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地図の上で私はパリにいる。暦の上では今は20世紀の30年代。
だが私はパリにいるのでもなく、今は20世紀でもない。
私は中国にいて、中国語で話す。
三角帆の船で揚子江を遡っているところだ。
食物はアメリカの砲艦が捨てたごみを拾い集めている。
      ――ヘンリー・ミラー『暗い春』

串田和美監督の『上海バンスキング』(1988年)も YouTube にあり。
138分のフルバージョンで公開されている。
youtube.com/watch?v=M-MnyhpeVb

こちらは自由劇場での演出を手掛けた串田が、「自分達の舞台での仕事を映像化してみたかった」(Wikipedia)として、自ら制作と監督を務めて映画化。

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1936年の夏、クラリネット奏者の波多野は、妻のまどか(マドンナ)と上海にやって来る。波多野は軍国主義が広まりつつある日本を離れ、自由に演奏できる上海でジャズをやるため、パリに行こうと妻をだまして連れてきたのである。
2人を迎えたトランペット奏者の松本(バクマツ)はギャンブルが好きで、つねにクラブ「セントルイス」のオーナーのラリーから前借り(バンス)をしている。やがて松本はラリーの愛人であるリリーと恋に落ちる。トラブルの仲裁に入ったまどかと波多野は、その代償としてクラブのショーに出演することになる。

戯曲『上海バンスキング』は、自由劇場の串田和美からミュージカルを依頼された斎藤憐が構想、執筆。六本木自由劇場での初演(1979年)以来、現在までに数百回の公演実績。また、深作欣二(1984年)、串田和美(1988年)によって映画化。

Wikipedia に内容、配役、経緯等あり。
ja.wikipedia.org/wiki/上海バンスキング

道士からもらった薬を飲むと障子を通り抜けられるようになった。――
という壁抜け術のバリエーション的な話が『聊斎志異』にあるのをみつけた夢。
薬の名前がローマ字で書いてある。
17世紀の中国の書になぜローマ字が混じってるのか。
訳者の注などから思うに……
johf.com/memo/023.html#2022.6.

同名の原作『八犬伝』は、『南総里見八犬伝』のストーリーと作者・滝沢馬琴の実生活を交互に書き進めて、馬琴の創作過程を追った山田風太郎の力編。
読みどころのひとつに、江戸文化の爛熟期を代表する巨人たち、滝沢馬琴、葛飾北斎、鶴屋南北が、中村座の舞台裏(奈落)で創作論を交わすくだりがある。映画にしにくい場面だからどうなるかと見ていたら、三者の会話がかなり忠実に再現されていて、納得。原作とは出入りの大きい脚色だが、この場面はやはり大事にしたかったのだろう。

映画では言及がなかったが、馬琴と北斎を南北のいる舞台裏に案内した人物は、原作では鼠小僧次郎吉。まったくの脇の人物なので、三巨人の会話とは逆に、フィルムを費やしたくなかったのだろう。

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『八犬伝』本予告
youtube.com/watch?v=TXGAj0ld5f

山田風太郎の原作をどう映画に仕立てるか。そんな興味で映画版『八犬伝』を見てきた。
映画公式サイトはこちら。
hakkenden.jp/

小説では描ききれないスペクタクルをVFXを駆使して展開、中でも利根川を見下ろす楼閣の屋根で犬塚信乃と犬飼現八が戦う芳流閣の場面は上々の出来。予告ビデオでもその一端がうかがえる。

《クロ現「虎に翼」の脚本家吉田恵里香氏。寅子を彷彿とさせる、竹を割ったような方だと感服。「マジョリティーでいる以上必ず誰かを傷つける」ゆえにマジョリティー側が社会を変えなくてはならない、と。》
x.com/yuu_iwatsuki/status/1838

米津玄師 - さよーならまたいつか! Kenshi Yonezu - Sayonara, Mata Itsuka !
youtube.com/watch?v=-wb2PAx6aE

《強さとは何ぞやと考えたとき、そこはキレなきゃいけないよなって。どうあがいてもキレる必要がありますよねということを、この曲に宿すべきだと思ったんですよ。初の女性弁護士として、獣道をかき分けながら、先頭に立っていろんな道を整備してきた人たちの生き様を振り返ると、そこには並々ならぬエネルギーがあったんだろうと思うんです。お行儀よく、誰の気分も害さないような、優等生的に機会を待って様子を見ながら生きてきた人では決してないと思う。むしろ「知るか!」と言って、「私はこうありたいんだ」ということを人に示す力がある人たちが、そうやって道を切り拓いてきたような気がするんです。》
――米津玄師「さよーならまたいつか!」インタビュー|“キレ”のエネルギー宿した「虎に翼」主題歌 - 音楽ナタリー 特集・インタビュー
natalie.mu/music/pp/yonezukens

