ギボー(魏牟)が言ったソーシ(荘子)の人物像「さらりと自分をほどいて万物の内に溶け込み、すべてを無差別に肯定する境地に達している」は、中国人になったヘンリー・ミラー(『暗い春』)や壁に擬態したシュブラック(アポリネール「オノレ・シュブラックの失踪」)を思わせる。
https://fedibird.com/@mataji/111162010262826065
https://fedibird.com/@mataji/111014920547628374
彼らは現実に(物理的に)中国人や壁になったわけではない。
自分をほどいてしまった。ほどけたから他の何かに融合できた。そういうことのはずである。
いかにして自分をほどくか。
一年ほど前のメモから、『荘子』秋水篇にある話。
論理学派のコーソンリョーが道家のギボーに言った。
「自分は議論の達人のつもりでいたが、このごろソーシの議論に驚かされて、口もきけぬほどだ。自分にはかなわないのだろうか」
するとギボーが言うに、
「あのソーシという人物は、さらりと自分をほどいて万物の内に溶け込み、すべてを無差別に肯定する境地に達している。ソーシと議論するくらいなら、さっさと家に帰ったほうがいい」
https://johf.com/memo/024.html#2022.7.13
原文はずっと長いが、コアな部分を抜き出せばこんなところだろう。
コーソンリョーは公孫龍、ギボーは魏牟。
人名がカタカナなのは、たぶん漢字に変換するのが面倒だったから。
簡略 近代中国対外関係史
1840-1842 アヘン戦争
1842 イギリス軍が上海占領、南京条約により上海開港が決定
1845 イギリス租界設置
1848 アメリカ租界設置
1849 フランス租界設置
1851 太平天国の乱始まる
1856-1860 第2次アヘン戦争(アロー戦争)
1860 太平天国軍の第1次上海攻撃
1862 太平天国軍の第2次上海攻撃
1863 英米両租界が合併、共同租界に
1884-1885 清仏戦争
1894-1895 日清戦争
1895 下関条約(馬関条約)締結、以後開港場における外国資本の工場が激増
1899 英米共同租界が国際共同租界と改称、イギリスが長江流域を「勢力範囲」とする、アメリカが中国の「門戸開放」政策を提起
1904-1905 日露戦争
1912 中華民国臨時政府が上海に成立、清朝滅亡
1914-1918 第1次世界大戦
1917 ロシア革命により白系ロシア人の流入が始まる
1919 中国国民党が成立
1925 五・三〇事件、「反英」「租界回収」運動高まる
1926 国民革命軍(総司令に蒋介石)が北伐を開始
1928 北伐軍が北京を占領、全国統一を達成
1931 満州事変
1932 第1次上海事変
資料: 榎本泰子『上海』(中公新書)巻末年表
『聊斎志異』のフランス語訳が19世紀末(1880)に始まっていたことは前に書いた。
https://fedibird.com/@mataji/111101177053562015
英訳も19世紀末(1880)に始まっている。
最初の訳者として挙げられているのは、イギリスの外交官・中国研究者の Herbert Giles。
https://en.wikipedia.org/wiki/Strange_Tales_from_a_Chinese_Studio
『列子』のフランス語訳については、Wikipedia に記事あり。
https://fr.wikipedia.org/wiki/Lie_Zi
最初期の訳業(1911- 1913)はイエズス会の宣教師 Léon Wieger による。河北省献県で印刷されたものか。
『列子』の英訳(1912)として、イギリスの中国研究者・文筆家 Lionel Giles の訳が挙げられている。『聊斎志異』を訳した Herbert Giles の息子。
https://en.wikipedia.org/wiki/Liezi
『荘子』の最初期の英訳(1889)は Herbert Giles による。
https://en.wikipedia.org/wiki/Zhuangzi_(book)
『荘子』のフランス語訳については、『列子』を訳した Léon Wieger の訳(1913)が挙げられている。
https://fr.wikipedia.org/wiki/Zhuangzi_(livre)
