『私説聊斎志異』で言及されている『聊斎志異』の小話のうち、「労山道士」は最後のもの。次のような述懐があって、『私説――』もまもなく終わる。

《何はともあれ、私もまた家には帰らなければならない。そして帰れば私も「労山道士」の男と同様、女房から二箇月間を家の外で空費してきたことを責め立てられ、何等得るところのない才能をあなどられるであろう。うかつに、壁抜けの術を会得したなどとツマらぬことを自慢しても、得るところは額のコブぐらいでしかない。》

仙術にあこがれた王の山ごもりと、小説を書こうとした「私」の寺ごもりの期間がともに二カ月であることを作者は承知している。たまたまの一致というより、王の期間にあわせて「私」の寺ごもりが設定されたと見たい。
王は壁抜けに失敗し、作中の小説家は小説を書けずに終わる。ここでは壁は小説の喩えである。一方、現実の小説家である安岡は『私説聊斎志異』を書き上げる。

小説家である私は、長編小説を書くために寺にこもるが、ついに書けずに終わる。――というのが安岡章太郎が自身を題材に書いた『私説聊斎志異』のストーリー。
ということは、私は小説を書き上げたのである。してやったり。一種の壁抜けを安岡はやってみせたのではないか。

安岡章太郎は『私説聊斎志異』を書き上げることで壁抜けを果たした。
これは特別なケースか。
むしろ、小説一般、創作一般に言えることではないか。
意識的にしろ無意識にしろ、創作という営為は壁を通り抜けようとして行われる。通り抜けたらそこで完成。抜けられなければ未完、あるいは失敗作。

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推理小説の特殊性。
ほとんどの推理小説は、作者が壁を通り抜けてから書きはじめられる。
事態に先行する作者 vs つねに遅れて現場に駆けつける探偵。
推理小説の仕組みを知らされないまま、壁の手前で苦労させられる三枚目、その代償としての探偵の名声。

推理小説における探偵の本質的三枚目性を補うもの。

シャーロック・ホームズとワトソン博士の関係は、本来ホームズが担うべき三枚目性をワトソンが肩代わりし、ホームズにおいて露呈するのを防いでいる。
探偵小説の創始者とされるポーの作品では、探偵オーギュスト・デュパンがまとうべき三枚目要素を、語り手の「私」が肩代わりする。それに加えて「盗まれた手紙」では警視総監が大々的に三枚目を演じる。
筆名をポーにならった江戸川乱歩の場合、肩代わり役もポーにならって「私」がつとめ、明智小五郎を引き立てる。
横溝正史の作り出した金田一耕助は、事件が決着するまでつねに事態に先行される。肩代わり役がいないため、三枚目性を自身が担う。

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