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三宅 芳夫 さんがブースト

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私は、選挙のときもそういうものを感じます。

未だに
都知事選での石丸候補の「躍進」の理由を、動画やSNS戦略の巧みさにみる意見を見ます。

むろん、SNSや動画を分析することから分かることもあると思います。

しかし、私は彼が大量の動画を出せた、その背景こそが重要だと思います。

大量の動画を作ったり、
それをみてもらうための広告費がどうやって用意されたのか。

選挙を手伝う膨大な人員はどこから来ていたのか。

そして「動画戦略だけではダメだ、やはり大きなマスコミに出ないと」とマスコミに彼のことを「2位になるかもしれない」と大きく取り扱わせた「選挙の神さま」と言われるコンサルタントを誰が雇ったのか。

そういうことをもっと知りたいです。

そういう背景への視点を持たず、わかりやすく見えているところに飛びついて分析対象にするなら、
頻繁に表示される動画を見て感動し、石丸氏に投票し、特攻に興味を持つ若者からどれほど距離があるのだろう、と思います。

私たち大人がなすべきことは、未熟な若者を責めたり、そういう不均衡な表示をするプラットフォーム(マスメディアも含め)を当然視したりすることではなく、恣意的な「偏り」に対して疑問を持ち、おかしいのでは?と言っていくことではないでしょうか。(終わり)

三宅 芳夫 さんがブースト

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そうした私たちの「加害の歴史」が内容に含まれる映画がトップにどーんと表示されることは、まずありません。

私がこれらの映画をアマゾンから探せるのは、あらかじめこういう映画があることを知っているからです。

せめて、これらの「加害」を描いた映画も今回の「あの花が」と同じくらいの扱いで大きく表示され、見る側が選択することができれば・・・と思います。

特攻隊に志願した若者は「本当は志願したのではない、強制されたのだ」とよく言われます。

そういう時代に比べたら、私たちはいろんなことを自分で自由に選択しているように見えます。

しかし、実際のところ、判断する材料もろくに与えられないまま、お金や力のある人たちが望むものだけを示されて、「このどれかを選べ。選んだら責任をとれ」と日々迫られているような気がするのです。

実際には示された選択肢以外のものがあるのに、それがないかのように見せられ、巧妙に誘導されているのに。

(つづく)

三宅 芳夫 さんがブースト

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特攻記念館のようなところを訪れ、”知っている”人たちの写真や手紙が展示をされているのを見て、泣き崩れるという場面で終わります。

タイムスリップし、「出撃する隊員たちを世話する食堂のおばさん」を住み込みで手伝うようになる主人公。
当然、自分と近い年齢の若者たちが、苦しみながら出撃する姿を複数見ます。

しょうじき、よく出来ていると思いました。

もし私が主人公たちと同じような10~20代の年齢だったら、この映画を泣きながら見て、知覧についての本を読んだり、「”聖地巡礼”したい」と望んだかもしれません。
(そしてそうしている限り、日本軍の「侵略」からは目を逸らし続けることになったでしょう)

今回私がなぜ「あの花が」を見たのかというと、発言が批判されている卓球のメダリストの女性は、この映画を見たのではないか、と思ったからです。

もし、プライムビデオのトップページに、繰り返し表示される映画を、おすすめされるままに見て、素直に受け取る若者がいたとして、誰を責めたらいいのか。

私は、アクセスしやすいところにこういう特攻を題材にした映画だけがあるような社会がまずおかしいと思います。

アマプラには「アイ・キャン・スピーク」や「雪道」などの「従軍慰安婦」を扱った映画もありますが、

(つづく)

三宅 芳夫 さんがブースト

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何日か前、映画を見るためにアマゾンのプライムビデオにアクセスすると、「あの花が咲く丘で、君とまた出会えたら。」(以下「あの花が」と略)という特攻が題材の映画がトップページに表示され、その後数日間変わらず表示され続けました。

