、私の足元から果てのない道が放射状に広がり、私という存在に住みついた無数の自我が歩き出すのが見える。私はそれらの自我と腕を組み合い、かつては私が独りで歩いた道、すなわち生と死の強迫観念に憑かれた道をともに歩く。私はこれら自分が作り出した仲間たちと多くを話す。かりに私が、不運にも一度しか生と死を経験できず、永遠に孤独になってしまったとしたら、自分自身に語りかけることになるだろうほどにである。今、私は決して独りではない。 最悪の場合でも、私は神とともにいる! 》
私は独りではない、今は。
私には無数の自我がある。私が何度も死に、何度も生まれてきたからである。
私はそれらの自我と手を組み合って、かつては独りで恐れつつ歩いた道を、言葉をかわしながら行く。
無数の自我とあるのが、エイメの「サビーヌたち」を思わせる。