アポリネール「オノレ・シュブラックの失踪」粗筋。

オノレ・シュブラックが擬態の能力に目覚めたのは25歳のとき、恋人の部屋で。
二人が裸でいるところに、恋人の夫がピストルを手に現れる。
シュブラックは怖さのあまり、壁に溶け込んで姿を消したいと願う。すると、その願いどおりのことが起きて、シュブラックの身体は壁紙の色に変わり、手足はおどろくほどに延び広がって壁と合体してしまう。擬態が起こったのである。
間男の姿を見失った夫は、妻の頭に銃弾6発をすべて撃ち込んで部屋を出ていく。

以来、シュブラックは夏も冬も素肌の上に簡素な衣類を引っかけただけで過ごし、いざとなればそれを脱ぎ捨て、壁に擬態して夫の追跡を逃れてきたが、ついにある日、自分が溶け込んだ壁に向かって6発の銃弾を撃ち込まれてしまう。
6発のうち3発は、人間の心臓の高さとおぼしきところを撃ち抜き、残りの3発は、ぼんやり顔の輪郭が見分けられるあたりの壁に当たっていた。以後、シュブラックの姿を見たものはいない。

ヘンリー・ミラーの連作『暗い春(Black Spring)』のうち「中国彷徨(Walking Up and Down in China)」から。

《パリの内であろうとパリの外であろうと、パリを去ろうとパリに帰ってこようと、そこは常にパリであり、パリはフランスであり、フランスは中国なのだ。(……)
私は旅行者でも冒険家でもない。出口を探しているあいだに、さまざまなことが起こった。光と水を求めて地の底を掘り進み、先の見えないトンネルで動きづめだった。アメリカ大陸の人間である私には、人が自分自身でいられるような場所がこの地上にあろうとは、信じられないでいた。私はやむを得ず中国人になった、自分の国にいながら中国人に! 居場所のない生き方に耐えるため、私はアヘンの代わりに夢に行き着いた。》

どこを引用してきても可だが、まずは冒頭から。
私はすでに中国人である。
以後、私は中国人としてパリで暮らし、万里の長城のうちを巡り、ときには生まれ育ったブルックリン第14地区を歩いていたりするが、いまはパリ、その名も「岐路」のラ・フルシュにいる。

ギボー(魏牟)が言ったソーシ(荘子)の人物像「さらりと自分をほどいて万物の内に溶け込み、すべてを無差別に肯定する境地に達している」は、中国人になったヘンリー・ミラー(『暗い春』)や壁に擬態したシュブラック(アポリネール「オノレ・シュブラックの失踪」)を思わせる。
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彼らは現実に(物理的に)中国人や壁になったわけではない。
自分をほどいてしまった。ほどけたから他の何かに融合できた。そういうことのはずである。

いかにして自分をほどくか。

[参照]

風博士の場合

坂口安吾の短編「風博士」の主人公も、自分をほどいてしまった人物に見える。
なにしろ、風になってしまったのだから。

その結果をどう評価するか。
風博士は憎むべき蛸博士に復讐を遂げたと言えるのか。思いは果たしたと作者は見ているようだが。

青空文庫の「風博士」
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紫大納言の場合

これも坂口安吾の短編「紫大納言」に描かれた「ぜい肉がたまたま人の姿をかりたように」太った色好みの大納言も、自分をほどいてしまった人物か。

青空文庫の「紫大納言」
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「風博士」も「紫大納言」も、人の消滅を描いて笑話的に終わる。
とはいえ、博士や大納言をおとしめて終わるのではない。かといって、嘆くわけでもない。あはは、そんなわけで消えてしまいました。人物たちもそのように終わり、小説自体もそのように終わる。
死を悲劇的なものとは見ない。『荘子』や『列子』の死の認識に通じる。ミラーの死生観とも。

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