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地図の上で私はパリにいる。暦の上では今は20世紀の30年代。
だが私はパリにいるのでもなく、今は20世紀でもない。
私は中国にいて、中国語で話す。
三角帆の船で揚子江を遡っているところだ。
食物はアメリカの砲艦が捨てたごみを拾い集めている。
      ――ヘンリー・ミラー『暗い春』

テイレシアスはギリシャ神話に出てくる盲目の預言者。
オウィディウスの『変身物語』によると、テイレシアスが預言者になった次第は次のとおり。

あるとき彼は森の中で交尾している二匹の蛇を見て、杖で殴りつけた。すると男であったテイレシアスは女に変わり、そのまま7年間を過ごした。8年目にまた同じ蛇たちに出会って杖で殴ると、もとの男にもどった。このことがあって、彼は男女双方の性愛に通じることになった。

ユピテルと妻のユノーが、男女どちらの性的快感が大きいかで言い争ったとき、テイレシアスはユピテルに味方して、女の快感のほうが大きいと言ったため、ユノーに憎まれて盲目にされてしまう。
神々の世界では、ある神がしたことの効果を取り消すことは、どんな神にも許されない。そこで全能の父である神は、視力を奪われたテイレシアスに予言の能力を与えて、罰を軽くした。

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ギヨーム・アポリネールの戯曲『テイレシアスの乳房』に「ザンジバルの民衆」という役がある。戯曲の舞台であるザンジバルの民衆という意味だが、一人で演じる。
劇中の効果音――太鼓、アコーディオン、ラッパ、鈴、カスタネット、銃声、雷鳴、皿の割れる音など――は、すべてこの人物から発せられる。この役に割り当てられた台詞はないが、メガホンの役をするときは台詞を言う。

『テイレシアスの乳房』粗筋
前半 johf.com/memo/045.html#2024.4.
後半 johf.com/memo/046.html#2024.5.

《日本の芸能・文学が、我々の板につき、我々のものになつたのは、低い階級のものゝ為事が認められ出してからのもので、この低い階級のものは皆宗教家です。これらの人々は、皆社会外の社会にゐて、無頼の徒です。土地もなく、祭りの時だけ許されて無頼が出来ます。平安朝末の法師達の振舞ひはこれと同じことです。これが近代迄も社につき、又ははなれて動いてゐて、社につく神人が、山や川を越えて御札をくばつて歩いたもので、その行動は無茶苦茶なことが多かつたのです。これらが下級の武士の出て来る処となります、かうして、近代の芸能にたづさはるものと、信仰生活にゐる人々の中のある部分と、武家のある階級は、皆一つであつたと言ふことになります。》――折口信夫「無頼の徒の芸術」
aozora.gr.jp/cards/000933/file

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それぞれ意味は幾分かずつ違うが、重なるところも大きい。どれで代表させるか。どれを選んでも落ち着かないが、それならこれまでのままボヘミアンか。

折口信夫に「ごろつきの話」という小論文(講演記録)がある。
aozora.gr.jp/cards/000933/file

ここで折口は「無頼」や「無頼漢」を「ごろつき」と読ませ、無頼=ごろつきの具体例として、うかれ人、ほかい人、野ぶし、山ぶし、念仏聖、虚無僧、くぐつ、すり、すっぱ、らっぱ、がんどう(強盗)、博徒、侠客、かぶき者、あぶれ者、町やっこ、舞々・舞太夫、しょろり・そろり、無宿者・無職者などをあげている。

時代は違うが、この無頼漢リストはマルクスの列挙したボエーム=ルンペンプロレタリアのリストを思わせる。
ただし、マルクスがルンペンプロレタリアを歴史の夾雑物として扱おうとしたのに対し、折口は「ごろつきの話」の冒頭で次のように述べ、日本史における無頼=ごろつきの存在と役割に重いものを与えた。ここで言う「時代」も、古代から近代初期までの長い期間を指す。

《無頼漢などゝいへば、社会の瘤のやうなものとしか考へて居られぬ。だが、嘗て、日本では此無頼漢が、社会の大なる要素をなした時代がある。のみならず、芸術の上の運動には、殊に大きな力を致したと見られるのである。》