トップに表示されていること自体が一定の「お墨付き」となり、この映画を見た人は多いと思います。

"#1 日本"と出ていた日は、日本のアマプラ内の日本映画でその日一番見られていたのでしょう。

以前、あるブログで「この映画の主人公の「タイムスリップ」自体が、主人公が「父の死」を乗り越えて内面的な成長をするための「夢」であると解釈でき、全体的には”反戦映画”と解しうるが、若い人がそう受け取るかどうかは危うい」という趣旨の評を読みました。

確かに、特攻をじかに賛美する場面は出てきません。「今の平和は、尊い犠牲のおかげ」などのクリシェも一切出てこず、現代から1945年にタイムスリップしてきた主人公は「でも、”無駄死に”じゃん」という視点を最後まで持ち続けます。

しかし、だからこそ、これほどよく出来た特攻”理解”への「入り口」があるだろうか、と思いました。

現代に戻った主人公は、自分は恵まれていて幸せなのだと気づいて、自覚的に生きようと決意、
(つづく)

三宅 芳夫 さんがブースト

この時期といったら「火垂るの墓」なので下の子に見せようとと思っていたが、放映がないのであるな。調べたら2018年からテレビでやらなくなったそうである。

調べたわけではないが、安倍晋三一味の圧力も一部きっとあるだろうなあ。戦火がもたらす悲惨を子供達に知って欲しくない、聖戦を美談だけで埋め尽くしたい日本すげーの一派にとっては実に邪魔な文化的遺産、レガシーであろう。

それとは関係なくジブリはネットフリックスでも日本国内からの接続だと配信していない。欧州からだと全部見ることができる。権利関係の障害か何かだろうか。

まあ、そんなのに負けるわけいかないので探してみせた。

  件の京都の大学の先生、「スンニ派がパレスティナを助けるわけがない。」などと妙なことを仰っていたが、これも間違い。

 「アラブの大義」を口先で唱えるエジプトが一向にパレスティナを助けないのは、シシ軍事政権が米国の管理下にあるため。元来「アラブの春」の後、合法的に選挙で政権を獲ったムスリム同胞団をクーデターで軍部が打倒できたのは、米国の許可があったから。ついで言えば、ハマスもスンニ派、トルコもスンニ派である。
 さらに言うとアラファトのPLOは世俗主義近代派であったし、モサドに爆殺された作家のG.カナファーニーはPFLP(マルクス=レーニン主義に基づく反植民地主義)所属。

シーア派のイランは現在米国・イスラエルに対立する中東唯一の国家と言えるが、1979年の革命までのパーレヴィー政権は中東における「米国の番犬」と呼ばれていた。

またイランがシーア派主流になったのは、オスマン帝国との対抗上、18世紀になってからである。

N先生が愛するトルコはと言えば、WWII直後からNATO加盟国であり、朝鮮戦争に相当兵力を派遣。また国内のクルド人問題を解決する気はさらさらない。

またエルドアンはナゴルノ・カラバフ戦争においてイスラエルの軍事ドローンをアゼルバイジャンに大量供給、結果アルメニアは大敗した。

 

 ことほど左様に、「欧州」の形成にはイスラム文明が混交している。

 であるから、今の欧州の一般言説のように、パスレティナ問題や中東問題一般を「文明の衝突」とするハンチントン的なフレームは議論を「トンチンカン」にする効果しかもたない。

 日本でも「イランが核兵器をもっている」と思い込む御仁さえいるくらいである。実際は、中東ではイスラエルだけが核兵器をもっている。

 結局の所、問題の99%は「リベラルな国際秩序」を自称する欧米帝国主義と中東地域の「力」関係に拠る。
 しかし、欧米言説では最近ようやく「植民地主義 clonialism」という言葉は使用するようになったが、「帝国主義 imperialism」の解釈格子を使うことはまずない。

 また欧州のリベラルは19世紀の半ばになってようやく「奴隷制」廃止に踏み切ったが、それは同時に「奴隷制」が残存しているアフリカ・中東を「文明化」する大義名分となった。ここは注意が必要。

 ところで、現在の中東情勢を「逆ハンチントン」的になんでも「文明の衝突」で説明しようとする京都の大学教授がいるが、これは明らかに誤り。

 たしかに欧米メディアのエルドアン叩きは操作されたいるが、さりとて、エルドアン側の主張を鵜呑みにはできないのである。
 
 

 

 

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 ところで、10世紀末にボローニャ周辺で何故ローマ法(ユスティニアヌス法)が「再発見」され、法律家によって加工しながらヨーロッパ各地に輸出されたのでしょうか?

