公演が終わってロビーに出てきた寺山を一人のオランダ婦人が待っていた。
「ハンスは今どうしてるのでしょう」
ハンスは婦人の夫で、地元の郵便配達夫。
夫婦は3年前、天井桟敷の『邪宗門』を見にいった。劇がはじまって間もなく、黒衣の男が客席に降りてきて、ハンスを無理やりステージに引き上げた。夫がステージの上で化粧され、衣裳を着せられ、劇中の人物となって多少の演技をしたのを婦人はおぼえている。楽しそうだったという。その日、ハンスは家に帰らず、3年たった今ももどっていない。ハンスは今どうしてるのでしょう。

この出来事を枕に寺山は長文の演劇論を開始する。
私は虚構と現実の混在のなかで人間性の回復を図りたい、なぜなら――

《想像上の体験はしばしば現実生活の同義語であり、現実生活は、気がついたとき想像によって支配されていたりする。この両者は定義づけられて区別されるよりも前に、相互的に運動しながら、私たちの生活そのものの二輪の車となっており、ドラマツルギーは両者の区別が提起するものの本質にではなく、その両者が混在し、区別不可能化している事実の上にこそ、うちたてられるべきだからである。》――寺山修司「なぜ演劇なのか、呪術なのか」

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