深作欣二監督『上海バンスキング』放送予定
BS松竹東急 2024年9月19日(木)午後8:00~10:22
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なぜ、折口信夫ではなく、柳田国男を出したのか

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柳田国男博士が、黒い円形のボール紙のようなものを取りだして、しんとくに言う。

《これを、
ぴったり壁に貼りつけると、そこから壁の向こうへもぐっていける。
これ一つで、
世界中に出口ができる。
ゴムのように、
のびちぢみ自在、
持ちはこび自在、
こうして、小さくたたんで
のぞき穴にすることも、
床の上にひろげておいて
おとし穴にすることもできる。
ホラ、こうやって、
地面におくと、それでもう、
下へ降りてゆくことも
できるのだよ。》――寺山修司『身毒丸』

《一方の足に重傷を負うという目にあった事故のあと数年間は、人はジャコメッティがステッキをついて歩く姿をしか見なかった。そして、ある日彼はこの道具なしに歩くことを決心した。こう決めるとすぐ彼は支えなしに身体を動かした。同様に、彼の彫像もつねに、ステッキや松葉杖なしで立っている。》――ミシェル・レリス『獣道』

金谷治「芭蕉における荘子――江戸期の老荘受容と対比して――」
ajih.jp/backnumber/pdf/30_02_0

「荘子受容の歴史のうえに占める芭蕉の地位の重要さ」と論文末尾にあり。

他の関心もあってミシェル・レリスの『獣道』(後藤辰男訳)を取り寄せた。
原題は「Brisées」。巻頭にフランス語辞典の一節が掲げてあり、邦題の「獣道」とはかなり意味がずれている。

このずれについての訳者の弁は次のとおり。
《語義的忠実さからすれば、「折り枝(標識用の)」というのが穏当かもしれない。だがこれでは語義の一つの背後にある猟犬を使っての狩猟のもつ緊迫感、殺意、現実に起るであろう虐殺の印象は伝わりにくく思われ、Briser→Brisé→Brisées(折る→折られたところの→折り枝)という音が含む切迫感、不可逆的印象も何か間遠くなるように思われたのである。》

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けもの道だな、おれの。
二、三度来ただけだが、おぼえはある。
だが、どこへ行こうとしたのか。
そこへは行けたのか、行けなかったのか。
そもそも、どこへ行くつもりもなく、ただ来ただけか。それなら、いかにもおれらしいが。

ふと見ると、赤いカラスウリの下がった茂みのむこうに、別のけもの道。
人のにおいも混じって、どこへ行くのか行かないのか。

人は誰も過去を作り出す。ただ思っただけにすぎないのに、その思ったことをもって、過去もそうであったと思い込む。
記憶とはそのようなもの。
寺山だけが過去を創作してしまうのではなく、誰もが過去を創作する。

《記憶なるものの凡てが想起という経験を擬似的に説明するための形而上的仮構なのである。当然その想起以外に記憶の証拠となるものはない。こうして虚構に導いたものは想起経験の中で経験される過去性である。つまり、過去として何かが経験される、という想起経験の本質が自然に過去という実在を想定させてしまうのである。》――大森荘蔵「言語的制作としての過去と夢」

過去の創作は、基本的には無意識的に行われるが、意図しても行われる。
寺山の場合、意図的な過去の創作は文章作法の一部。エッセイでも、論文的なものでも、論旨を支える要所に、創作された過去が置かれている。

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《私が迷路に興味を持つようになった動機は、半人半牛の男が、螺旋状の中心でもの思いにふけっている一枚の画であった。
射手座生まれで、人馬宮に属する私にとって、この男(すなわちミノタウロス)の運命は、そのまま自分のことのように思われたのである。(……)何の科もなく半獣半人として生まれたばかりに殺されてしまうミノタウルスが気の毒でならなかったが、それは私自身の生まれ月(ホロスコープ)のせいと言うべきだろう。》――寺山修司『不思議図書館』

