《すでに言ったように今日は春の三日目か四日目で、哀れで惨めな気分の春なのに、寒暖計のせいで私は南京虫みたいに気がおかしくなってゆく。読者は多分、私がずっとクリシー広場に腰をおろして、アペリティフを飲んでいたと思っている。じっさい私はクリシー広場に腰をおろしていたが、それは二、三年前の話だ。また、小さなトム・サムのバーにもいたが、それも長い昔のことで、以来ずっと蟹が私の急所をかじってる。すべてはパリの地下鉄(一等席)で、l’homme que j’etais, je ne le suis plus(私はもう以前の私ではない)というフレーズとともにはじまった。》――ヘンリー・ミラー『暗い春』
《ミーリア叔母さんがすっかり頭が変になっていて、通りの角まできたとき馴鹿(トナカイ)のように飛びあがって、月をひと口食いちぎるなどとは誰も思っていなかった。(……)「月、月」とミーリア叔母さんは叫んで、それと同時に、魂がからだから飛びだし、一分間に八千六百万マイルの速力で月に向かって突進していって、だれもそれを留めるのに必要な速さで考えることができなかった。星がひと瞬きするうちに、そういうことが起こってしまったのだった。》――ヘンリー・ミラー『暗い春』(吉田健一訳)
これも「仕立屋」の章から。
続くくだりは、叔母さんを精神病院に届けるよう言いつけられたわたしの目で長々と語られて、次のように終わる。
《わたしは行かなければならない。駆けて行かなければならない。しかしわたしはまだ一分間もそこに立って、ミーリアのほうを見ている。その眼は驚くほど大きくなって、夜のように黒く、なぜこんなことになったのかどうにもわからないようすでわたしの方を見つめている。狂人や白痴はあんなふうに人を見はしない。天使か、聖者でなければあんな眼つきはできない。》
《温度は零度までさがっていて、馬に片腕を噛み取られてしまった狂人のジョージが、死人の古着を来ている。零度で、ミーリア叔母さんが帽子のなかに入っていたはずの小鳥を捜しまわっている。零度で、曳き船が港であえぎ、浮氷がかち合い、煙の細長い筋が曳き船の前後に巻きあがり、風が一時間七十マイルの速力で吹き、何トンも何トンもの雪が小さな雪片に砕かれて、そのどの一ひらにも短刀が隠されている。窓の外にはつららが栓抜きのようにさがり、風が唸り、窓ががたがたいう。ヘンリー叔父さんは、「中学五年万歳」を歌っている。胸がはだけ、ズボン吊りははずされ、額に青筋がたっている。「中学五年万歳」》――ヘンリー・ミラー『暗い春』(吉田健一訳)
「仕立屋(The Tailor Shop)」の章から。
「中学五年万歳」の原文は Hurrah for the German Fifth。それと思われる歌詞が「アメリカの古い歌」と題してネット上にある。
https://www.traditionalmusic.co.uk/songster/pdf/02-the-german-fifth-song-lyrics.pdf
ミーリア叔母さんの思い出に駆動されたわたしの興奮は、翌日の夜中になっても収まらず、自分は絵が描きたいのだと気づいて、水彩で馬を描きはじめる。
絵が出来ていく時間的経過をミラーは記していないが、邦訳の文庫版(福武文庫)で20ページ分の試行錯誤をかさねて絵は出来上がり、これほどのものは二度と描けないだろう傑作として、いま目の前の壁にかかっている。
この傑作には、ウラル山脈の向こうの湖や、いつかできるはずのコロラド川の河口や、墓地の門から忍び込む異族や、その他さまざまなものが描きこまれているのだが、そうか、おまえには見えないのか。でも、氷河に凍らされたみすぼらしい青い天使は見えるだろう。その天使は、おまえの目が間違っていないことを保証する透かしのように、そこにいるのだ。
ここでの「わたし」と「おまえ」は、どちらもミラー自身を指している。描いた者も、見ている者も、描かれた天使もミラーなのである。
この章は次のようにして終わる。