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《マルクスに対し、ルンペンプロレタリアートを革命の基盤として評価したのが、ミハイル・バクーニンである。バクーニンは、ルンペンプロレタリアートは貧困に苦しむ「下層の人々」であるが故に「ブルジョワ文明による汚染をほとんど受けておらず」、だからこそ「社会革命の火蓋を切り、勝利へと導く」存在であると捉えた。》――Wikipedia「ルンペンプロレタリアート」記事
ja.wikipedia.org/wiki/ルンペンプロレタ

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《マルクスが、「ルンペンプロレタリアート」という語を用い始めたとき、これには二つの意味が込められていた。まず、これが指す集団は、革命の前進に役立たないどころか、これを妨害するがゆえに屑(ルンペン)である。また、これは、ブルジョワジーとプロレタリアート間の階級闘争の理論の中に取り込むには不都合な異物としての屑(ルンペン)でもある。他方ベンヤミンの方法とは、「屑、ごみの目録を作るのではなく、ただ唯一の可能なやり方でそれらに正当な位置を与え」ること、つまり「それらを用いること」である。マルクスによれば、「ルイ=ナポレオンが「無条件に頼ることができる唯一の階級だと認める」、あらゆる階級の「くず、ごみ、かす」(『ブリュメール一八日』第五章)であるボエーム=ルンペンプロレタリアートこそ、ベンヤミンの真の素材なのである。》――横張誠『芸術と策謀のパリ』

階級闘争理論に対する「不都合な異物」としてのルンペンプロレタリアの存在。彼らが革命の敵であることよりも、革命理論の敵であることにマルクスは苛立っていたように見える。

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マルクスは社会的ポジションの不確かな者を嫌った。ブルジョアかプロレタリアかに振り分けられない者、一般的な言い方ならボヘミアン、マルクスの用語でいえばルンペンプロレタリア。

《あやしげな生計をいとなみ、あやしげな素性をもつ、くずれきった道楽者とならんで、おちぶれて山師仕事に日をおくるブルジョア階級の脱落者にならんで、浮浪人、元兵士、元懲役囚、徒刑場からにげてきた苦役囚、ぺてん師、香具師、たちん坊、すり、手品師、ばくち打ち、ぜげん、女郎屋の主人、荷かつぎ、文士、風琴ひき、くずひろい、とぎや、いかけや、こじき、一口にいえば、あいまいな、ばらばらの、あちこちになげだされた大衆、フランス人がラ・ボエームとよんでいる連中、こうした自分に気のあった分子をもってボナパルトは十二月十日会の根幹をつくった。》――伊藤新一・北条元一訳『ルイ・ボナパルトのブリュメール十八日』

ボエーム(Bohème)は、ボヘミアの住民を意味するラテン語に由来する。いわゆる「ジプシー」が、ボヘミアからきたと見なされて「ボヘミアン」と呼ばれていたが、さらに19世紀中頃のフランスで反ブルジョワ的な生き方をモットーとする芸術家らがジプシーに喩えられてボエームと呼ばれるようになった。

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ジプシーには、固有の服装というものがない。昔からジプシーの女性は、着物を紡ぐこともせず、織ることもしないできた。着ているものは、みなジプシー以外の人たちの着るものだ。また、そういう人たちのお古だ。ただし、着物の着方や色彩や配色などは、ジプシーの昔からの独特のものである。――マルティン・ブロック『ジプシー』(相沢久訳)

ああ、自分もだ。
他人からもらったものをずいぶん着てきた。
ジャケット、パンツ、シャツ、スーツ、コート、セーター、多くは古着。新品の場合も、何かの事情による不要物。
年上からも年下からももらった。
男物も女物も。
生者からも死者からも。
持ち主の知れぬ革のサンダルも。あれはもらったというより盗んだというものか。
いくぶんかはジプシーなのだろう、自分も。

以上、zakki by mataji から
johf.com/memo/045.html#2024.4.