地図の上で私はパリにいる。暦の上では今は20世紀の30年代。
だが私はパリにいるのでもなく、今は20世紀でもない。
私は中国にいて、中国語で話す。
三角帆の船で揚子江を遡っているところだ。
食物はアメリカの砲艦が捨てたごみを拾い集めている。
――ヘンリー・ミラー『暗い春』
文侯が子夏に問う。
「その人物は何者なのか」
子夏は孔子の高弟。招かれて文侯の師になっている。
彼が答えて言う。
「孔子先生が言うには、それは和する者である。和者は物とまったく同化してしまうから、物は和者を害することができない。和者は金石を通り抜けることも、水火の中を行くことも可能なのだ、と」
文侯「どうしてあなたはそれをしないのか」
子夏「私はまだ知恵を捨てることも私心を除くこともできません。ただ、せめてそれについて語ることだけはしたい」
文侯「孔子先生はしないのか」
子夏「もちろん先生はできます。でも、それをしないのです」
このようにして『列子』は孔子の地位を引き上げる。
じつは孔子先生は、人前でそれをしないだけで、金石を通り抜け、水火をくぐることはできるのです。「和して同ぜず」という自身の言葉を越えて、対象と同化してしまうのが、ここで描かれた孔子。『列子』はそのように地位――言うまでもなく道家的な価値観による地位だが――を上げることで、孔子を道家の陣営に引き入れる。すでに見た『荘子』の手口と同じ。
次も『列子』にある話。
普の趙襄子が大規模な焼き狩りをしたときのこと。百里にわたって燃え盛る火のなか、石壁から人が出てきて火煙のままに行ったり来たりしている。人々は鬼神かと驚いたが、火が遠のくとゆっくり出てきて、火中をくぐってきた様子などはまるでない。どう見てもただの普通の人である。
不思議に思った趙襄子が問う。
「おまえはどうやって石の中に住み、どうやって火のなかに入ったのか」
その人が答えて、
「何を石といい、何を火というのでしょう」
「おまえが出てきたところが石で、おまえが通り抜けてきたのが火だ」
「そんなこととは知りませんでした」
この話はその後、魏の文侯に伝わり、文侯と子夏の問答を通じて出来事の意味が深められる。というか、ストーリーに列子的価値が盛り込まれる。
周の穆王の時代のこと、西の果ての国に幻術士がいて、周の都にやって来た。彼は水火に入り、金石を貫き、山川を反転させ、城市を移動させた。虚に乗って墜ちず、実に接して妨げられず、千変万化して極まるところがなかった――と『列子』にあり。
原文は、西極之國,有化人來,入水火,貫金石、反山川,移城邑、乘虛不墜,觸實不硋…、ここに「貫金石」とあるのをどう解釈するか。
金属や石に穴をあけると訳した例もあるが、そのくらいのことは工人ならでき、幻術者の能力として列挙するようなものではない。「金属や石を通り抜けた」と壁抜け的に解釈すべきだろう。
「入水火,貫金石」が対句表現であることにも注意したい。金属や石に穴をあけたと解釈したのでは対句性が弱い。つづく「反山川,移城邑」も、「乘虛不墜,觸實不硋」も対句。同じ技法を並べて幻術士の不思議な能力を表現しているのであり、「貫金石」も「入水火」に釣り合う重みで解釈したい。
以上のようなことであれば、『聊斎志異』より2000年ほどもさかのぼった紀元前から中国では壁抜け術が知られていたことになる。すでに穆王の時代からそんな話ができていたとすれば、さらに千年さかのぼることに。
私には無数の自我がある。私は何度も死に何度も生まれ変わったから、とするヘンリー・ミラー『暗い春』の私。
6万7千もの身体を得た後、同時に死んだエイメ「サビーヌたち」の分身たち。
この両者の関係を考えるのを宿題にしていたが、無数という共通点のほか思いつかない。何か考えていたはずだが。
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さらに孔子はつづける。
「人はそれぞれが自分を自分として立てているが、どんな根拠で自分を自分としてるのか。
たとえばお前も、夢に鳥となって空を飛び、魚となって淵に潜るだろう。そしてそのことを言うとき、覚めて言ってるのか、夢の中で言ってるのか、わかりはしない。
分別を言うのは笑いに及ばず、笑いは推移に任せるに及ばず、推移に身をゆだねて変化を忘れてしまえば、静謐な天の一部になることができる」