わたしはその絵の馬のたてがみから神話を消すことはできる。また揚子江からその黄色を、ゴンドラに乗っている男からその時代を、また花束と稲光をいっしょに包む雲や薄葉紙を消すこともできる。……だが、天使は消せない。天使はわたしの透かしなのだ。
自転車で出かけて、コールド・チキンとワインをたのむ。ワインを2本飲んでも眠くならない。すでにテーブルの上はメモでいっぱい。チーズとぶどうと菓子を注文。おそろしく食欲があるが、何を食べても自分の胃には入らず、誰か他人がわたし=ミラーのかわりに食べているように感じる。
帰りにカフェでコーヒー。あいかわらず誰かがわたしに口述を続けている。夕食後、疲れ果てて古雑誌を手に取る。開いたところに「ゲーテとそのデーモン」という文字。わたしは鉛筆で余白を埋めはじめる。
真夜中、わたしは元気を取りもどす。口述はやんでわたしは自由だ。作品を書く仕事にもどる前に自転車でひとまわりしてこよう。
自転車の掃除をはじめる。スポークを一本一本きれいにし、油をさし、泥除けを磨く。出かける前にぶどう酒を一本あけ、パンとソーセージ。いままでの食事はすべて無駄だったが、いまは確かに自分が食べている。
タバコを一服するために腰をおろす。「芸術と精神病」というパンフレットが目に入って、わたしは自分がほんとうは絵を描きたがっていると気づく。
ヘンリー・ミラー『暗い春』の章「わたしには天使のすかしが入っている(原題 The Angel Is My Watermark!)」は、ここまでを前置きとして、本題に入る。
《わたしはミーリア叔母さんのことを思い出したので、そのとたんにわたしの全生涯が、地面への出口を見つけたばかりの間歇泉のように吹きあげてきたのだ。わたしはミーリア叔母さんと家に歩いて帰る途中で、急に叔母さんの頭が変になったことに気がつく。叔母さんが、月が欲しいと言いだして、「あすこにあるの、あすこにあるの」と叫び始めたのだった。》――ヘンリー・ミラー『暗い春』(吉田健一訳)
わたし=ミラーは、自分の手帳をめくっていて、このことを思い出す。
手帳の記述はわずかな言葉に圧縮されていて、一年間の苦労が一行で片付けられていたりした。
ミーリア叔母さんのことを思い出したのをきっかけに、ミラーは口述をはじめる。「口述」とはミラー自身のしゃべるままにタイプライターで打ち出すことを言っている。
午前10時にはじまった口述は翌朝の4時までつづいた。
タイプライターを片付けると、ミラーは口述記録を紙に書き取りはじめ、さらに旧作の原稿を取り出し、わたしは腹ばいになって鉛筆で注をつけていった。
わたしは張り切っていたが、心配でもあった。この調子で続ければ、どこかの血管が破れるかもしれない。
午後3時。ようやくミラーは書き取りをやめて、食事にでかける。
引き続きサルトル「指と指ならざるもの」から。
《彼ほど自分自身に忠実だった人間はいないが、この人物ほど「私は一個の他者である*」ことを私にはっきり感じさせてくれた者はいない。彼は苦しんでいた。誰かが彼の思想やイメージを盗み、醜悪無惨なものと代えてしまったのだ。それらが彼の頭を満たし、眼のなかに積み重なっていた。いったいどこからやって来たのか? どんな幼年時代が立ち現れたのか? 私は知らぬ。彼が、自分が何かに操られていると感じていたこと以外は、何ひとつ確かではない。》
*はランボーの言葉
《クレーにとっては、世界は、尽きることなく作られ続けている。ヴォルスにとっては、世界はその内部にヴォルスを含んですでに作られている。前者は、活動的であり、«存在の計算者» であって、はるかな道を辿っておのれ自身に立ち戻る。彼は ‹他者› のうちにあってさえ彼自身だ。後者は、おのれを耐えている。つまり、彼は、おのれ自身の奥底においてさえ自己以外のものであって、ヴォルスの存在とは彼の他者存在なのだ。》
折あるごとに自身を他人として切り捨てたヘンリー・ミラー vs 他者性に苦しみ続けたヴォルス?
