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「虹口」は「ホンキュウ」。ディック・ミネの歌った「夜霧のブルース」に「夢のスマロ(四馬路)かホンキュウ(虹口)の街か」とあり。

「夜霧のブルース」は映画『地獄の顔』の主題歌。次のビデオでは開始から3分で主題歌がはじまる。
youtube.com/watch?v=VFLTDphHeA

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プロダンサーの山田妙子は、駆け落ち先の大連で男にも仕事にも見切りをつけ、1938年初頭、上海に渡った。
虹の入り口というイメージの「虹口」は、期待はずれの街だった。「横浜橋」という小さな橋を渡りきると、目の前に掘っ立て小屋のような木造二階建てがあり、「Blue Bird」と看板がかかっていた。これが虹口で一番のダンスホールなのか。看板の文字が英語なのがせめてもの救いといったところだった。

古くから上海にいるダンサーが妙子に言ったこと。
あのね、「上海ってすごく素敵」とか言うけど、実際に素敵な租界で暮らした日本人なんて、ほんの僅か。
あたしも来る前はそう思ってたけど、じっさいは見ての通り、長崎からパスポートなしで来られるから、虹口なんて長崎の田舎みたいなもんよ。租界に行くには、とにかく西洋の言葉がひとつできないと。住むなんてとんでもない。

妙子の目に映った虹口は欧米人の闊歩する上海ではなかった。向上心の強い彼女は一流ナイトクラブでのソロダンサーを目指して、河向こう=租界の欧米人社会に挑んでいくことになる。

これも榎本泰子『上海』による。榎本のソースは山田妙子(和田妙子名義)自伝。

のちにエドガー・スノウと結婚することになるヘレン・フォスターは、1931年、23歳で、アメリカ総領事館の秘書として働くため上海にやってきた。故郷のアメリカではいっかいの女性にすぎない彼女だったが、上海に着いたとたん、ドルの威力によってマンダリン並みの特権階級に押し上げられる感を味わった。

スノウと最初に待ち合わせをしたのは、共同租界随一の繁華街である南京路の喫茶店「チョコレート・ショップ」。そこは清潔なアイスクリームの一匙一匙が郷愁をさそう最もアメリカ的な場所であり、外国人が安心して牛乳を飲める唯一の場所だった。
この店はアメリカ人の船員が1912年に開業し、オフィス勤めの外国人に人気だった。アメリカで少女時代を過ごした孫文夫人の宋慶齢もお気に入りだったという。

日本と中国が軍事衝突を繰り返した1930年代を通じ、日本と英・米の関係も悪化を続けた。
1940年、上海駐留イギリス軍が撤収を開始。
太平洋戦争勃発直前の1941年11月、上海駐留アメリカ軍も撤収。
ヘレン・フォスターも1940年12月、アメリカ人婦女子への退避勧告を受け、寒風に震えながら黄浦江を下っていった。

以上も榎本泰子『上海』による。

上海のイギリス租界は、中国でもなくイギリスでもなかった。
既存の国家に帰属しない、いわば「自由都市」。同所は1845年、自由貿易を行う商人の便宜のために設置された居留地であり、住民たちは国家の干渉を嫌った。
イギリス租界は1863年にアメリカ租界と合併して共同租界となり、さらに自由都市としての性格を強めた。
20世紀に入ると、上海は戦争や革命から逃れる難民の逃避先となった。第2次世界大戦中、ナチス・ドイツから逃れるユダヤ人が上海を目指したのも、世界で唯一、ビザ無しで受け入れられる地だったから。

