《バタイユによれば人間の生の目的は「栄光」にあるという。それは生産に目的づけられた生の外部にある。「いかなる目的も持たないこと、そして、原因となって何かの役に立たないこと、このアリアドネの糸をニーチェは決して見失わなかった」。
永劫回帰は、各瞬間を無動機的にし、生を目的から解放する。永劫回帰、それは、生の各瞬間がもはや無動機的になっている人間の砂漠に他ならないのである。》――木澤佐登志「もううんざり! 競争社会から降り始めた現代のディオゲネスたち」
https://gendai.media/articles/-/106666?page=6
以下で、「天文学」や「科学」を、「歴史」や「革命」で置き換えると、「彼ら」は「私」=ブランキその人となる。
《とにかく、彼らは、星空の最も美しい夜々にしばしば抜きんでて輝く、無害で、優美な被造物なのだ。もしも彼らがやって来て、罠にかかった筬鳥(おさどり)のように生け捕りにされるとしても、天文学もまた彼らと共に生け捕りにされるのであり、彼ら以上に脱出は困難なのだ。彼らこそまさに、科学上の悪夢である。他の天体に比べて何と対照的であることか! 対立する二つの極、あらゆるものを押しつぶす巨塊と重量のない存在、大きいものの極限と空無なるものの極限。》
「対立する二つの極」とは、彗星と恒星(または星雲)のこと。『天体による永遠』の中で彗星は恒星との対比で語られ、天文学の知見を無効にしてしまう「悪夢」「謎」としての存在とされる。
ブランキは彗星を惑星の虜囚に例える。
《もしも彼らが土星の魔手を逃れたとしても、まもなく彼らは、太陽系の警察である木星の手に落ちる運命にあるのだ。木星は闇の中で歩哨に立ち、太陽の光が彼らを照らし出す前にいち早くそのにおいをかぎつけて、彼らを狂乱状態のまま危険な谷に向かって狩り立てる。谷底で熱せられ、恐ろしく膨張させられた彗星は、隊列を乱し、引き伸ばされ、分解し、随所に落伍者を見捨てながら、四分五裂して恐怖の海峡を渡り、低温の保護の下、生命からがら、未知の孤独にたどり着くのである。》
惑星の引力圏で罠に落ちなかったものだけが生き延びる。
この描写は、君主制、共和制、帝政、19世紀のすべての体制を通じて犯罪者であり囚人であったブランキ自身の生涯を思わせる。彼は彗星に自身の像を重ねている。
『天体による永遠』の説く永劫回帰では、全人類、全天体が回帰を繰り返す。その回帰は分岐を伴うもので、いつの時か、どこかの地球上で、どれかのブランキが、かつてやりそこなった革命をやり遂げるだろう。それが、ブランキが永劫回帰の論に託した願い。全体の論旨からいえば、彗星への言及は本筋を外れているが、それでもブランキは彗星を語りたかったのだろう。彗星=ブランキこそ回帰すべきものとして。
ブランキの彗星論
《今日では誰もが彗星をひどくばかにしている。彗星は優越的な惑星たちの哀れな玩具なのだ。惑星たちは彗星を突き飛ばし、勝手気ままに引きずりまわし、太陽熱で膨張させ、あげくの果てはズタズタにして外に放り出す。完膚なきまでの権威の失墜! かつて彗星を死の使者としてあがめていた頃の、何というへり下った敬意! それが無害と分かってからの、何という嘲りの口笛! それが人間というものなのだ。》――オーギュスト・ブランキ『天体による永遠』
人々は彗星の非力を言う一方で、地球が彗星の衛星にされかねない可能性や、地球に衝突した場合の破壊力といった不安も述べ立てた。ブランキは、それらたがいに矛盾する、あるいは内部的に矛盾をかかえた諸説を批判して論を進め、彗星とは「謎の役割を果たすだけ」の「定義不可能な物質」と結論する。
『天体による永遠』の論点は、天文を論じるための予備的な議論を除くと、「彗星」「天体の誕生」「宇宙の無限」くらいに分けられるが、主題の「永劫回帰」を導くには彗星を論じる必要はない。むしろ「彗星こそ回帰の主体」といった誤解を与えかねないが、なぜ彼は彗星に少なからぬページを割いたか。
引用は浜本正文訳(岩波文庫)から。以後も同様。
『天体による永遠』の最末尾
《自己の偉大さに酔い痴れ、自己を宇宙だと信じ、自己の牢獄の中であたかも無限の空間にいるかのごとく振舞って生きている騒々しい人間たち。だがまもなく彼らも、深い侮蔑のうちに、虚栄に満ちたその重い荷物を背負ってきた地球と共に、滅んでしまうのだ。異郷の星でも同じ単調さ、同じ旧套墨守であることに変りはない。宇宙は限りなく繰り返され、その場その場で足踏みをしている。永遠は無限の中で、同じドラマを平然と演じ続けるのである。》――浜本正文訳
諦念で締めくくっている。
