《私は子供のころ絵に陰影をつけるのは不当で事実を枉げる行為だと思った。輪郭画のほうがずっとましだと思った。どの民族も、例えば支那人のように、進んだ絵画技術をもっているにも拘わらず、全然影をつけなかったり、ほんの一寸しか影をつけないという事実は、これまた周知の通りである。》――エルンスト・マッハ『感覚の分析』(須藤吾之助・廣松渉訳)

石膏デッサンの不思議。
なぜ美術教師はあんなにも線を嫌ったか。
「面を区切る線などはない、よくご覧、あるのは影の濃淡だけだろう」
という彼らの言い分は、物の輪郭という脳内事実を無視している。
面を区切る線は存在する。脳内事実として存在する。これがなければ、漫画、子供の描く絵、ラフスケッチ、設計図、総じて線画は成り立たない。教師の指導下で行なわれる石膏デッサンの場合でさえ、普通は輪郭線を描いてから濃淡をつけていく。まず影の濃淡からはじめて、結果として輪郭に至るなどという手順を踏む者は皆無だろう。

マッハ(1838-1916)はオーストリアの物理学者・生理学者。
ja.wikipedia.org/wiki/エルンスト・マッ

上の引用に「例えば支那人のように」とあり。
背景に、19世紀後半からの、中国文化のヨーロッパへの紹介の急増。
『感覚の分析』は1885年初版。

マッハが『列子』を読んでいたこと。

《私共は、未来における科学のすがたを確然と描き出すことはできません。しかし、人間と世界を隔ててきた壁が次第に消えるであろうということ、人間が己れ自身に対してだけでなく、すべての生あるものに対して、いや、いわゆる無生物に対してすら我利我利な態度をすてて温かい気持で接するようになるであろうこと、こういうことは予感するに難くありません。二千年も前に支那の哲学者列子はこういう予感を抱いていたのかもしれません。彼は古びた舎利を指さしながら、表意文字で記される簡勁な文体で、弟子達に向かって次のように説いたのであります。「彼と我のみぞ知る。我等生けるにも非ず、死せるにも非ず。生死の境なし」と。》――エルンスト・マッハ「科学の基本的性格――思惟経済の体系」(廣松渉編訳『認識の分析』)

マッハは、エルンスト・ファーベルによるドイツ語訳(1877年)で『列子』を読んでいる。
ファーベルは長く中国に滞在した宣教師、中国学者
de.wikipedia.org/wiki/Ernst_Fa

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マッハが引用した列子の言葉は『列子』天瑞篇にある。

列子が越の国に行ったときのこと、途中、道端で食事をしながらふと見ると、死んで百年は経たと思われるドクロがころがっている。そこで列子はヨモギを抜いてドクロを指し、弟子に向かって曰く、「この私とドクロだけがわかっているのだ、何物もいまだかつて生起したことはなく、いまだかつて死滅したこともない、と。はたしてこのドクロは、死を悲しんでいるのか、よろこんでいるのか。およそ種子には機というものがあり……」

種子の「機」とは、変化の働き、メカニズムといった意味らしい。『列子』はこれにつづいて、水気のあるところでは種子は水垢になり、あるいは水草となり、土の上で育つと草になり、その根は虫となり、葉は蝶となり、…と変化の例をつらねて、万物は種子から出て種子にかえるとする。
人の生死もそのメカニズムの過程にすぎず、よろこんだり悲しんだりするものではない。言外だが、これが結論。

列子が用いた「種」と「機」は同じことの二つの側面で、「種」が物としての側面、「機」がメカニズムの側面。
ここでの列子の言は「万物皆出於機、皆入於機」と締めくくられ、すべての物は「機」によって生じ「機」に帰るの意だが、「種」に置き換えても同じ。すべては「種」から生まれて「種」に帰る。

この締めくくりを敷衍したような表現がミラーの『暗い春』にある。
こちらでは、用語「芽」が「種」と「機」を兼ねている。

《肉体の耐久力には限界があると人は思うかもしれないが、じつは限界などない。我々の身体はどんな苦痛をも超越した高みにあり、何もかもが死滅したあとも、足の指の爪とか、ひとつかみの髪の毛ぐらいは必ず残って、それが芽を出し、永遠に残っていくのはそうした不滅の芽なのである。》――ヘンリー・ミラー『暗い春』「中国彷徨」

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