参考: 榎本泰子『上海――多国籍都市の百年』

上海帰りのリル
youtube.com/watch?v=19n7uyalzm

上海から帰ってきた。
それは一部の日本人の体験にすぎないが、体験はなくとも広く共有できた感覚ではないか、今が第2次大戦後10年20年ほどの間だとして。

1927年後半から文学者たちが上海にもどってくる。
蒋介石の4.12クーデター当時、広東の中山大学の教授をしていた魯迅は、同大を辞して10月はじめに上海についた。
郭沫若は8月の南昌蜂起に加わったのち、江西・福建一帯で転戦、敗れて山中をさまよったのち、福建省の漁港から香港に逃れ、10月下旬、香港から上海に来た。彼には2万元の懸賞がかけられていた。
武漢の茅盾も8月下旬、上海にもどった。船で上海に着くのは危険と判断して鎮江で列車に乗り換えたが、かえって怪しまれ、危うく逃れて上海入りした。
彼らが上海に集まったのは、文学活動に適していたから。国民党の治下より、いちおう西欧型デモクラシーをうたう租界のほうが安全だった。
    ――丸山昇『上海物語――国際都市上海と日中文化人』による

ヴァイオリンを習っている白痴の子、その家庭教師、唖の下男、肉姑娘。
ひるがえる青天白日旗。活人画。
上海租界には、まだ中国革命がとどいていない。人物すべて、ストップモーションで、「身の光は目なり若しなんじの目瞭らかならば全身も亦明かなるべし」(馬太伝、第六章)。
二人の盲目の手品師(暗黒の苦力)が、数メートルのロープであやとりをしている。指のかわりに全身を使って、等身大に形が出来あがってゆくところだ。
    ――寺山修司『盲人書簡(上海篇)』ト書き

先の記事の続き。1938年(昭和13年)に東海林太郎の歌で発売された「上海の街角で」は、21世紀の今も「深情難捨」または「深情難忘」として歌い継がれている。ただし、日本でも上海でもなく、台湾で。
youtube.com/watch?v=MYaPRG_PZn

数年前になるが、アメリカで日本の80年代シティポップがはやっていると聞いたことがある。一般化して言えば、世界のあちこちのカルチャーの場には、時間を滞留させる遊水地か溜め池のようなものがあり、よそでは消えたトレンドがそこでは長くとどまっている――というのがあるのではないか。たとえば、シルクロードの彼方からやってきた文物が、日本で正倉院に残されていたり、雅楽として引き継がれているように。
YouTube で台湾版の日本歌謡をあさるのは心地よい。ド演歌に収斂してしまう前の昭和歌謡が、台湾の遊水地で保存されている。

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ブランキ『天体による永遠』のエピローグ

《私は決して自分自身の楽しみを求めたのではなかった。私は真理を求めたのだ。ここにあるのは啓示でも予言でもない。単にスペクトル分析とラプラスの宇宙生成論から演繹された結論にすぎない。上記二つの発見が我々を永遠にしたのである。それは思わぬ授かり物だろうか? それなら、それを利用しようではないか。それはまやかしだろうか? それならあきらめるほかはない。》――浜本正文訳『天体による永遠』

それは授かり物か?
ブランキはこの書を、幽閉されたトーロー要塞の一室で綴った。
すでに老齢の60代半ば、イギリス海峡に望む岩礁に築かれた古い要塞で人生を終えることも覚悟しただろうブランキにとって、この書を仕上げたことは「思わぬ授かり物」であった。
ならば、それを利用しようではないか。ここに示したものは啓示でも予言でもない、私はついに真理を究めたのである。すなわちこれを我が思想の到達点とし、遺著としよう。ただし、現実のブランキはさらに10年ほど生き延びた。

それはまやかしか?
永遠は妄想の産物。ならば、あきらめるしかない。

救いはある、というのがブランキの考え。
なぜなら、反復には分岐が伴うから。

今この牢獄で『天体による永遠』を書いている私はといえば、王政、帝政、共和制、私が生きたすべての政治体制下で危険人物と見なされ、犯罪者として投獄され、敗北に次ぐ敗北を重ねながら、あいかわらず同じことを繰り返している。何もかもが俗悪きわまる再版、無益な繰り返しなのだ。 けれども嘆く必要はない。なぜならば、この永続と反復にはつねに枝分かれが伴い、この地上で我々がなりえたであろうすべてのことは、どこか他の場所でそうなっているのであり、すでに別の時空では別の私が革命を成功させているにちがいないのだから。