あるいは、ヴォルスもミラーと同じ境地に落ち着くことに?
《パリには、私の好きなホテルがいくつもある。
中でも、かつてヘンリー・ミラーが愛したクリシーの安宿のベッドが印象に残っている。
娼婦と行きずりの男が、一夜だけの愛をかわした記念に、
イニシアルを彫りこんだり、拷問具をくくりつけたり、枕の下に拳銃をかくしたりした、無頼漢の思い出の残るベッド。
そして一人旅の長い夜をもてあまして、とうとう一睡もせずに、
シムノンのメグレ警部ものを読みあかしてしまったベッド。
東洋人の双生児の姉妹が心中した、といういわくつきのベッド。
ベッドの一台ずつに人生のドラマが沁みついている安宿で…》――寺山修司『幻想図書館』
自分の書くものに少なくとも一つ嘘を混ぜ込んでおく。
そういう習慣はどうだろう。
そうしておけば、
資料とか、論理とか、かならずしも本質的でないことに気を使わなくてすむ。
ヘンリー・ミラー『暗い春』の「私」は、自分が何度も死に、何度も生まれ変わったことを肯定的にとらえている。
https://fedibird.com/@mataji/111167994430031411
それに対し、上で引用した映画『Les Autres』の主人公スピノザの台詞は、この限りでは否定的なものに聞こえるが――
この人物について、ある評者は、
《偽りのアイデンティティー、書物、普段の身振りから抜け出るに従って、また自分に出会うのだ。》
として、次のように言っている。
《スピノザは神秘的で荒々しい輝ける複数の人物、他者(はみだした男)に姿を変える。(……)スピノザがみずから分解してゆくにつれ、彼の眼差しもいきいきとしてくる。そして彼はアルゼンチンの海辺のようなアキテーヌ地方の海辺の風のなか、ピカソが描く以前にクラナッハが描いたような身体を持つ一人の女の傍にいて幸福に近づくのだ。》――アラン・トゥレーヌ「他者たち」(千葉文夫訳、『夜想#16』)
なるほど、この映画も自分を捨てて他者になることを肯定してるわけだ。
で、どうしよう。シナリオの訳文は『夜想』に載ってるし、映画もYouTubeで見られそう。成り行きにまかせてこちらを少し追ってみるか。それとも切り上げるか。
《二十世紀がその絶頂に達して、太陽が腐りかけ、小さな橇に乗った男が「愛の歌」をピッコロで吹いている今日ほどにも、美しい日は私の記憶にない。この今日が私の胸のうちで、あまりに気味悪く光り輝くので、たとえ私がこの世でもっとも悲しい人間だったとしても、この地球を離れたいとは思わないだろう。(…)明日になれば、世界中の都会が崩壊するだろう。そして地上にいる文明人はすべて、毒と鋼鉄のために死に絶える。(…)しかし今日はまだ室内楽や、夢や、幻覚のうちに過ごすことができる。最後の五分間なのだ。》――ヘンリー・ミラー『暗い春』
ミラーのイメージにそぐわないが、とぼけたかったらピッコロ、そんな感じが好みなのか。最後の五分間だし。
そういえば、王宮の庭でピッコロを吹いていて国王と面識を得た盗賊がいたはず。
調べたら名はクロード・デュヴァル、王は17世紀イギリスのチャールズ2世。ただし、楽器の名はフラジオレ。こちらは縦笛で、リコーダーの一種。ピッコロとは別物ということで、記事にする理由がぼけてしまったが、まあ、いいか。
フラジオレット | 武蔵野音楽大学
https://www.musashino-music.ac.jp/guide/facilities/museum/web_museum/flageolet
《東はモンゴルから西はレッドウッドまで、脈は行きつ戻りつしている。玉ねぎが行進し、卵がおしゃべりをし、動物群がコマのように回転している。浜には何マイルもの高さでイクラが層をなし、波が砕けて長いムチを振るう。潮は緑の氷河の下で吠える。地球はますます速く回転する。》――『暗い春』
これもダダ風だが、今はおいて、冒頭の「東はモンゴルから云々」について。
原文は、East toward the Mongols, west toward the redwoods, the pulse swings back and forth.
