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天井桟敷の第1回公演が「青森県のせむし男」(1967年)。
大正家の息子が女中のマツをはらませる。
世間体を恐れた大正家はマツを入籍させるが、マツが子を産む前に息子は旅先の上海でコレラにかかって死ぬ。
マツが猫の子を産んだとして、子は殺されることになるが――

《本州の北の崕、暗く侘びしい青森県に棲む母と子というイメージを提出することによって、寺山修司はここですでに「寺山修司という物語」のための布石をしているのである。何のために? 運動に偽の中心を与えるために。(……)寺山修司という虚構を真正面に打ち出すこと、それが寺山修司の戦略だった。》――三浦雅士「寺山修司を記述する試み」

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《子供の頃 あかい夕焼の路地を追いかけっこしていってそのまま一生追いかけっこの鬼で通した男 それが おれですよ》――寺山修司「青森県のせむし男」

列子が空を飛んだことは『荘子』にもある。
曰く、《列子は風に御して行き、冷然として善し。旬有五日にして而る後にかえる。》――『荘子』逍遥遊篇

「冷然」は軽やかの意という。
「旬有五日」は15日。福永光司によると、15日は1年360日を「二十四気」で割った数、すなわち「一気」の期間であり、中国古代の気象学では、天候は一気ごとに変化するとされるから、「旬有五日にしてかえる」とは、15日で風が変わり地上に舞いもどってくるの意となる。
列子の飛翔は風に依存しており、まだ自由自在の境地には達していない、というのが『荘子』の列子評。

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仙術の修行は年月を要すること。

列子は老商氏を師とし、伯高子を友として、この二人の道をきわめ、風に乗って帰ってきた。それを聞いた尹生という者が列子に弟子入りし、風に乗る術を教えてくれるよう数カ月のあいだに十遍も頼んだが、教えてもらえない。――という話が『列子』黄帝篇にある。
列子を恨んで家に帰った尹生だったが、再び弟子入りして教えを請うた。
すると列子は次のように言った。
自分は老商氏と伯高子に学んで3年後、心に是非を思わず、口に利害を言わなくなって、はじめて師がちらっとこちらを向いてくれた。そして5年後にはかくかくのことがあって、ようやく師はにっこりされ、さらに7年後、こうこうのわけで師の部屋で同席することを許された。
9年たって、考えたいように考え、言いたいように言っても、その是・非、損・得は気にならず、師が師であるとか、友が友であるとかも気にならず、内・外、自・他を区別する意識もなくなった。
かくてはじめて、木の葉が風に舞うように東西することができるようになった。今や、自分が風に乗っているのか、風が自分に乗っているのかも知らない、と。
以後、尹生は二度とそのことを口にしなくなった。

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書きはじめたばかりの小説から、登場人物のイカロスが姿を消す。
盗まれたのか、逃げたのか。
ライバルの小説家をたずねたり探偵をやとったりして、消えたイカロスの行方を探す作者。
探索ははかどらず、弱音をもらす作者。

《作中人物を失った小説家の運命とはいかなるものであるか? たぶんいつの日かすべての小説家がそうなるだろう。われわれはもはや作中人物を持たなくなるだろう。作中人物たちを探す作者たちになるだろう。》――レーモン・クノー『イカロスの飛行』(滝田文彦訳)

楊朱の弟を楊布といった。
あるとき楊布は白い着物を着て外出したが、雨に降られ、黒い着物に着替えて帰ってきた。飼い犬が気づかずに吠えたから、楊布は怒って鞭で殴ろうとした。
それを見て兄の楊朱が言った。
「殴るのはやめろ。おまえだって同じだろう。もし、出かけるときに白かったおまえの犬が、黒犬になって帰ってきたら、やはり怪しまずにはいられまい」

『列子』説符篇にある話

《フランドル地方のことわざ(ブリューゲルは、他の作品でフランドルのことわざを表現した絵を描いている。)に、「それでも農夫は耕し続けた」という言葉があり、苦しんでいる者への人々の無関心を表していると解釈できる。(……)この絵は、イカロスの死には見向きもされず、日々の暮らしが営々として続いている場面を描くことにより、他人の苦難への人間の無関心を描こうとしているのかもしれない。》――イカロスの墜落のある風景 - Wikipedia
ja.wikipedia.org/wiki/イカロスの墜落の

画面右下、海面に足だけ見えているのがイカロス。

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ダイダロスは脱出に成功する。
ただし、迷路をたどって出口をみつけたのではなく、翼を自作して迷宮の窓から飛び出したのであり、いわば迷路ゲームのルールに違反しての脱出。
おまけに息子は死なせてしまったし。
johf.com/memo/014.html#2021.8.