 ここで、ローマ法がイスラムの遺産だということを思い起こしましょう。10世紀はユーラシアの東西で宋朝とアッバース朝によって「グローバル経済」が成立している時期。このルートを通って、羅針盤・黒色火薬・活版印刷も中国から西欧に伝えられる。

 またイスラムは元来都市商人の宗教であり、この時期には「神学者」は存在せず、「法学者」がトラブルに調停・仲裁にあたる。そのためのルールも発達します。

 このイスラムネットワークにとっても、重要なものの一つが地中海遠隔商取引でした。

 欧州史では11、12世紀は商業の復活の時代と語られれますが、当時のユーラシア世界経済の西の末端に参加している状態に過ぎません。

 イスラムとの接触の中で、アラビア数字、医学、哲学(アリストテレス)、法学、そして法律家を大学で養成するシステム(マドラサ)などが北イタリア(ボローニャ・バドヴァ)、南イタリア(ナポリ)などに導入されたと推測されます。

 このローマ法の私法的部分がイタリアから南仏に広がると同時に、組織法として変形されて教会法へと発展していったと考えられるのです。

三宅 芳夫 さんがブースト

BT

リンクがうまくとべなかったので、はりなおしておきますね。
weibo.com/tv/show/1034:5067330

フィリピンの元「慰安婦」の女性について、今ぱっと思い出せるのは、「レッドマリア それでも女は生きていく」というドキュメンタリに、当事者の方が出ていらしていたと思います。
これはとてもいい映画なので、見たことがないという方はぜひ。
(レンタルで見られます)。

三宅 芳夫 さんがブースト

今日は世界『慰安婦記念日』一部のフィリピンの「慰安婦」被害者家族は抗議活動を行い、日政府に正式に謝罪し、賠償を支払うよう求めました。日本がフィリピンを占領している間、フィリピンの女性1000人以上が「慰安婦」として強要され、現在も生きている被害者はごくわずかで、彼女たちは一生謝罪するのを待っていない。2017年、フィリピンは「慰安婦」の記念像を作ったことがありますが、わずか4ヶ月後、日本政府の圧力で取り壊されました。
t.cn/A68khIvwhttp://t.cn/A68kh

  岸田首相退任に合わせてTVも慌ただしく、「次の総裁選」についての広報に勤しんでいるらしい。

 朝日系の番組では、慶応SFCの竹中平蔵の弟子の中室牧子が「河野太郎氏に期待します。閣僚経験も豊富だし、突破力も本物」などとコメントしていたのとこと。

 この中室という人は、朝日の論壇委員やら、JRの車内画像広告にやたらと頻出するので、さすがに私も名前を覚えた。

 画像広告では、男性アナウンサーに「AI時代に人に期待されているものは?」と聞かれて、ホワイトボードに「コミュニケーション力」と掲げて、車内の私を驚かせたものである。

 ところで、「突破力」という言葉、私の知らない界隈では、最近は普通に使うらしい。

 昔、宮崎学が「突破者」という自伝を書いていたけれども、何か関係があるのだろうか?