上半身が人間で下半身(性)が馬のケンタウロス。
上半身が牛で下半身(性)が人間のミノタウロス。
前後をあわせ読むと、寺山はケンタウロスとミノタウロスをいっしょくたにして、上半身が人間で下半身(性)が牛のミノタウロスをイメージしていたように見える。
記憶を創作する際の手抜かりといったところか。

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Googleアラートに「上海バンスキング」を登録しておいたら、こんなのが届いた。
x.com/chihokumada/status/18097

東京都美術館の「デ・キリコ展」を見てきた。
dechirico.exhibit.jp/

知らなかったが、キリコは彫刻作品を残してた。10点ほどのブロンズ像あり、いずれも高さ40センチほど、金メッキまたは銀メッキ。晩年に集中して作ったもので、「自身のヴィジョンを具体化したい、描かれた彫像を現実の彫像に変えたいという願望」と図録の解説にあり。
彫刻ならふつうは四方どこからも見ることができるが、「後悔するミノタウロス(The Repentant Minotaur)」と題した銀メッキの1点は、正面からだけ見るようにできていて、裏は何もない。全体の形状からいえば、壁にかけて眺めるものか。
妙に感じてのことだろう、裏にまわって確かめる人多し。

ミノタウロスは、クレタ島の王ミノスの妻パシパエが牡牛と通じて産んだ牛頭人身の怪物。ミノス王がダイダロスに命じて作った迷路に閉じ込められ、のちにアテナイの英雄テセウスに殺される。

ミノタウロスとパシパエに関する Wipedia 記事
ja.wikipedia.org/wiki/ミーノータウロス
ja.wikipedia.org/wiki/パーシパエー

「上海帰りという物語は、いつごろまでリアリティをもって人々に受け止められてきたか」と
genspark.ai/
にきいてみた。以下の要因をあげて、70年代まではリアリティがあったろうとの返事。

歴史的背景: 上海は20世紀初頭から中期にかけて、多くの日本人が関与した都市であり、特に第二次世界大戦前後には多くの日本人が上海に滞在していました。このため、戦後しばらくの間は「上海帰り」というテーマがリアリティを持って受け止められていた可能性があります。

社会的変化: 戦後の日本社会は急速に変化し、経済成長とともに人々の関心も多様化しました。1950年代から1960年代にかけては、戦争体験や海外での生活経験がまだ新鮮であり、多くの人々にとってリアリティを持って受け止められていたと考えられます。

文学的受容: 文学作品としての「上海帰り」がどのように受け入れられたかについては、具体的なデータが必要ですが、一般的には戦後数十年間はそのリアリティが保たれていたと推測されます。特に戦争体験や海外生活をテーマにした作品は、その時代背景を共有する読者層に強く訴えかける力を持っていました。

「上海帰りのリル」の発売は1951年(昭和26年)7月。
レコーディングは5月。その前日のレッスン室でのこと、津村謙の歌が「リル リル」のフレーズにさしかかったところで不意に途切れ、あとが続かない。作曲の渡久地政信が見ると、津村は譜面に顔を隠して泣いている。「ちょっと休もうか」と言ったディレクターの目元も赤くにじんでいた。
これも飯島哲夫の『津村謙伝』によった。

作詞家が危惧した歌詞を、作曲家と歌手がヒット曲に仕上げた。
もとはと言えば、詞のアクチュアリティ。

上海帰りのリル - YouTube
youtube.com/watch?v=19n7uyalzm

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「上海帰りのリル」の作詞は東条寿三郎、作曲は渡久地政信。

東条は詞のリズムが歌謡曲としては型破りなので、曲がつかないのではないかと思った。
渡久地の曲作りも難渋した。歌詞を受け取って20日ほどして、井の頭線のホームでようやくメロディが浮かび、
  船を見つめて いた
  ハマのキャバレに いた
  風の噂は リル
  上海帰りの リル リル
その日の夜中、「リル リル」の箇所までたどりつくと、あとはスムーズに運んだ。 「リル リル」に付けた「ファミーファミー」のメロディは琉球の五音音階にあるものという。渡久地は6歳まで沖縄で育った。