すっかり道家である。
いいのか、儒家の総帥である孔子がそんなことを言って。
もちろん、まったくかまわない。道に目覚める以前、あるいは以後、そんな位置づけ、道との関連づけで『荘子』の孔子像は描かれている。目覚める以前の未熟な孔子、あるいは、じつは道に通じたわかっている孔子。
別の弟子・顔回が孔子にたずねる。
「孟孫才は母親を亡くしたとき、泣き真似をしただけで、衷心から悼むこともなく、喪中も悲しみませんでした。それなのに彼が立派に喪に服したと評判になったのはなぜでしょう。実がないのに名だけは高いということがあるのですね」
孔子が答えていう。
「孟孫才はきちんとやったよ。儀礼を省こうとしたが完全には省けず、形だけ残したのだ。
彼は人の生まれるわけも死ぬわけも知らず、生が先か死が先かも知らず、ただ変化の理にしたがって生まれ、変化のわけを知らずに変化するのみ。生と死、化と不化の別にこだわる私やお前などは、夢を見つづけているようなものだろう。
生死は形を損なうが、精神を損なうことはない。そのことを知る孟孫才こそ、ただ一人目覚めており、だから彼は人が泣けば自分も泣いてみせた。母親の死に際しての彼のふるまいがこれである」
子貢がこのことを孔子に伝える。
「彼らは何者でしょう。ふるまいは出鱈目で、礼儀をわきまえず、遺骸の前で歌を歌って恥じることもない。まったく言いようがありません」
孔子が答えていう。
「彼らは世俗の外で遊ぶ者、我々は世俗の内で遊ぶ者だ。内と外は相容れないものなのに、お前を弔問に行かせるとは考えが足りなかった。俗塵の外で気ままにふるまい、無為自然を楽しむ彼らが、どうして儀礼や形式を整えて、世人の耳目に応えることなどするだろうか」
これにつづく子貢との会話のなかで、孔子は儒家らしくないことを言い出す。
子貢「それでは先生の拠りどころはいかなるものでしょう」
孔子「私は俗世で生きるよう天から罰された者である。けれども私は彼らについていきたいと思う、お前といっしょにね」
彼らとは、子桑戶の遺骸を前に歌を歌っていた孟子反や子琴張のこと。礼儀をわきまえないと子貢が評した者たちのことなのだが。
先の引用箇所の後半に、「たとえ、最も親しい友人が死んでも、その葬式に行こうとはしないだろう」とあり、妻を亡くした荘子が盆を叩いて歌ったという話を思わせる。
私も妻に死なれた当座は悲しみに耐えられなかった。だが、人は混沌の中から生じて、混沌に帰る。妻がその混沌の世界で眠りにつこうとしているのに、ここで泣きわめいたら天命に通じぬ者となってしまう。だから私は泣くのをやめた。――というのが荘子の弁で、荘子の思想・言行を集めた『荘子』中でもよく知られた一話。
これと同様の話がほかにも『荘子』にある。
子桑戶、孟子反、子琴張は、たがいに世俗にとらわれない生き方をする者として理解しあい、友人となった。
しばらくして子桑戶が死んだ。
それを聞いた孔子が、弟子の子貢に言いつけて葬式の手伝いに行かせた。
すると孟子反と子琴張は、手仕事をしたり楽器を鳴らしたりしながら歌っている。
ああ桑戶よ
ああ桑戶よ
君はすでに君の真実に帰った
我々はまだ人間のままだ
子貢は思わず走り寄って、「なきがらを前に歌うのは礼にかなうことですか」とたずねる。
すると二人は顔を見合わせて、「こいつには礼はわからんな」と笑った。
中国人のような異常な人生とは――
不自然に活発で、不自然に健康で、不自然に冷淡で、花や岩や木のように生き、自然と戦いながら同時に自然とともに生きる、そんな生き方。
中国人を不審がったり、けなしたりしているのではない。逆である。ミラーは人としての生き方の理想を中国に見ており、ドゥルーズらの『千のプラトー』もそれを引き継いだ。中国人なら壁抜けができるとの『千のプラトー』の論が『南回帰線』のこのあたりに拠っていることは、著者らが認めている。再掲すると、
《壁を通り抜けること、たぶん中国人ならできる。しかしどんなふうに。動物になること、花または岩になること、さらにまた、不思議な知覚しえぬものになること、愛することと一体の硬質になることによって。 》
『南回帰線』つづき。