私は常に獄中に回帰してくるのではない。
反復は分岐を伴う。すなわち、獄外への分岐を。何人もの、いや、無数の私が、たえず獄外へ脱出しつづけている。回帰とは希望なのだ。

そのような無数の分岐の先には、もちろん上海も含まれる。
fedibird.com/@mataji/112056902

[参照]

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ルイ=オーギュスト・ブランキ(1805-1881)、フランスの社会主義者、革命家。
ja.wikipedia.org/wiki/ルイ・オーギュス

ブランキの著『天体による永遠』は、イギリス海峡に臨む岩礁の上に築かれたトーロー要塞の監獄で書かれた。
その中で彼が言うには、宇宙を作っている元素(原子)は100元素しかない。無限の宇宙を構成する材料が有限種しかないのだから、宇宙は無限に反復しなければならない。すべての天体も、天体上の生物も無生物も、すべての存在物はこの永続性を分かち持っている。
地球もそうした無限に反復する天体の一つであり、全人類も同様に反復する存在である。ブランキはそのように論を進め、現にトーロー要塞の土牢で『天体による永遠』を書きつづける自分に言及する。いま私が書いているのと同じことを、同じテーブルに向かい、同じペンを持ち、同じ服を着て、まったく同じ状況の中で、かつて私は書いたのであり、未来永劫書くであろう、と。

救いのない反復に見える。いつまでも冊子は書き上がらず、監獄からは出られず、革命は成らないのではないか。
何が言いたくて、彼はこんな書を遺したか。

江戸は隅田川沿いの私娼窟で、店の主人に納まっているのがじつは藤原純友の遺臣、そこで養われている三日月お仙が純友の遺児、そこへお仙をくれと言ってやってくる若い魚屋が頼光四天王の一人・渡辺綱であったり、
あるいはまた、江戸郊外の茶屋の主人が、じつは四天王の一人である卜部季武、その女房がじつは平将門の娘・七綾、そこへやってくるクズ鉄買いの伝七がじつは将門の長男・将軍太郎良門であったり、
江戸の市川團十郎を、じつは頼光四天王の一人・碓井貞光とする設定もあり。團十郎が貞光を演じているのではない、貞光が團十郎を演じているのだ、と。その團十郎に京から下ってきて弟子入りする女形が、じつは源頼光の弟・美女丸であったり。――

永劫回帰の観念が、ほぼ同じ時期にボードレール、ブランキ、ニーチェの世界に現れたことは、力説されるべきである――とベンヤミンは言ったが、彼らがイデアとして述べたことを、江戸の歌舞伎は見世物として客に供した。
ここで挙げたのはすべて、平将門、藤原純友の残党を江戸の現代に回帰させた鶴屋南北の例。先行例を並べて南北にいたる過程をたどることは、江戸芸能史の一面を語ることになるはず。

これも懐かしい、ソ満国境。
youtube.com/watch?v=qGVuMuDfES

この歌の歌詞「一つ山越しゃ他国の星が」は、はじめ「一つ山越しゃロシアの星が」だったという。出典がたどれないが、当局の忌諱に触れたというようなことか。

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懐かしいな、上海。
植民地を持ったことのしあわせ。先方の不幸との引き替えだが。

上海の街角で(東海林太郎・佐野周二)
youtube.com/watch?v=UOzAtqwB8F

ブログ名を変更、「壁抜随筆」を「壁抜雑記」に。
ホームサイトの名称 zakki by mataji にあわせてみた。
johf.com/memo/index.html

