マッハが『列子』を読んでいたこと。
《私共は、未来における科学のすがたを確然と描き出すことはできません。しかし、人間と世界を隔ててきた壁が次第に消えるであろうということ、人間が己れ自身に対してだけでなく、すべての生あるものに対して、いや、いわゆる無生物に対してすら我利我利な態度をすてて温かい気持で接するようになるであろうこと、こういうことは予感するに難くありません。二千年も前に支那の哲学者列子はこういう予感を抱いていたのかもしれません。彼は古びた舎利を指さしながら、表意文字で記される簡勁な文体で、弟子達に向かって次のように説いたのであります。「彼と我のみぞ知る。我等生けるにも非ず、死せるにも非ず。生死の境なし」と。》――エルンスト・マッハ「科学の基本的性格――思惟経済の体系」(廣松渉編訳『認識の分析』)
マッハは、エルンスト・ファーベルによるドイツ語訳(1877年)で『列子』を読んでいる。
ファーベルは長く中国に滞在した宣教師、中国学者
https://de.wikipedia.org/wiki/Ernst_Faber
列子が用いた「種」と「機」は同じことの二つの側面で、「種」が物としての側面、「機」がメカニズムの側面。
ここでの列子の言は「万物皆出於機、皆入於機」と締めくくられ、すべての物は「機」によって生じ「機」に帰るの意だが、「種」に置き換えても同じ。すべては「種」から生まれて「種」に帰る。
この締めくくりを敷衍したような表現がミラーの『暗い春』にある。
こちらでは、用語「芽」が「種」と「機」を兼ねている。
《肉体の耐久力には限界があると人は思うかもしれないが、じつは限界などない。我々の身体はどんな苦痛をも超越した高みにあり、何もかもが死滅したあとも、足の指の爪とか、ひとつかみの髪の毛ぐらいは必ず残って、それが芽を出し、永遠に残っていくのはそうした不滅の芽なのである。》――ヘンリー・ミラー『暗い春』「中国彷徨」
マッハが引用した列子の言葉は『列子』天瑞篇にある。
列子が越の国に行ったときのこと、途中、道端で食事をしながらふと見ると、死んで百年は経たと思われるドクロがころがっている。そこで列子はヨモギを抜いてドクロを指し、弟子に向かって曰く、「この私とドクロだけがわかっているのだ、何物もいまだかつて生起したことはなく、いまだかつて死滅したこともない、と。はたしてこのドクロは、死を悲しんでいるのか、よろこんでいるのか。およそ種子には機というものがあり……」
種子の「機」とは、変化の働き、メカニズムといった意味らしい。『列子』はこれにつづいて、水気のあるところでは種子は水垢になり、あるいは水草となり、土の上で育つと草になり、その根は虫となり、葉は蝶となり、…と変化の例をつらねて、万物は種子から出て種子にかえるとする。
人の生死もそのメカニズムの過程にすぎず、よろこんだり悲しんだりするものではない。言外だが、これが結論。
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