DOMMUNEが昨日放送した「寺山修司と60年代テレビの前衛」のアーカイブをYouTubeで公開
youtube.com/watch?app=desktop&

その漫画を見たのは学齢前。ひらがなは読めたが、漢字はまだ読めなかったはず。
それが『モンテ・クリスト伯』と気づいたのは、中学時代、学校の図書館から借りた要約本を読んで。小学校時代の6年をはさんで、そんなにも長く記憶に残っていたのは何故か。作者の挫折に自分の感性が反応したからだろう。

今にして思えば、あれは予言的体験だったか。
何ごともやり遂げられず、挫折、放棄、諦めといった形で終わる。おまえの人生はその繰り返しだよ、といったような。
幼時にして備わっていた挫折体質。そんな体質が、あることで訪れたある理髪店の二階のひと間でひとり過ごす間に、低い棚からみつけて読んだ漫画に感応したのだろう。

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自分の記憶にある最初の漫画は、『モンテ・クリスト』を脚色しようとしたか、あるいは下敷きにした別物。最後のコマで、作者が両手で頭をかきむしり、「行き詰まった」といった意味のことを言って、連載の中止を宣言している。原作に即して言えば、まだエドモン・ダンテスがシャトー・ディフの牢にいる段階なのに、早々に先行きを見限られた残念な作品。

もしかすると、この漫画は最初の漫画体験というにとどまらず、記憶に残った最初の読書体験だったのかもしれない。
同じころ、身辺に子供向けの絵本が1、2冊あったような気がしないでもないが、そちらは記憶がおぼろ。色の付いた本があったようなという記憶にとどまる。それなのに、子供には意味の取りにくそうな、しかもよそで一度見ただけの漫画が記憶に残ったことをどう考えるか。

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本来の忠義は契約事項であること。契約書などなくても、口約束さえなくても、契約事項。
家人は家に尽くす。家人が尽くす限りにおいて主家は適切な見返りを与えなければならない。家人が死んでも──病気で死のうと戦場で死のうと──契約は破棄されない。主家は家人の家族を保護し、家人の家を存続させてやる。これによって又者(家人の家人)も救われる。そういう信頼や安心感があるから、時には命をかけても家人は主家に尽くす。
赤穂事件は、忠義が契約による実効性を失くして、たんなる理念と化す移行期の出来事。以後、忠義は無償の行為となり、無償ゆえの純粋性、狂信性は近代にまで持ち越される。

《「大義」が殊更物々しく持出される時人が多勢死ぬ。
快挙とも義挙ともはた壮挙とも云われる義士の討入はまぎれもない惨事だと思う。》

『吉良供養』の冒頭に杉浦日向子がかかげた宣言がこれ。
大義が惨事を引き起こす。
その惨事はすでに起きてしまった。
もう取り返しはできないが、供養ならわたしはできる。そう考えて描かれたのが『吉良供養』だろう。

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『吉良供養』は吉良家の人々を供養した。
どう供養したか。
事実に迫ることが供養だと杉浦は考えたはず。赤穂事件を材料にした創作物のうちでも、『吉良供養』は最も事実に即したもののひとつ。
吉良側には勇敢に戦った者も、卑怯な進退をした者もいる。おおかたはほとんど出会い頭みたいに殺された。そうした振る舞いの別や結果の違いにかかわりなく、吉良家の人々は──じつは赤穂方もなのだが──忠臣蔵という大きな物語を構成する部品として使われている。事実を明らかにすることは、部品としての使用目的から人々を解放する。そのような意味で、『吉良供養』は人々を忠義の物語から切り離した。この切り離したことが供養である。
斎藤宮内も小林平八郎も忠義の盛り上げ役として生きたわけではない。
屋敷にとどまれば殺されると思ったから宮内は逃げ出し、安全を見きわめて屋敷にもどった。それだけのことであって、忠義は関係ない。
小林平八郎は言い抜けにしくじって殺された。彼の場合も、やはり忠義は関係ない。

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《エドモンダンテスが苦労して牢獄の壁掘り抜いたら、外ではなくお隣のお部屋へ出てしまった。でもやらないよりはマシだったと考えるようなものです。可能性あれば賭けてみて、こけたならそれまで…》
twitter.com/Doranekodo/status/