上海の街路を短い葬列がやってくる。
道ばたの老人が話しかける。

老人 いつ?
―― 一八八一年一月一日。午前九時十三分でした。
老人 なるほど。倒れてから五日間、とにかく生きてはいたというわけだな。
―― 一度も意識は戻りませんでした。お医者さまの見立てでは脳溢血と……
老人 七十五年の生涯のうち四十年間を、牢獄に幽閉されて過した。最後の五日間は、とうとう自分の身体の中にとじ込められてしまった。パリ、イタリー大通り二十五番地。古い建物の六階の小部屋。ベッドで横になっていると、どこからか隙間風が吹き込んで来る。
―― よくご存知で……
老人 墓碑銘は?
―― 「ルイ=オーギュスト・ブランキ。一八〇五年から一八八一年。主人もなく、奴隷もなく」
老人 よし、行こう。行って、私にも墓に花をそなえさせてもらおう。
―― 故人とは親しいおつき合いで?
老人 そう、終生の友……
―― 失礼ですが、お名前を。
老人 私か? 私の名は、ルイ=オーギュスト・ブランキ。たったいま、上海に着いたところだ。

同じタイトルの佐藤信『ブランキ殺し上海の春』からだが、先の「上海版」に対しこちらは別版「ブランキ版」の冒頭。

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昭和11年(1936年)2月26日、2.26革命が勃発。
武装正規軍の蜂起に呼応して、陸軍少佐大友宮アマヒト親王(大正天皇第5皇子)は弘前の連隊を率いて革命軍の一翼を担い、事態を宮廷革命へと変貌させる。革命に成功するとアマヒトは天武2世を名乗って即位し、昭和の幕を11年で閉じて「飛鳥」に改元。
一方、中国大陸とアジアの情勢打開に苦慮するコミンテルンは、大陸における日本の軍事力と民族資本の蓄積に着目し、亡命地「満州国」で保護されたヒロヒト天皇を精神的支柱とする「大東亜人民共和国」の構想を1940年の大会で決定。この構想を中核として多くの抗日・独立運動が再編成され、徹底した皇民化教育受けた年少者たちによる「皇衛兵」組織が各地で発足する。
かくて飛鳥10年(1945年)8月15日、天武2世の大日本帝国敗戦の日、ここは大東亜人民共和国の未来の首都に擬せられる上海。――

佐藤信『ブランキ殺し上海の春(上海版)』の時代設定だが、昭和は遠くなりにけり、年号が「飛鳥」に変わった当時を、誰がリアリティを持って思い起こせるか。だが、覚えはあるだろう、微かだとしても。

出口はこちら。方向だけだが。

正確な引用にこだわらない。
出典を詳記しない。
できれば自分の言葉で書き直す。盗む。
虚実を分けない。

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《たとえば私がバルパライソと言うとき、これまでの意味とはまったく異なる意味になる。それは、前歯がすべて抜け落ちたイギリス人娼婦と、通りの真ん中に立って客を探しているバーテンダーを意味するかもしれない。あるいは、シルクのシャツを着て黒いハープの上で繊細な指を走らせている天使を意味するかもしれない。あるいはまた、蚊帳地で腰を巻いたオダリスクを意味するかもしれない。それはこれらのいずれかを意味するかもしれないし、何も意味しないかもしれないが、それが何を意味するにせよ、それまでとは何か違うもの、何か新しいものであることは間違いない。》――ヘンリー・ミラー『暗い春』

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《すでに言ったように今日は春の三日目か四日目で、哀れで惨めな気分の春なのに、寒暖計のせいで私は南京虫みたいに気がおかしくなってゆく。読者は多分、私がずっとクリシー広場に腰をおろして、アペリティフを飲んでいたと思っている。じっさい私はクリシー広場に腰をおろしていたが、それは二、三年前の話だ。また、小さなトム・サムのバーにもいたが、それも長い昔のことで、以来ずっと蟹が私の急所をかじってる。すべてはパリの地下鉄(一等席)で、l’homme que j’etais, je ne le suis plus(私はもう以前の私ではない)というフレーズとともにはじまった。》――ヘンリー・ミラー『暗い春』

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