公演が終わってロビーに出てきた寺山を一人のオランダ婦人が待っていた。
「ハンスは今どうしてるのでしょう」
ハンスは婦人の夫で、地元の郵便配達夫。
夫婦は3年前、天井桟敷の『邪宗門』を見にいった。劇がはじまって間もなく、黒衣の男が客席に降りてきて、ハンスを無理やりステージに引き上げた。夫がステージの上で化粧され、衣裳を着せられ、劇中の人物となって多少の演技をしたのを婦人はおぼえている。楽しそうだったという。その日、ハンスは家に帰らず、3年たった今ももどっていない。ハンスは今どうしてるのでしょう。
この出来事を枕に寺山は長文の演劇論を開始する。
私は虚構と現実の混在のなかで人間性の回復を図りたい、なぜなら――
《想像上の体験はしばしば現実生活の同義語であり、現実生活は、気がついたとき想像によって支配されていたりする。この両者は定義づけられて区別されるよりも前に、相互的に運動しながら、私たちの生活そのものの二輪の車となっており、ドラマツルギーは両者の区別が提起するものの本質にではなく、その両者が混在し、区別不可能化している事実の上にこそ、うちたてられるべきだからである。》――寺山修司「なぜ演劇なのか、呪術なのか」
《「観る」ことを全体的経験に代用させた認識法は、イタリアに起こった一つの発明、カメラ・オブスクーラ(暗箱)によって、のぼりつめることになった。ドイツで、グーテンベルクが聖書印刷の機械を発明して、詩人に猿ぐつわをはめ、吟遊作家を唖にしてしまったのと同じ頃、イタリアのカメラ・オブスクーラは透視図法を生みだし、「晴れた日に部屋の壁に穴をあけて、反対側の壁に倒立して映る外の景色を、覗き見る」観衆を誕生させたのである。》――『寺山修司演劇論集』「観客論」
これが結論の背景。
写真機の発明以来、人は小さな穴を通して外をのぞくことしかしなくなった。
印刷術の発明以来、吟遊詩人は歌うことをやめてしまった。
触れることの回復を。歌うことの回復を。――まとめて言えば、全的な体験の回復をというのが「観客論」の結論。このことを観客側の立場はおいて、演じる側の当然の振る舞いとして述べている。客がどう思おうと我々はやるよ、と。