redwood は一般にはスギやヒノキなどの植物を指すが、ここではカリフォルニア州にあるレッドウッド国立公園の一帯を指す固有名詞と見るのがいい。
レッドウッド国立公園 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/レッドウッド国立公園
そのうえで、東西の中央に日本を置いた世界地図ではなく、左端にアメリカ大陸を置き右端に日本(東アジア)を置いた世界地図をイメージしてこの一節を読むと、ミラーの世界観が味わえる。世界がその西端から東端にわたるスケールでスイングしてるのである。
同様のことは前にこちらでも書いた。
https://fedibird.com/@mataji/111344209726963846 [参照]
1924年夏、宜昌の港には、アメリカ2、イギリス3、中国1、日本1、計4カ国7件の商館があり、また6カ国の砲艦が停泊して自国民の保護にあたっていた。――とアリス・ホバートの長編小説『揚子江』の一節にあり。同書は揚子江での汽船就航に賭けたアメリカ人一家のファミリーヒストリー。航路の開拓には成功するが、最後は日本軍によって追い払われる。
『揚子江』というタイトルにひかれて、もしやと流し読み。ミラー『暗い春』の、ダウ船で揚子江を遡るとか、アメリカの砲艦が捨てた残飯とかのイメージのソースかもと思ったのだが、はずれ。ともかくこの時期、小説や映画もまじえて大量の中国情報がアメリカにも流れこんでいた。パール・バック『大地』なども。
揚子江 - 国立国会図書館デジタルコレクション
https://dl.ndl.go.jp/pid/1244269/1/24
Hobart, Alice (Nourse) Tisdale | Encyclopedia.com
https://www.encyclopedia.com/arts/news-wires-white-papers-and-books/hobart-alice-nourse-tisdale
宜昌市 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/宜昌市
これもミラー『暗い春』から。
《髪を逆立て、走らず、息もせず歩く男、風見鶏を持ったそいつは街の角々をすばやく曲がって逃げ出す。手段も目的も考えず、ただ、伸びたひげを刈り込んで、すべての星を左舷に見ながら暗い夜の下を歩くことだけ考えている。泥濘のなかで売りつけて、左から右へと同調させた落とし穴で原告の夜を目覚めさせ、冬の海は正午で、船上も空中もどちらを見ても右舷に向かって正午。またも風見鶏が、長い櫂とともに舷窓を通り抜けて、すべての物音が消されてしまう。四つんばいの夜はハリケーンのように音がない。キャラメルとニッケルダイスを詰め込んだ無音。モニカ姉さんはギターを弾いている、シャツの胸ははだけ、腰紐はずり落ち、両耳に広い縁をつけて。モニカ姉さんは石灰と歯磨きで縞々、目はカビが生え、叩かれ、叩かれて、銃眼状。》
もちろん既訳書は参考にしてるし、Google や DeepL 翻訳のサービスも試してるが、どうにもならない。
ダダですね。
時空が交錯し、事物が現実世界ではありえない仕方でつながっている。ヘンリー・ミラーがダダイズムやシュルレアリスムを名乗ったことはないらしいが、ダダはアメリカで完成したとする見方の根拠になりうる例。『暗い春』のかなりの部分がこんな調子で書かれている。
列子が用いた「種」と「機」は同じことの二つの側面で、「種」が物としての側面、「機」がメカニズムの側面。
ここでの列子の言は「万物皆出於機、皆入於機」と締めくくられ、すべての物は「機」によって生じ「機」に帰るの意だが、「種」に置き換えても同じ。すべては「種」から生まれて「種」に帰る。
この締めくくりを敷衍したような表現がミラーの『暗い春』にある。
こちらでは、用語「芽」が「種」と「機」を兼ねている。
