《二十世紀がその絶頂に達して、太陽が腐りかけ、小さな橇に乗った男が「愛の歌」をピッコロで吹いている今日ほどにも、美しい日は私の記憶にない。この今日が私の胸のうちで、あまりに気味悪く光り輝くので、たとえ私がこの世でもっとも悲しい人間だったとしても、この地球を離れたいとは思わないだろう。(…)明日になれば、世界中の都会が崩壊するだろう。そして地上にいる文明人はすべて、毒と鋼鉄のために死に絶える。(…)しかし今日はまだ室内楽や、夢や、幻覚のうちに過ごすことができる。最後の五分間なのだ。》――ヘンリー・ミラー『暗い春』
ミラーのイメージにそぐわないが、とぼけたかったらピッコロ、そんな感じが好みなのか。最後の五分間だし。
そういえば、王宮の庭でピッコロを吹いていて国王と面識を得た盗賊がいたはず。
調べたら名はクロード・デュヴァル、王は17世紀イギリスのチャールズ2世。ただし、楽器の名はフラジオレ。こちらは縦笛で、リコーダーの一種。ピッコロとは別物ということで、記事にする理由がぼけてしまったが、まあ、いいか。
フラジオレット | 武蔵野音楽大学
https://www.musashino-music.ac.jp/guide/facilities/museum/web_museum/flageolet
クロード・デュヴァルは美貌を歌われた。
墓碑銘に次のようにあるという。(野尻抱影『英文学裏町話』)
Here lies Du Vall: Reader, if Male thou art,
Lock to thy Purse: if female, to thy heart.
ここに、デュ・ヴァル眠る。読む人よ、おん身男ならば
財布に御用心、おん身女ならば心に御用心。
人が壁を通り抜けるというマルセル・エイメ「壁抜け男」の発想は中国(の文芸や思想)由来ではないか。この仮説が当ブログの出発点。話はあちこちして、今はロンドン近郊を騒がせた盗賊の物語、どこまで外れたら気が済むのか自分といったところだが、むしろ、意図せずして出発点にもどったようでもある。
デュヴァルはカネと女心を盗んでまわった。
壁抜け男のジュチユールが熱中したのも、夫のいる女との情事と銀行破り。
カネと女ということなら、古代中国の盗跖(とうせき)も同じ。
《盗跖は手下を九千人もひきつれて天下を横行し、諸侯の国々で乱暴をはたらき、家の壁に穴をあけては入口をさぐり、他人の牛馬を追いたて他人の婦女を奪って我がものにしている。物欲にふけっては親戚のことも忘れ…》――『荘子』盗跖篇(金谷治訳注、岩波文庫)
壁を通り抜けるところまで共通!
ということは、壁抜けについて何かを考えるということは、盗賊について考えるのと同じということか。古代中国の大盗から近世イギリスの侠盗、現代日本のルパン三世まで。
#盗賊 #壁抜け男