曲ができ、渡久地がピアノを弾きながら歌うのを聞いても、東条は感心しなかった。やはり歌謡曲には向かない歌詞だと思いながら帰った。

以上、飯島哲夫『上海帰りのリル ビロードの歌声 津村謙伝』による。

映画監督の鞍馬は、映画を作り物と考えている。
女優でもある浪子は、映画の中で自分は生きているのだと言う。

鞍馬はポケットからフィルムの切れ端を取り出し、「たかだか数フィートのセルロイドの帯に過ぎない」と言って、はさみでフィルムを切る。
とたんに、女の悲鳴。
「ほらご覧なさい」と浪子。

作品には生身の人間が綴じ込まれている。――との作者の思いを浪子に託した場面か。

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鞍馬がチェスの駒を並べ直しながら、活弁ふうに言う――
鼠を殺す日曜日までには、まだ数時間の猶予がございます。その間のお暇つぶし、我らが傷だらけのヒーローを探し求めさまよい歩きまする、我らが傷治しのヒロインの、絹糸にもたとえられようか細き叫び声。(声色で)「あなたやあ、あなたやあ――」。彼女の白魚にもたとえられようか細き小指の第二関節には、彼の日の指切りげんまんの切れ端が、いまは冷たい化石と変って、ぶらぶら引掛っているのでございます。

さえぎって、浪子が言う――
申し上げておきますねどね巨匠、私はもうそんな安っぽいメロドラマのヒロインなんて真平ご免。私の映画(キネマ)は私の真実を――真実の愛を捧げられる映画でなければなりません。そういう映画の中でこそ、私は生き、死に、そして再び不死鳥のように蘇るのです。

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『キネマと怪人』「第二章」のつづき。
浪子(男)と彼の専属監督である鞍馬虎馬が、遅い朝食をしながらチェスを指している。

鞍馬 まだつみではありませんよ。よろしいですか、この騎士をこう――
  ト、駒を動かす。
浪子 あらまあ、お上手。とてもお上手。
  ト、盤上の駒をひっかきまわして、辺りに散らばしてしまう。
 
二人の力関係は、なにごとにつけ浪子が攻撃的で上位にあるように見えるが、鞍馬も負けていない。
この場面でも、鞍馬は動ずるふうもなく、駒をひとつずつ拾って、それまでと同じように並べ直す。

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引き続き佐藤信の『キネマと怪人』を読む。
「第二章」の場と時間は、ホテル「ひばりケ丘」の支配人・浪子の自室。時刻は「第一章」と同じ日の、ただし昼近く。

最初の登場人物は、浪子と鞍馬虎馬(くらま・どらま)。浪子は「往年の大スター、女装の麗人」とあり、女装しているのだから女ではなく男。男・女の関係が逆になるが、「男装の麗人」と呼ばれた川島芳子を思わせる設定。
『キネマと怪人』は評伝ドラマではないから、モデルの利用は恣意的。川島芳子の属性は別のナミコ=波子にも取り入れられている。
fedibird.com/@mataji/112614488

*『キネマと怪人』には6人のナミコ――波子、浪子、濤子、涙子、並子、漣子――が登場

[参照]

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佐藤信『キネマと怪人』「第一章」

ホテル「ひばりケ丘」8号室、早朝。
宿泊客はジミーことジェームズ・ディーン、化粧石鹸の行商人、30歳。
「24歳の秋に自動車事故でも起こしてくたばってれば、あなたも今ごろ永遠の青春のアイドルになっていたかもしれない」と、明智小五郎の助手・小林君の弁。ジミーのこの設定には、左翼運動で死に損なった者の思いがこめられてはいないか。1943年生まれの作者は、1960年の安保闘争当時、高校生。
またジミーの造形には、詩を捨てて商人に転じたアルチュール・ランボーの姿も預かってるだろう。

ジミーは女連れで投宿している。
宿帳には「妻、21歳」と書いたが、じつは土砂降りの街道で拾ってきた波子。
波子の名は、役名リストの最初にあり、このドラマの主役か。

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