 何にしても、思想や方向性をブラインドにして「突破力」だけ求めるのは、危険極まりない。

 ヒトラー率いるナチスは「危機の時代」における「突破力」だけは群を抜いていたのである。

 どうも、「ワンワード・フレーズ」で大衆心理を操作しようとする広告作法、この30年まるっきり変化がないようだ。

 念のため付け加えておくと、広告を組織的に政治における大衆動員に利用したのはナチスをもって嚆矢とする。

 今日は一応「お盆」である。

 この1年弱で亡くなった人。
 A.ネグリー「自由と平等のために人生を捧げた」の遺言を残す。『帝国』による現代資本主義の分析は失敗に終わったが、「マルチチュード」の概念は、それこそカント的な「統制的」理念として生き続けるだろう。

 F.ド・ヴァールーオランダ出身、妻はフランス人、米国で活動した人類学者、動物学者。英語圏で猛威を振るうR.ドーキンス的な「遺伝決定論」と新自由主義の結合を批判し続けた。霊長類研究を通して、「生物」としての「人間」の位置づけに大きな光を当てる。

J.A.ポーコーックーニュジーランド出身の政治的人文主義の研究者。一般には地味だが、17,18世紀研究を一変させた。
 特に、日本の17世紀、18世紀研究はポーコックの出現で大きく変化した。
 ただし、ノーマンの『クリオの顔』を再読すると、すでにポーコック的な政治的人文主義が注目されていることに気づく。
 J.イスラエルの「穏健啓蒙」と「急進啓蒙」の区別、そこからも排除されたルソーとフランス革命について、現在まだ説得的な議論は提出されていない。

大江健三郎ー「サルトルにはじまり、サルトルに戻った」との記事が出たが、戦後文学との関係についての研究はこれからだろう。合掌。

              

 どうも「職業はドイツ人」と名乗るドイツ人のタレントが「ゲンロン」活動も行っているらしい。

 同じタイプの米国人は、複数仄聞していたけれども、「職業はフランス人」という右派言説を語ってくれるタレントはいるのだろうか?

三宅 芳夫 さんがブースト

ビリー・ワイルダーの映画「情婦」(アガサ・クリスティ『検察側の証人』原作)という超有名な、めちゃくちゃおもしろい映画があります。

だいぶ前に一回見て、最近もう一回見直しました。

そうしたら、何年か前に見たファスビンダーの映画「マリア・ブラウンの結婚」で描かれていたことと、重なる背景事情が出てきて、頭のなかでそれらが響き合って、さらにおもしろかったです。

これがいわゆる「解像度があがる」ということなのでしょうか。

ちなみに、「情婦」に出てくるのは「リリー・マルレーン」を持ち歌にしていたマレーネ・ディートリッヒです。

今回の「ファスビンダー傑作選」のラインナップに「マリア・ブラウンの結婚」は入っていないようですが、まだ見たことがない方はぜひごらんになることをおすすめします。
(配信やレンタルなどで。地域の図書館などに入っていることもあります)

そこで描かれる「戦後」に圧倒されます。

 現在の日本には、批判的知識人は点として散在してはいるが、層としてあるいは「知的ブロック」としては存在していない。

 これは、勿論複合的な要因によるが、短期的・直接的には、三浦雅士『現代思想』、蓮実重彦『ルプレザンタンシオン』、浅田・柄谷『批評空間』、と続いて21世紀に入って東浩紀の『思想地図』に至る流れが人文系インテリを瓦解させたと言える。

 先の投稿で、1960年-1970生のインテリで『現代思想』・『批評空間』で自己形成した「世代」の「無惨さ」を「痴愚神礼賛祭り」シニアで例解したけれども、21世紀に入って『思想地図』から始めた世代はさらに悲惨である。

 何と言っても東浩紀がそうであるように、この時期になるとそれまでよかれあしかれ存在していた「フランス思想」という他者=外もなくなり、ただJAPANのサブカルチャーに自閉していくだけ。

 この段階で「リベラル」仕草の軛からも完全に開放され、SF業界も含めて「ネトウヨ」・「ミゾジニー」ハビトゥスが爆発することになった。

 であるから、1980-90生で仮に『思想地図』や「ゲンロン」で自己形成したとしたら、これはもう目も当てられない。

 となると30年間、知識人は再生産されなかったことになる。ここ数年僅かに変化の兆しがあるのは微かな希望だろう。

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 「骨相学」というと、現在の日本では「観相」程度の、ごくたわいのないものと受け取られがちです。

 しかし19世紀には「骨相学」は「科学」としての権威をドイツを中心としてかなりもっていました。夏目漱石やアインシュタインの脳がホルマリン漬けにされているのも、その流れです。

