次も『列子』にある話。
普の趙襄子が大規模な焼き狩りをしたときのこと。百里にわたって燃え盛る火のなか、石壁から人が出てきて火煙のままに行ったり来たりしている。人々は鬼神かと驚いたが、火が遠のくとゆっくり出てきて、火中をくぐってきた様子などはまるでない。どう見てもただの普通の人である。
不思議に思った趙襄子が問う。
「おまえはどうやって石の中に住み、どうやって火のなかに入ったのか」
その人が答えて、
「何を石といい、何を火というのでしょう」
「おまえが出てきたところが石で、おまえが通り抜けてきたのが火だ」
「そんなこととは知りませんでした」
この話はその後、魏の文侯に伝わり、文侯と子夏の問答を通じて出来事の意味が深められる。というか、ストーリーに列子的価値が盛り込まれる。
文侯が子夏に問う。
「その人物は何者なのか」
子夏は孔子の高弟。招かれて文侯の師になっている。
彼が答えて言う。
「孔子先生が言うには、それは和する者である。和者は物とまったく同化してしまうから、物は和者を害することができない。和者は金石を通り抜けることも、水火の中を行くことも可能なのだ、と」
文侯「どうしてあなたはそれをしないのか」
子夏「私はまだ知恵を捨てることも私心を除くこともできません。ただ、せめてそれについて語ることだけはしたい」
文侯「孔子先生はしないのか」
子夏「もちろん先生はできます。でも、それをしないのです」
このようにして『列子』は孔子の地位を引き上げる。
じつは孔子先生は、人前でそれをしないだけで、金石を通り抜け、水火をくぐることはできるのです。「和して同ぜず」という自身の言葉を越えて、対象と同化してしまうのが、ここで描かれた孔子。『列子』はそのように地位――言うまでもなく道家的な価値観による地位だが――を上げることで、孔子を道家の陣営に引き入れる。すでに見た『荘子』の手口と同じ。
#孔子 #列子 #荘子