あちこちで行き止まりになったままの迷路。それが目下の当アカウント。
どう打開するか。
あるいは、どう遊ぶか。

マルセル・エイメの「壁抜け男」にはじまって、これまで本やネットの記事を材料に外側から迷路を作ってきたが、内側から出口を探す方向に変えたい。
材料は引き続き本やネットからだろうし、することも実際には同じだろうが、姿勢を逆向きに迷子のつもりで。

《ミーリア叔母さんがすっかり頭が変になっていて、通りの角まできたとき馴鹿(トナカイ)のように飛びあがって、月をひと口食いちぎるなどとは誰も思っていなかった。(……)「月、月」とミーリア叔母さんは叫んで、それと同時に、魂がからだから飛びだし、一分間に八千六百万マイルの速力で月に向かって突進していって、だれもそれを留めるのに必要な速さで考えることができなかった。星がひと瞬きするうちに、そういうことが起こってしまったのだった。》――ヘンリー・ミラー『暗い春』(吉田健一訳)

これも「仕立屋」の章から。
続くくだりは、叔母さんを精神病院に届けるよう言いつけられたわたしの目で長々と語られて、次のように終わる。

《わたしは行かなければならない。駆けて行かなければならない。しかしわたしはまだ一分間もそこに立って、ミーリアのほうを見ている。その眼は驚くほど大きくなって、夜のように黒く、なぜこんなことになったのかどうにもわからないようすでわたしの方を見つめている。狂人や白痴はあんなふうに人を見はしない。天使か、聖者でなければあんな眼つきはできない。》

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《温度は零度までさがっていて、馬に片腕を噛み取られてしまった狂人のジョージが、死人の古着を来ている。零度で、ミーリア叔母さんが帽子のなかに入っていたはずの小鳥を捜しまわっている。零度で、曳き船が港であえぎ、浮氷がかち合い、煙の細長い筋が曳き船の前後に巻きあがり、風が一時間七十マイルの速力で吹き、何トンも何トンもの雪が小さな雪片に砕かれて、そのどの一ひらにも短刀が隠されている。窓の外にはつららが栓抜きのようにさがり、風が唸り、窓ががたがたいう。ヘンリー叔父さんは、「中学五年万歳」を歌っている。胸がはだけ、ズボン吊りははずされ、額に青筋がたっている。「中学五年万歳」》――ヘンリー・ミラー『暗い春』(吉田健一訳)

「仕立屋(The Tailor Shop)」の章から。
「中学五年万歳」の原文は Hurrah for the German Fifth。それと思われる歌詞が「アメリカの古い歌」と題してネット上にある。
traditionalmusic.co.uk/songste

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ミーリア叔母さんの思い出に駆動されたわたしの興奮は、翌日の夜中になっても収まらず、自分は絵が描きたいのだと気づいて、水彩で馬を描きはじめる。
絵が出来ていく時間的経過をミラーは記していないが、邦訳の文庫版(福武文庫)で20ページ分の試行錯誤をかさねて絵は出来上がり、これほどのものは二度と描けないだろう傑作として、いま目の前の壁にかかっている。
この傑作には、ウラル山脈の向こうの湖や、いつかできるはずのコロラド川の河口や、墓地の門から忍び込む異族や、その他さまざまなものが描きこまれているのだが、そうか、おまえには見えないのか。でも、氷河に凍らされたみすぼらしい青い天使は見えるだろう。その天使は、おまえの目が間違っていないことを保証する透かしのように、そこにいるのだ。
ここでの「わたし」と「おまえ」は、どちらもミラー自身を指している。描いた者も、見ている者も、描かれた天使もミラーなのである。
この章は次のようにして終わる。

わたしはその絵の馬のたてがみから神話を消すことはできる。また揚子江からその黄色を、ゴンドラに乗っている男からその時代を、また花束と稲光をいっしょに包む雲や薄葉紙を消すこともできる。……だが、天使は消せない。天使はわたしの透かしなのだ。

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自転車で出かけて、コールド・チキンとワインをたのむ。ワインを2本飲んでも眠くならない。すでにテーブルの上はメモでいっぱい。チーズとぶどうと菓子を注文。おそろしく食欲があるが、何を食べても自分の胃には入らず、誰か他人がわたし=ミラーのかわりに食べているように感じる。
帰りにカフェでコーヒー。あいかわらず誰かがわたしに口述を続けている。夕食後、疲れ果てて古雑誌を手に取る。開いたところに「ゲーテとそのデーモン」という文字。わたしは鉛筆で余白を埋めはじめる。
真夜中、わたしは元気を取りもどす。口述はやんでわたしは自由だ。作品を書く仕事にもどる前に自転車でひとまわりしてこよう。
自転車の掃除をはじめる。スポークを一本一本きれいにし、油をさし、泥除けを磨く。出かける前にぶどう酒を一本あけ、パンとソーセージ。いままでの食事はすべて無駄だったが、いまは確かに自分が食べている。
タバコを一服するために腰をおろす。「芸術と精神病」というパンフレットが目に入って、わたしは自分がほんとうは絵を描きたがっていると気づく。

ヘンリー・ミラー『暗い春』の章「わたしには天使のすかしが入っている(原題 The Angel Is My Watermark!)」は、ここまでを前置きとして、本題に入る。