壁抜雑誌 さんがブースト

深作欣二監督『上海バンスキング』放送予定
BS松竹東急 2024年9月19日(木)午後8:00~10:22
amass.jp/177573/

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ダメからバカへ。

ダメなやつから見ると、世の中バカばかり。とてもやってられない。
だが、バカなやつから見ると、自分以外はみんなダメ。あわれなやつらよ。おれを見ろ、このおれを。
ダメな自分から、バカな自分へ。
johf.com/memo/050.html#2024.9.

《速度への鋭い配慮、これを欠けば創造はあり得ないであろう。辛抱強く作り上げられた芸術作品というものに対して、湧き現れるものが対立する。それは歴史もなければ根もなく、即席的で時間の外にあり、突如生じたという様子をもつだけに一層明証的である。このような展望のなかにあっては、すべてを破壊することは修正を加えることにまさる。》――ミシェル・レリス『獣道』
johf.com/memo/050.html#2024.9.

深作欣二監督『上海バンスキング』放送予定
BS松竹東急 2024年9月19日(木)午後8:00~10:22
amass.jp/177573/

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なぜ、折口信夫ではなく、柳田国男を出したのか

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柳田国男博士が、黒い円形のボール紙のようなものを取りだして、しんとくに言う。

《これを、
ぴったり壁に貼りつけると、そこから壁の向こうへもぐっていける。
これ一つで、
世界中に出口ができる。
ゴムのように、
のびちぢみ自在、
持ちはこび自在、
こうして、小さくたたんで
のぞき穴にすることも、
床の上にひろげておいて
おとし穴にすることもできる。
ホラ、こうやって、
地面におくと、それでもう、
下へ降りてゆくことも
できるのだよ。》――寺山修司『身毒丸』

《一方の足に重傷を負うという目にあった事故のあと数年間は、人はジャコメッティがステッキをついて歩く姿をしか見なかった。そして、ある日彼はこの道具なしに歩くことを決心した。こう決めるとすぐ彼は支えなしに身体を動かした。同様に、彼の彫像もつねに、ステッキや松葉杖なしで立っている。》――ミシェル・レリス『獣道』

金谷治「芭蕉における荘子――江戸期の老荘受容と対比して――」
ajih.jp/backnumber/pdf/30_02_0

「荘子受容の歴史のうえに占める芭蕉の地位の重要さ」と論文末尾にあり。

他の関心もあってミシェル・レリスの『獣道』(後藤辰男訳)を取り寄せた。
原題は「Brisées」。巻頭にフランス語辞典の一節が掲げてあり、邦題の「獣道」とはかなり意味がずれている。

このずれについての訳者の弁は次のとおり。
《語義的忠実さからすれば、「折り枝(標識用の)」というのが穏当かもしれない。だがこれでは語義の一つの背後にある猟犬を使っての狩猟のもつ緊迫感、殺意、現実に起るであろう虐殺の印象は伝わりにくく思われ、Briser→Brisé→Brisées(折る→折られたところの→折り枝)という音が含む切迫感、不可逆的印象も何か間遠くなるように思われたのである。》

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けもの道だな、おれの。
二、三度来ただけだが、おぼえはある。
だが、どこへ行こうとしたのか。
そこへは行けたのか、行けなかったのか。
そもそも、どこへ行くつもりもなく、ただ来ただけか。それなら、いかにもおれらしいが。

ふと見ると、赤いカラスウリの下がった茂みのむこうに、別のけもの道。
人のにおいも混じって、どこへ行くのか行かないのか。

人は誰も過去を作り出す。ただ思っただけにすぎないのに、その思ったことをもって、過去もそうであったと思い込む。
記憶とはそのようなもの。
寺山だけが過去を創作してしまうのではなく、誰もが過去を創作する。

《記憶なるものの凡てが想起という経験を擬似的に説明するための形而上的仮構なのである。当然その想起以外に記憶の証拠となるものはない。こうして虚構に導いたものは想起経験の中で経験される過去性である。つまり、過去として何かが経験される、という想起経験の本質が自然に過去という実在を想定させてしまうのである。》――大森荘蔵「言語的制作としての過去と夢」

過去の創作は、基本的には無意識的に行われるが、意図しても行われる。
寺山の場合、意図的な過去の創作は文章作法の一部。エッセイでも、論文的なものでも、論旨を支える要所に、創作された過去が置かれている。

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