公演が終わってロビーに出てきた寺山を一人のオランダ婦人が待っていた。
「ハンスは今どうしてるのでしょう」
ハンスは婦人の夫で、地元の郵便配達夫。
夫婦は3年前、天井桟敷の『邪宗門』を見にいった。劇がはじまって間もなく、黒衣の男が客席に降りてきて、ハンスを無理やりステージに引き上げた。夫がステージの上で化粧され、衣裳を着せられ、劇中の人物となって多少の演技をしたのを婦人はおぼえている。楽しそうだったという。その日、ハンスは家に帰らず、3年たった今ももどっていない。ハンスは今どうしてるのでしょう。

この出来事を枕に寺山は長文の演劇論を開始する。
私は虚構と現実の混在のなかで人間性の回復を図りたい、なぜなら――

《想像上の体験はしばしば現実生活の同義語であり、現実生活は、気がついたとき想像によって支配されていたりする。この両者は定義づけられて区別されるよりも前に、相互的に運動しながら、私たちの生活そのものの二輪の車となっており、ドラマツルギーは両者の区別が提起するものの本質にではなく、その両者が混在し、区別不可能化している事実の上にこそ、うちたてられるべきだからである。》――寺山修司「なぜ演劇なのか、呪術なのか」

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「実」の世界から「虚」の世界への招待という形で、寺山修司は出口を用意した。
観客を無理やり舞台に上げようとして問題になった『邪宗門』のヨーロッパ公演(1971年)がその代表例。
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劇団員でない者を当人の同意なしに舞台に立たせるというアイデアは、寺山が演劇活動を開始する前からのものだったという。
ラジオドラマを書きはじめたばかりのころ、寺山が番組制作者に述べたこと。
《街頭でパッと人間を拉致するんだ。全然不特定の人。それで目かくしして車に乗せて三十分か四十分か街を走りまわる。それからどこか劇場の舞台の真ん中におくんだ。ベルが鳴り、幕があがって、スポットライトが当たる。そして目かくしをはずすと、その人物は「助けてくれ〜!」と絶叫するだろう。
「こんないい芝居はないだろう?」》――田澤拓也『虚人 寺山修司伝』

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