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《わたしはミーリア叔母さんのことを思い出したので、そのとたんにわたしの全生涯が、地面への出口を見つけたばかりの間歇泉のように吹きあげてきたのだ。わたしはミーリア叔母さんと家に歩いて帰る途中で、急に叔母さんの頭が変になったことに気がつく。叔母さんが、月が欲しいと言いだして、「あすこにあるの、あすこにあるの」と叫び始めたのだった。》――ヘンリー・ミラー『暗い春』(吉田健一訳)

わたし=ミラーは、自分の手帳をめくっていて、このことを思い出す。
手帳の記述はわずかな言葉に圧縮されていて、一年間の苦労が一行で片付けられていたりした。
ミーリア叔母さんのことを思い出したのをきっかけに、ミラーは口述をはじめる。「口述」とはミラー自身のしゃべるままにタイプライターで打ち出すことを言っている。
午前10時にはじまった口述は翌朝の4時までつづいた。
タイプライターを片付けると、ミラーは口述記録を紙に書き取りはじめ、さらに旧作の原稿を取り出し、わたしは腹ばいになって鉛筆で注をつけていった。
わたしは張り切っていたが、心配でもあった。この調子で続ければ、どこかの血管が破れるかもしれない。
午後3時。ようやくミラーは書き取りをやめて、食事にでかける。

《「観る」ことを全体的経験に代用させた認識法は、イタリアに起こった一つの発明、カメラ・オブスクーラ(暗箱)によって、のぼりつめることになった。ドイツで、グーテンベルクが聖書印刷の機械を発明して、詩人に猿ぐつわをはめ、吟遊作家を唖にしてしまったのと同じ頃、イタリアのカメラ・オブスクーラは透視図法を生みだし、「晴れた日に部屋の壁に穴をあけて、反対側の壁に倒立して映る外の景色を、覗き見る」観衆を誕生させたのである。》――『寺山修司演劇論集』「観客論」

これが結論の背景。
写真機の発明以来、人は小さな穴を通して外をのぞくことしかしなくなった。
印刷術の発明以来、吟遊詩人は歌うことをやめてしまった。

触れることの回復を。歌うことの回復を。――まとめて言えば、全的な体験の回復をというのが「観客論」の結論。このことを観客側の立場はおいて、演じる側の当然の振る舞いとして述べている。客がどう思おうと我々はやるよ、と。

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劇団・天井桟敷のオランダ公演を見に来たハンスという郵便配達人が、黒子に無理やり舞台に引き上げられ、衣裳を着せられて多少の演技をしたきり行方が知れず、すでに3年も家に帰っていない。
fedibird.com/@mataji/111677875

このエピソードを枕にはじまる演劇論は、『寺山修司演劇論集』(1983年、国文社)所収。
論集は原理篇と実践篇から成り、前半の原理篇は、序論、観客論、俳優論、劇場論、戯曲論、その他で構成。このうち当アカウントで見てきたのは、序論と観客論の入り口まで。
なかなか観客論をまとめることができず、先に進めないでいたのだが、途中の議論は省いて観客論の結論だけ見ておきたい。
論集をどこまで読むかは成り行きで。

[参照]

「実の世界にいた人が虚の世界へ。そんなことが起こりうると思わせる話術は、どのようにしたら可能か」と前に書いた。
fedibird.com/@mataji/111683425

論のはじめに嘘を置くこと、というのが答。当の論文でいえば、ハンス夫婦という架空の存在を実在の人物に見せかけたこと。
fedibird.com/@mataji/111705816

この答は、もう一歩進めることができる。
ハンス夫婦の、少なくとも妻の存在には、ほかでもない寺山という証人がいる。彼はハンスの妻に会っている(嘘だけど)。寺山の虚言癖を知らなければ、これは信じてしまうだろう。これを書いてる @mataji もその一人。
議論が進むうちに、ハンスの実在に疑いが生じても差し支えない。すでに議論は虚と実の出会いといった土俵――問題設定――の上で動き出しているのだから。
実の寺山に虚の妻を出会わせた効果。会わせたのは寺山自身。聞いた話としてではなく、自身の体験として語ること。

[参照]

YouTube にスペイン語字幕の「Les Autres」あり、2:06:53
youtube.com/watch?v=k5EujfsScd

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当アカウントの最初の記事は2023年8月26日付け。自分がなかばマルセル・メイエ「壁抜け男」の主人公デュチュールであるかのようにして書いている。
fedibird.com/@mataji/110953911

方向性を述べた最初の記事は9月8日付け。「壁抜け譚は中国で生まれたという仮説を出発点に、ただし気ままに脱線しつつ考えてみる」としている。当初から脱線を見込んでいて用心深い。
fedibird.com/@mataji/111026970

仮説の検証といったテーマを掲げながら、過去記事にさかのぼる手段を考えていなかったのはうかつ。途中からハッシュタグを遡行の手がかりとして付けるようになったが、初期の記事にはこれもない。

[参照]

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