戯曲『邪宗門』冒頭のト書き。再掲。
《ときどき、影のように黒子の群れが客席を駆け抜けてゆく。血なまぐさい匂いが、潮のようにおしよせる。咆哮している黒子の群れ。ふいに観客の一人を名指しておそいかかるや、日本刀、一閃される。ひきずられた観客のおどろきと悲鳴。 まだ何も見えない暗黒の中に、黒子たちが何かを作りつつある気配。引きずりあげられた観客はこの劇の衣裳を着せられて、「登場人物」に仕立て上げられてゆく。 黒子の群れが、「劇」を準備し、「虚構」を作りあげてゆくあいだ、燃えさかっているかがり火。十字架には緋襦袢の妊み女が、磔刑にされて、半裸の黒髪を乱している。照明の明りが少しずつ、月光に変ってゆき、劇をこわそうとする観客や開幕をはばむ観客と黒子のあいだに乱闘があちこちで起されている。》
この版の『邪宗門』(角川文庫『青森県のせむし男』所収)は、渋谷公会堂での凱旋公演(1972年)にあわせて書かれている。
天井桟敷は『邪宗門』を前年の1971年にヨーロッパで初演。100回をこえた各地での公演のあいだに、たびたび観客と劇団員のもめごとが起き、ユーゴでは流血に至ったという。上に引いたト書きは、それらのトラブルこそ公演が狙ったものとする観点からどぎつく書き改められたものではないか。
『邪宗門』の上演で、暴力を伴うもめごとが起こることを寺山は予想していた。というより、期待していたろう。そして実際にも起こった。
寺山によると、西独の「シュピーゲル」誌、同じく演劇誌の「テアター・ホイテ」誌、ニューヨークの「ザ・ドラマ・レビュー」誌、ロンドンの「プレイ・アンド・プレイヤーズ」誌などは、上演で起きた「劇場の中の暴力」をアントナン・アルトーの演劇論の実践として評価し、この劇の呪術効果と政治的背景を分析するなどしたが、西独の夕刊紙「ビルト」などは、「観客に触れる演劇」として激しく非難した。
※言及先記事で引用した『邪宗門』は角川文庫『戯曲 青森県のせむし男』(1976年)所収。観客と劇団員の乱闘がト書きで書き込まれているが、この版は凱旋公演時のものらしく、ヨーロッパ公演の前から同様だったかは不明。
寺山修司の作中人物による虚実の混同。
《ごらんの通り、私は写真屋。他人の顔をあずかるのを商売にしております。
蛇が衣を脱ぐように、人は誰でも顔を脱ぐ……いささか古くなった顔、得意の顔、世をしのぶ仮の顔、仮面。古道具屋でも扱わぬ顔の数々……それを、こうやって(と、シャッターを引くしぐさで)素早く外してやるのが近代写真術のはじまりというわけだ。》――寺山『青ひげ』5 写真屋は顔を盗むのが商売
《おまえ! 腕時計なんかして!(と、逃げようとする山太郎の手をおさえつけて)やっぱり、同じ時間だ。おまえ、家の時間を、ぬすみ出して外へもっていこうなんて悪い事を!(と、忌々しげに)何て悪い事を……時間はこうやって柱時計におさめて、家のまん中においとかなくちゃいけないんだよ。》――寺山『邪宗門』2 ほろほろ鳥
顔をあずかる、顔を盗むとは、物としての顔とそのイメージを混同したゆえの認識。一般化していえば、虚実の混同。
時計と時間の関係も同じ。ここでは、時計が実で時間が虚。時計は物として持ち運べるが、時間は手でさわったり持ち運んだりできない。
寺山は議論や論文でも虚実を混同させる。
その場合、混同は意図的。ただし、寺山の本性でもあるだろう。
黒子(劇団員)が評論家 RHW 夫妻の退出を妨げたこと。
RHW の妻が黒子を突き飛ばそうとし、逆に突き飛ばされたこと。
これらに類する暴力行為はヨーロッパでの『邪宗門』の公演中、いくつかの都市で起き、ユーゴのノビサド市では流血に及んだという。
寺山はこれらの事件について、ただの事故や過失ではなく、「起こるべくして起こったこと」とした。すなわち必然だった、と。実際、戯曲上でも『邪宗門』の舞台は次のように動き出す。
《ときどき、影のように黒子の群れが客席を駆け抜けてゆく。血なまぐさい匂いが、潮のようにおしよせる。咆哮している黒子の群れ。ふいに観客の一人を名指しておそいかかるや、日本刀、一閃される。ひきずられた観客のおどろきと悲鳴。
まだ何も見えない暗黒の中に、黒子たちが何かを作りつつある気配。引きずりあげられた観客はこの劇の衣裳を着せられて、「登場人物」に仕立て上げられてゆく。
黒子の群れが、「劇」を準備し、「虚構」を作りあげてゆくあいだ、燃えさかっているかがり火。十字架には緋襦袢の妊み女が、磔刑にされて、半裸の黒髪を乱している。照明の明りが少しずつ、月光に変ってゆき、劇をこわそうとする観客や開幕をはばむ観客と黒子のあいだに乱闘があちこちで起されている。》