う〜む、とりあえず無難を選ぶのも人間というものだが…、つまりは賭けか。

杉浦日向子の『吉良供養』は、時と所を赤穂浪士討ち入りの夜の吉良邸に限定し、おもに吉良側の人々の動きと生死をドキュメンタリー風に綴った上下16ページずつの漫画作品。サブタイトルは「検証・当夜之吉良邸」。下巻の表題ページに「東都神田青林堂上梓」「壱千九百八拾壱年拾壱月」とあり、初出は雑誌『ガロ』か。現在、ちくま文庫『ゑひもせす』所収。
その「検証」によると、公の調書では吉良側の死者16名、負傷者23名、ただし重症で落命する者が多く、検視後には死亡23名、負傷16名と逆転した。いずれにしろ家中の約半数が死傷する一方で、浪士側は46名が討ち入って全員生還。浪士の原惣右衛門は「敵対して勝負仕り候者は三、四人許り、残りの者どもは立合に及ばず、通り合せに討捨て」との証言を残し、杉浦は「完全なワンサイドゲーム」とした。

タイトルの謎。なぜ「供養」なのか。
ワンサイドゲームに終わった殺し合いの結果を再現することが、敗者側の供養になるのか。
ぶざまな所業を蒸し返された斎藤宮内は、これで供養されたことになるのか。
「忠臣蔵」という国民的物語の中で名誉あるポジションを与えられていた小林平八郎は、こんな死に方を暴露されて供養されたといえるのか。

杉浦日向子は『吉良供養』によって赤穂浪人の吉良邸襲撃事件の実相をあきらかにした。
これが科学(歴史学)の方法ではなく、虚構(漫画)を手段として行われたこと。

虚構によるのでなければ、こんな絵は描けない。
fedibird.com/@mataji/112288263

あまりにも不条理に殺されたうえ同情もされなかった上野介と吉良家の人々に対する見方を変えるのは、歴史の事実を説くだけではダメで、杉浦日向子氏の「吉良供養」のような堂々たる文学作品が必要なんです。――芦辺拓
twitter.com/ashibetaku/status/

[参照]

小林平八郎を剣客とする説は長いあいだ事実として流布していたらしく、江戸学の創始者とされる三田村鳶魚でさえ、ある言い伝えに「コロリとだまされて」(鳶魚)、俗説を補強する論を出世作の『元禄快挙別録』に記したが、のちに「当夜の小林平八郎」という小論を著して、「嘘も嘘、実にとんでもない間違い」と俗説の平八郎像を否定し去った。

俗説の核は、平八郎を上野介の正室・富子の付け人とするもの。
富子は上杉家から来嫁した。赤穂事件の時期の吉良家と上杉家は、二重三重の婚姻・養子関係にあり(これは事実)、その関係から上杉家は赤穂浪人への備えを支援し(これは虚構)、平八郎はその要となる人物であった(これも虚構)。鳶魚によれば、吉良家も上杉家も赤穂浪人の襲撃を予想していない。したがって、防御の要という平八郎の役割もない。そもそも平八郎は上杉家から来たのではない。もとからの吉良家の臣。重役ではあるが、剣豪などではない。

杉浦日向子の『吉良供養』は多くを鳶魚に負ったと見られる。

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あまりに馬鹿げた応対ゆえに、かえって命を助かった斎藤宮内は、このあと別の家老(100石、69歳)とともに普請中の壁を破って吉良邸から逃げ出し、浪士が引き上げてから同じ壁の穴をとおって帰邸した。この所業で二人は人非人とののしられ、彼らが破った壁の穴には「犬猫、家老ノ外、入ル可カラズ」と落書きされた。

斎藤宮内とは運の違いすぎた小林平八郎。
小説、映画、演劇などの創作物では、小林は吉良方の重要人物。赤穂浪士の襲来にそなえて吉良邸の守りを固める要の役であったり、討ち入りの当夜は厳しく戦って倒れた剣客でもあった──というようなイメージがある。
ところが『吉良供養』によると、吉良側は赤穂浪士の襲来を予想していない。
ならば、守備の要という小林平八郎の役割は消える。言い逃れが通じず首をはねられた次第からは、剣客でもなかったことになる。

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杉浦日向子『吉良供養』から、斎藤宮内が命を助かり、小林平八郎が首をはねられたくだり。

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