《もし、ある人が、キリストのように十字架にかけられずに生命を保ち、絶望と無能感を超越して生きながらえたならば、まことに奇妙なことが起るにちがいない。つまり、その人間は実際に死んで、しかもまた生きかえったことになるのだ。中国人のように、異常な人生を送ることになるのである。いわば、不自然に活発で、不自然に健康で、不自然に冷淡にならざるをえないだろう。悲劇感は消え、花や岩や木のように生き、自然と戦いながら、しかも同時に、自然とともに生きるようになるのである。たとえ、最も親しい友人が死んでも、その葬式に行こうとはしないだろうし、目の前でだれかが電車にひかれても、知らぬ顔で行きすぎるだろう。戦争が起きれば、友人たちを戦線へ送り出すことはしても、自分自身は、そんな殺生なことには、なんら興味を持とうとしないだろう。すべてが、そういうぐあいになるのである。》
・十字架にかけられて生命を保ったキリスト
・十字架にかけられずに生命を保つことになる人
両者の対比がわかりにくいが、いまは措く。
ともかく、ある人が絶望と無能感を超越して生きながらえると、その人は中国人のような異常な人生を送ることになるのだという。その人生とは――
「復活」の実相
《There was a resurrection which is inexplicable unless we accept the fact that men have always been willing and ready to deny their own destiny. 》
原文に "a resurrection" とあり、文脈から見て明らかにキリストの復活を指すが、ならば普通は "the Resurrection" とするところを、なぜ不定冠詞・小文字にしたか。
答えは、それが特別な復活だったから。その特別さを "the" の代わりに "a" で示す曲芸がここで行なわれている。
ある復活があった。それは、ある事実を受け入れないと説明のつかない復活である。その事実とは、人々はつねに自らの(死すべき)運命を否定すべく望みつづけ待ちつづけてきたという事実である。その願望の実現としてキリストは延命した。それが「復活」と呼ばれる出来事の実相。
キリストの復活によって人々は生命の永遠という安心を得たが、ミラーは逆に失われたものにこだわる。それがミラーの「中国」ないし「中国人」なるもの。
ここで話はキリストの死に転じる。その復活ということの意味。
《ある意味では、ある深い意味でいえば、キリストは、その袋小路から全然押し出されなかった。彼が、よろめきながらふらふらと外へ出ようとした瞬間、その否定の逆流は、まるで大きな反動で巻き返されでもしたように彼の死に待ったをかけたのである。人間の否定的な全衝動が、人間の完全体を創り出すために凝結して、奇怪な不活発なかたまりになり、まとまった一人の人間の姿を生んだものらしい。復活ということも、人間はつねに自分の運命を否定しようとしている事実を認めなければ、説明のつかないことである。地球は回転し、星は回転するが、人類は――世界を構成する人間の総体は――一人の、ただ一人のイメージに集約されているのである。》
ミラーはキリストの復活を良きこととは見ていない。それどころか、キリストは死ななかった、彼の死は「待った」をかけられた、それがいわゆるキリストの復活であるとする。
キリストの延命という出来事は、人々の願望に応えて起こった。その認識を示したのが訳文後半の「復活ということも…」ではじまるセンテンスである。原文は次エントリーで。
『南回帰線』つづき。
世の中の正常にあわせようとすること。
《かといって、もし他人の笑うときに笑い、他人の泣くときに泣いていたら、結局は、他人の死ぬように死に、他人の生きるように生きなければならなくなるだろう。ということは、自分を正常な人間にしようとして、それに負けることである。生きているあいだ死んでいること、死んだときしか生きられないことを意味する。そのような人間社会のなかでは、世の中はいつも、たとえ最も異常な状態にあっても、正常な様相を帯びる。ものごとはすべて、それ自体正しいわけでも正しくないわけでもなく、ただ考えかたによってそうなるだけの話である。もはや現実を信じないで、人の分別だけを頼ることになる。そして、その袋小路から押し出されるときには、思想もいっしょについて行くが、しかし、そのときには、もはや思想は、なんの役にも立たなくなっている。 》
世の中は正常であるかのような見せかけで動いている。その正常にあわせることの無意味。
袋小路から押し出されるとは、死ぬこと。