アムステルダムで『邪宗門』を見に来て黒衣に客席から舞台に引き上げられ、その後行方不明になった郵便配達夫ハンス。この人物の存在は寺山のフィクションだが、ベルリンの『邪宗門』公演で劇団員ともめた評論家ローランド・H・ヴィーゲンシュタイン(以下では RHW と略)は実在の人物らしい。
Wikipedia にあるこの人物が RHW 氏なら、今も100歳近くで存命か。
https://de.wikipedia.org/wiki/Roland_H._Wiegenstein
夫人をともなって『邪宗門』の初日にやってきた RHW は、評論家の席が用意されていないのに苛立って劇場側に抗議したが、けっきょく客席の最後列で立って見ることに。
観客が入り終わるとドアは閉じられ、密室化されて劇がはじまる。黒衣によって観客が(かのハンスと同様に)暴力的にステージに連れ去られ、衣裳を着せられるなどの場面も織り込んで劇が進むが、劇の中盤で RHW が夫人の手を引いて外へ出ようとしたところを黒衣に出口をふさがれる。
RHW は大声で抗議したが黒衣は立ち退かず、黒衣を突きとばそうとした夫人は逆に黒衣によって突きとばされる。
この一件は複数の地元紙がセンセーショナルに報じたのに加え、「シュピーゲル」誌も大きく取り上げ、寺山は RHW に公開討論を申し入れた。
「三年前――私たちの劇の中で蒸発した一人の中年の郵便配達夫」と寺山の前ふりにあり。
以降の論の前提として事実のように書いているが、郵便配達夫ハンスの存在と彼の身に起きたことが、寺山の創作であるのは間違いない。客席にいた実在の人物が劇中という虚構の空間に消えてしまうことなどありえないのだから。
論文の冒頭に架空のサンプル――今の場合はハンス夫婦の存在と彼らの行為――を置くことの有効性。
自分の論に都合のいいサンプルを最初に出しておくから、その時点で見破られなければ、しばらく――または、いつまでも――論理の一貫性が保てる。
あとになって読者が疑念をもったとしても、すでに手遅れ。政治の世界なら、すでに政策は実行されたあと。
歴史の先取りとでもいうか。
最初の嘘で読者の認識をしばっておいて、自分だけ先へ。
《こんにちは! おれ角兵衛獅子です。生まれて父の名を知らず、恋しい母の名も知らず。おれ、とんぼがえりがとても上手いってことになってるけど、ほんとは、この黒子のおじさんの手品なんです。おじさんが糸をするするっとのばすと、おれは走り出し、糸をしめられると立ちどまり、たぐりよせられるととんぼがえり。赤い夕陽に染められた、おさな地獄の七草の、お墓のなかの、かくれんぼ。目かくしした手をパッとはずして見たらば、黒子のおじさんたちが集まって、家族あわせをやっていました。》――寺山修司『邪宗門』
自由意志はないが、自由。そういう一見矛盾した存在が人間。
この矛盾は解けるのか解けないのか、解ける気もするが解けないようでもある。解けても解けなくても、人は自由。そう考えておいて、たぶん間違いない。
現に、この角兵衛獅子はいかにも自由そう。
ハンスが郵便配達人だったこと。
なぜ郵便配達なのか。
カフカの『変身』で虫に変わってしまったザムザは布地の出張販売人。話を読むと、律儀な人物だったらしく思われる。
マルセル・エイメ「壁抜け男」のデュチユールは登記庁の下級役人で、34歳、独身。これも律儀・生真面目な人物。
どちらかというと凡庸で生真面目な人物が、ありそうもない奇妙な運に見舞われる。ことによると郵便配達人のハンスも、ザムザやデュチユールの後身として寺山の世界に呼び出された人物ではないのか。
寺山がエッセイのなかに虚構を混ぜ込んだ例は、前にひとつ出しておいた。
https://fedibird.com/@mataji/111532519523561298
ハンスは寺山のつくった架空の人物。そう考えると、ハンスの行方に関する謎は容易に解ける。もともとハンスは存在しなかったのである。存在しなかったのだから、どこへ消えてしまおうと不思議はない。
ハンスを返してください。
婦人はそう寺山に求めたが、寺山にはおぼえがない。劇団員にきいても、誰もハンスという中年のオランダ人を知らなかった。
何が起きたのか。ハンスはどこへ行ったのか。
夫は劇のなかにいる、と婦人は思っている。
その「劇」とは、劇団「天井桟敷」のことなのか、それとも『邪宗門』の世界のことなのか。