《肉体の耐久力には限界があると人は思うかもしれないが、じつは限界などない。我々の身体はどんな苦痛をも超越した高みにあり、何もかもが死滅したあとも、足の指の爪とか、ひとつかみの髪の毛ぐらいは必ず残って、それが芽を出し、永遠に残っていくのはそうした不滅の芽なのである。》――ヘンリー・ミラー『暗い春』「中国彷徨」
ある日、皆でクリーニングの仕上がりを取りに店を訪れた私たちは、その中国人にひどく驚かさせることになった。彼は私たちに仕上がり品を渡すと、帳場の下からレイシの実をたくさんつかんで、笑いながらドアから出てきた。
そして笑ったまま、いきなり一人の耳を引っ張った。さらにつぎつぎに私たちをつかまえては、にやにやしながら耳を引っ張ったかと思うと、急に残忍な表情を浮かべ、帳場に飛び込むや長い不格好なナイフを取り出してきて、切っ先を私たちにむけて振り回した。
私たちはわれさきに店を飛び出した。街角まできて振り返ると、彼はアイロンを手に何事もなかったような顔で入り口に立っていた。
ミラーが同じ『南回帰線』の中で、「中国人のような異常な人生」とか、「不自然に活発で、不自然に健康で、不自然に冷淡」などと中国人の属性を述べるとき、そこには賛嘆の気持がこめられているのだが、このクリーニング店員の振る舞いとどうかかわっているのだろう。
私はある偽名を使って詐欺をはじめた。
香港では書籍販売人として身分登録し、教養をつけたがっている中国人宅を一軒残らず訪れた。財布の中はメキシコ・ドルでいっぱい、ホテルではハイボールでも注文するみたいに女を注文したが、中国人を騙すのはやさしすぎて面白くなくなり、マニラに移って同じ商売をつづけた。――
などと、ミラーの『南回帰線』にある。ただし、フィクションのはず。
中国や中国人に人の生き方の理想を見るようなことを述べる一方、20世紀前半の現実世界で出会う中国人や、出会う可能性のある中国人については、ミラーは賛美していない。
同じ『南回帰線』に、少年時代のニューヨークでのこととして、次のようなスケッチがある。
女の子のような年上の男の子がいた。私たちはその子を地面に引き倒して服をはぎ取ったりした。ゲイボーイがどんなものか私たちは知らないまま、なんとなく反感を持っていた。
私たちは中国人にも反感を持った。
街はずれの洗濯屋に中国人が一人いた。
教科書にのっている苦力(クーリー)の写真にそっくりの顔で、弁髪をうしろに垂らし、両腕を服の中に入れたまま、妙に気取った女性的な歩き方をした。彼は悪口にも無関心で、侮辱に気づかないほど無知のようにも見えた。ところが――
《私は旧世界の人間であり、風に乗って移植された種であり、キノコのものにすぎないアメリカのオアシスでは開花しそこなった種である。私はかつての巨樹の系統に属している。私の恭順は、肉体的にも精神的にも、その昔、フランク人、ガリア人、バイキング、フン族、タタール族などであったヨーロッパの者たちにある。私の肉体と魂にとっての風土は、素早さと腐敗のあるここにある。私はこの世紀に属していないことを誇りに思う。》――ヘンリー・ミラー『暗い春』
アメリカ大陸を左端に置き、日本を含む極東を右端に置いた地図上で考えると、上の言はよりイメージをともなって理解できる。
私の郷土はここアメリカではない。郷土はヨーロッパである。さらにその由来をたどれば、ユーラシア大陸のかなた、匈奴や韃靼の極東がわが郷里である。私は東方からやってきた。
紫大納言の場合
これも坂口安吾の短編「紫大納言」に描かれた「ぜい肉がたまたま人の姿をかりたように」太った色好みの大納言も、自分をほどいてしまった人物か。
青空文庫の「紫大納言」
https://www.aozora.gr.jp/cards/001095/files/42764_33439.html
「風博士」も「紫大納言」も、人の消滅を描いて笑話的に終わる。
とはいえ、博士や大納言をおとしめて終わるのではない。かといって、嘆くわけでもない。あはは、そんなわけで消えてしまいました。人物たちもそのように終わり、小説自体もそのように終わる。
死を悲劇的なものとは見ない。『荘子』や『列子』の死の認識に通じる。ミラーの死生観とも。