幾たび回帰して来ようと、地球も私も足踏みを繰り返すだけだろう。カミュならこのような繰り返しを「シーシュポスは幸福なのだ」と結ぶことろだが、ブランキは諦めて終える。仮に回帰があったところで、同じ牢獄、同じドラマの再演にすぎない、と。
肯定的に敷衍するなら、永劫回帰とは後世に託す希み。
自身が回帰してくるのではない。後の世の誰かに呼び返されて回帰する。
自説の永劫回帰をブランキが信じ切っていたわけではないこと。
https://fedibird.com/@mataji/112085068979062293
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佐藤信『ブランキ殺し上海の春(ブランキ版)』を再読。いちおう枠組みは把握できたとする。
登場人物は全員、19世紀のパリから20世紀の上海へ回帰してきた者たち――という理解でいいだろう。彼らのうちの一部はかつてのブランキ本人、一部は配下、その他周辺の者たち、ごく一部はブランキの敵対者。
最終章「終曲」の春日の台詞。
「いまこの瞬間、無数のぼくたちが、無数の橋の上で、無数の死体を前に途方にくれているんです。ぼくたちは間違っている。無数のぼくたちはみんな間違っています……」
ブランキがパリでやりそこなった革命は、ここ上海でも実らなかった。ぼくたちは間違っている……
宿題、なぜ上海か。
なぜ彼らは上海に回帰してきたか。言い換えれば、作者はなぜ上海を選んだか。
ブランキ版の最後の台詞も春日が言う、誰にともなく。
「ねえ、ここは上海ですか?」
この問の意味もわからない。
作者はドラマの場を上海に設定し、登場人物たちも上海租界を歩き回ったのだから、ここは上海のはずなのだが。あるいは、「いや、ここは東京」、そんな答えを期待してるのだろうか。
「ブランキ版」の次の章は「15 プレリュード」。なにゆえ今さらの前奏なのか。
硝子屋が「ムッシュウ・プランタン」と伯爵に呼びかける。
伯爵の返事は、「忘れたな、何もかも忘れちまった」
ブランキが率いた革命組織「四季協会」は4つの大隊から成り、プランタン=春はその一つ。硝子屋の呼びかけに伯爵は「忘れた」とは答えたが、自分が「プランタン」であることは否定しない。ここ上海で「伯爵」と呼ばれている人物は、かつてブランキの指揮下にいた「ムッシュウ・プランタン」、すなわち「春大隊」の長が回帰してきて、かりに伯爵と名乗っているのだろう。
とすれば、伯爵の前身を知る硝子屋も、かつてブランキの周辺にいた何者かであって、それがここ上海に回帰してきたに違いない。
なぜ、今さらのプレリュードか。この章あたりから登場人物たちの正体=前身が見えてくるからではないか。
窓が違う。こんなに大きくて、格子もはまっていない。老人=ブランキは、自身の今いる部屋がトーロー要塞の牢獄とは異なることに気づく。そのことの意味を老人も戯曲も言葉に出しては言わないが、この「異なる」ということこそが、ブランキが『天体による永遠』で唱えた永劫回帰の眼目。
永劫回帰は同じ出来事を繰り返すが、異なる様相でも出来事を繰り返す。永劫回帰は分岐する。様相は分岐のたびに変化をかさね、現に1881年に死んだブランキが半世紀を経てここ上海に回帰してきたのだし、さらに幾つもの分岐と変異を繰り返して、いつかどれかの地球上で私ブランキは革命を成し遂げるだろう。――それが彼の永劫回帰論の夢。
あるいは、これも明示はされてないが、繃帯も回帰してきたブランキの一人か。ここまでのところ、繃帯は道端で拾ったピストルで頭の周りの虻を追い払っただけだが。
ブランキ『天体による永遠』のエピローグ
《私は決して自分自身の楽しみを求めたのではなかった。私は真理を求めたのだ。ここにあるのは啓示でも予言でもない。単にスペクトル分析とラプラスの宇宙生成論から演繹された結論にすぎない。上記二つの発見が我々を永遠にしたのである。それは思わぬ授かり物だろうか? それなら、それを利用しようではないか。それはまやかしだろうか? それならあきらめるほかはない。》――浜本正文訳『天体による永遠』
それは授かり物か?
ブランキはこの書を、幽閉されたトーロー要塞の一室で綴った。
すでに老齢の60代半ば、イギリス海峡に望む岩礁に築かれた古い要塞で人生を終えることも覚悟しただろうブランキにとって、この書を仕上げたことは「思わぬ授かり物」であった。
ならば、それを利用しようではないか。ここに示したものは啓示でも予言でもない、私はついに真理を究めたのである。すなわちこれを我が思想の到達点とし、遺著としよう。ただし、現実のブランキはさらに10年ほど生き延びた。
それはまやかしか?