前者なら、夫ハンスは劇団員として在籍しているか、少なくともある期間在籍したはずである。後者なら、ハンスは『邪宗門』という虚構の世界に消えたことになる。
寺山は次のように書いている。
《そのどこまでが劇で、どこからが現実だったのかを論じることは、この場合には無意味であろう。
少なくとも「ハンスが劇のなかへ消えていったこと」と、「ハンスが劇のなかから消えていったこと」とは、ほとんど同じことのように思われるからである。》
虚実の弁別は無意味としながら、ハンスが虚の世界に消えたことを以後の論の前提にしようとしているかに見える。
実の世界にいた人が虚の世界へ。そんなことが起こりうると思わせる話術は、どのようにしたら可能か。
公演が終わってロビーに出てきた寺山を一人のオランダ婦人が待っていた。
「ハンスは今どうしてるのでしょう」
ハンスは婦人の夫で、地元の郵便配達夫。
夫婦は3年前、天井桟敷の『邪宗門』を見にいった。劇がはじまって間もなく、黒衣の男が客席に降りてきて、ハンスを無理やりステージに引き上げた。夫がステージの上で化粧され、衣裳を着せられ、劇中の人物となって多少の演技をしたのを婦人はおぼえている。楽しそうだったという。その日、ハンスは家に帰らず、3年たった今ももどっていない。ハンスは今どうしてるのでしょう。
この出来事を枕に寺山は長文の演劇論を開始する。
私は虚構と現実の混在のなかで人間性の回復を図りたい、なぜなら――
《想像上の体験はしばしば現実生活の同義語であり、現実生活は、気がついたとき想像によって支配されていたりする。この両者は定義づけられて区別されるよりも前に、相互的に運動しながら、私たちの生活そのものの二輪の車となっており、ドラマツルギーは両者の区別が提起するものの本質にではなく、その両者が混在し、区別不可能化している事実の上にこそ、うちたてられるべきだからである。》――寺山修司「なぜ演劇なのか、呪術なのか」
画家ヴォルスの Wikipedia 記事
https://ja.wikipedia.org/wiki/ヴォルス
ヴォルスの Google 検索結果
https://www.google.com/search?q=wols+wolfgang+schulze
引用の末尾にある「他者存在」という語、もしかするとサルトル哲学の玄関の鍵ではないか。彼の哲学については、「人は自由であるべく呪われている」といったキャッチフレーズ的なものでしか知らないのだが。
サルトルはほかにも「眼と眼ならざるもの」のなかで、「‹他者› の存在は、内部の ‹他者=存在› においてのみ現れる」「存在は他性によって定義される。ものは、それが現にそうであるものではないということは、ものの本質に属している」「他者存在が存在の法則であるとすれば、指は真の意味では指ではない」などと述べている。
これも思いつきだが、エルンスト・マッハと重なるところがありそう。
サルトルがヴォルスの頭陀袋から取り出した格言に対応する『荘子』原文と訳例。いずれも金谷治訳注『荘子』第一巻(岩波文庫)から。
原文については諸版で相違はなさそうだが、訳文については、「一応分かりやすい解釈にしておいた」と金谷。
[原文]
以指喩指之非指、不若以非指喩指之非指也、以馬喩馬之非馬、不若以非馬喩馬之非馬也、天地一指也、萬物一馬也
[訳例]
現実の指によって、その指が真の指(概念としての指――指一般)ではないことを説明するのは、現実の指ではない〔それを超えた一般〕者によってそのことを説明するのに及ばない。現実の馬によって、その馬が真の馬(概念としての馬――馬一般)ではないことを説明するのは、現実の馬ではない〔それを超えた一般〕者によってそのことを説明するのに及ばない。天地も一本の指である。万物も一頭の馬である。
アカウント開設から5カ月、いまだ基本的機能も飲み込めない Mastodon であり Fedibird だが、自分なりの使い方は見えてきた。
ハッシュタグや言及関係・参照関係でつながった断章群――これです。
数十字の短文を連投する使い方だと、過去の投稿をさかのぼるのが次第に難しくなるが、網目でつないでおくと、あちこちにショートカットを埋め込んだようになり、過去への遡及にくわえ迷路をたどるような面白味も生まれる。自分の発見。なるほど、そんなことを考えてたのか、俺。
当初はそんな意識的使い方をしてなかったから、一件ずつさかのぼることになるが――
最初期の投稿はこれら(古い順)
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