 この当時、骨相学は人種主義・優生学と結びついて多分野や国家政策に大きな影響を及ぼしていた。例えばロンブローゾの「犯罪生物学」など。

 ちなみに日本人をはじめとしたモンゴロイドは「倫理的に劣り、模倣するしか能はなく、独自性」がない、とされた。

 これ、現在の脳科学の用語に翻訳すると、中野信子の「アジア系の80%は主体的に思考できないことが脳科学的に証明されている」の発言になる。

 また優生学はフランスを除く全ての(勿論日本も)近代国家が断種政策を行う際の科学的正当化として機能した。

 つまり国家が福祉へと資源投入するからには、それは「リターン」と結びついた個体が選別されるべき、という発想である。

 こうした優性思想に基づいた選択的福祉政策の再前景化も新自由主義局面の特徴である。

 ちなみに福祉国家スウェーデンでも1930年代に骨相学に基づいてラップランド住民(サーミ人)が、どのような過酷な扱いを受けていたについては、

 映画『サーミの血』(2016)が参考になります。

 東大の先生は、グールドは無理でもこの映画位は最低見た方がいいと思う。

 でないと、このまま行けば「人種主義・植民地主義」・「ミソジニー」、そして口だけ「反資本主義」の労働者差別者、の三拍子揃った学者、ということになりかなない。

 警告はしたよ。

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 しかし、21世紀になって東大教授が人種主義と分離不可能な骨相学的言説をなぞるとは、ある意味「ぶっとんでいる」。
 さすが、福田和也を評価しているだけのことはある。福田はゴビノーからドリュ・ラ・ロシェルに至る仏極右の「文学的」伝統を「背負っている」などと自称していた。

 ところで、この骨相学、20世紀に入って、文化人類学でも形質人類学でも完全に否定された。1980年代に人類学の講義に出れば、最初に言及される。

 ただし、この種の「疑似」科学」的な人種主義、現在はDNA理論によって再び活性化している。何と言ってもこの分野の創始者の一人、J.ワトソンは「骨の髄からの」レイシスト、セクシストであり「遺伝的に黒人と女性は白人男性に能力で劣る」と主張し続けて、ついに失脚した。

 しかしR.ドーキンス的な遺伝決定論は英語圏で強い影響力を持ち、S.グールドやド・ヴァ―ルは長くこれと闘った。

 スパルタカス君に関しては、とりあえずグールドの『人間のはかり間違い』(河出書房文庫・上下)を読むことを勧める。

 いずれにしても現在の「疑似」科学的言説の主流は脳科学とAIになった。

 東・浅田的言説の特徴は「テクノロジー万能論」。これに日本のSF業界の「ミソジニー」爆発が折り重なるから手が付けられない。
 

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 昨日、会議のため都内に出る。15時ごろだったためか、10分歩いただけで、酷暑のためか、サウナにでも入っているかような感覚に襲われる。

 このまま熱中症で倒れるのではないか、と思ったが会議室に入ると、一挙に涼しくなり、一息つく。

 やれやれ、と会議室のエアコンの温度を見ると、なんと28度である。これは驚いた。体感では20度くらいかと思っていた。

 その上、2時間以上会議を進めていると、参加者全員が「寒さ」を感じてエアコンの温度を29度に挙げる。

 これは人が1,2ヶ月かけて体を気温に合わせて調整しているからだろう。

 また「暑い」と感じて体温調整、発汗機能、「暑い」の感覚が発動するだけ「まし」なのかもしれない。

 聞く所では、室内で「暑い」と感じずにそのまま「熱中症」で倒れる方もいるらしい。

 しかし、そうはいっても年々夏の暑さは酷くなっている。エアコンがあると言っても、昔の夏は30度越えで「真夏日」といっていたのだから、10度近く上がっているのではないか?

 これでは7-9月にはカナダで森林が燃え、12-2月にはオーストラリアで森林が燃えるのもむべなるかな。

 ナオミ・クラインが言うように、まさに地球は「燃えている on fire」。

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