永遠は妄想の産物。ならば、あきらめるしかない。
救いはある、というのがブランキの考え。
なぜなら、反復には分岐が伴うから。
今この牢獄で『天体による永遠』を書いている私はといえば、王政、帝政、共和制、私が生きたすべての政治体制下で危険人物と見なされ、犯罪者として投獄され、敗北に次ぐ敗北を重ねながら、あいかわらず同じことを繰り返している。何もかもが俗悪きわまる再版、無益な繰り返しなのだ。 けれども嘆く必要はない。なぜならば、この永続と反復にはつねに枝分かれが伴い、この地上で我々がなりえたであろうすべてのことは、どこか他の場所でそうなっているのであり、すでに別の時空では別の私が革命を成功させているにちがいないのだから。
私は常に獄中に回帰してくるのではない。
反復は分岐を伴う。すなわち、獄外への分岐を。何人もの、いや、無数の私が、たえず獄外へ脱出しつづけている。回帰とは希望なのだ。
そのような無数の分岐の先には、もちろん上海も含まれる。
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ルイ=オーギュスト・ブランキ(1805-1881)、フランスの社会主義者、革命家。
https://ja.wikipedia.org/wiki/ルイ・オーギュスト・ブランキ
ブランキの著『天体による永遠』は、イギリス海峡に臨む岩礁の上に築かれたトーロー要塞の監獄で書かれた。
その中で彼が言うには、宇宙を作っている元素(原子)は100元素しかない。無限の宇宙を構成する材料が有限種しかないのだから、宇宙は無限に反復しなければならない。すべての天体も、天体上の生物も無生物も、すべての存在物はこの永続性を分かち持っている。
地球もそうした無限に反復する天体の一つであり、全人類も同様に反復する存在である。ブランキはそのように論を進め、現にトーロー要塞の土牢で『天体による永遠』を書きつづける自分に言及する。いま私が書いているのと同じことを、同じテーブルに向かい、同じペンを持ち、同じ服を着て、まったく同じ状況の中で、かつて私は書いたのであり、未来永劫書くであろう、と。
救いのない反復に見える。いつまでも冊子は書き上がらず、監獄からは出られず、革命は成らないのではないか。
何が言いたくて、彼はこんな書を遺したか。
江戸は隅田川沿いの私娼窟で、店の主人に納まっているのがじつは藤原純友の遺臣、そこで養われている三日月お仙が純友の遺児、そこへお仙をくれと言ってやってくる若い魚屋が頼光四天王の一人・渡辺綱であったり、
あるいはまた、江戸郊外の茶屋の主人が、じつは四天王の一人である卜部季武、その女房がじつは平将門の娘・七綾、そこへやってくるクズ鉄買いの伝七がじつは将門の長男・将軍太郎良門であったり、
江戸の市川團十郎を、じつは頼光四天王の一人・碓井貞光とする設定もあり。團十郎が貞光を演じているのではない、貞光が團十郎を演じているのだ、と。その團十郎に京から下ってきて弟子入りする女形が、じつは源頼光の弟・美女丸であったり。――
永劫回帰の観念が、ほぼ同じ時期にボードレール、ブランキ、ニーチェの世界に現れたことは、力説されるべきである――とベンヤミンは言ったが、彼らがイデアとして述べたことを、江戸の歌舞伎は見世物として客に供した。
ここで挙げたのはすべて、平将門、藤原純友の残党を江戸の現代に回帰させた鶴屋南北の例。先行例を並べて南北にいたる過程をたどることは、江戸芸能史の一面を語ることになるはず。
上海の街路を短い葬列がやってくる。
道ばたの老人が話しかける。
老人 いつ?
―― 一八八一年一月一日。午前九時十三分でした。
老人 なるほど。倒れてから五日間、とにかく生きてはいたというわけだな。
―― 一度も意識は戻りませんでした。お医者さまの見立てでは脳溢血と……
老人 七十五年の生涯のうち四十年間を、牢獄に幽閉されて過した。最後の五日間は、とうとう自分の身体の中にとじ込められてしまった。パリ、イタリー大通り二十五番地。古い建物の六階の小部屋。ベッドで横になっていると、どこからか隙間風が吹き込んで来る。
―― よくご存知で……
老人 墓碑銘は?
―― 「ルイ=オーギュスト・ブランキ。一八〇五年から一八八一年。主人もなく、奴隷もなく」
老人 よし、行こう。行って、私にも墓に花をそなえさせてもらおう。
―― 故人とは親しいおつき合いで?
老人 そう、終生の友……
―― 失礼ですが、お名前を。
老人 私か? 私の名は、ルイ=オーギュスト・ブランキ。たったいま、上海に着いたところだ。
同じタイトルの佐藤信『ブランキ殺し上海の春』からだが、先の「上海版」に対しこちらは別版「ブランキ版」の冒頭。