所謂「アベノミクス」は、先日の東証株価史上最大の暴落で、ステップを踏みながら崩壊に向かうことがほぼ明らかになりました。
一時的に反発があるのは当たり前で、まだ日本の家計貯蓄は膨大なまま、年金機構(GPIF)の資金もほぼ無傷です。ただし、乱高下を繰り返すということは、まず家計貯蓄分(NISA)から削り取られていく、ということ。
「アベノミクス」の受益者である大企業、大富裕層はと言えば、前者は純利益3倍、内部留保は178兆増の511兆。日本の上位40人の資産は、7,7兆から29,5兆と3・8倍に膨れ上がりました。
他方実質賃金はこの30年で年74万円低下、消費税増税(2回)で、人口一人当たり13万円の負担増(17,3兆円)。
公的年金は、2013年以降の改悪で実質8%近く減、社会保険料負担増と合わせると、年金生活者の可処分所得(年)は23万円減少。
この結果、現在全世帯の3割は金融資産ゼロ、非正規は4割越え。この傾向は単身高齢女性に絞ればさらに跳ね上がる。これを現代の「姥捨て山」と呼ばずして何と呼ぶ?
現在「勝ち組」気取りの大企業サラリーマンもNISAに手を出し続ければ、いずれ「無産階級」に転落するだろう。
問題はその際の政治システムはどうなるか、ということである。
さて、日本では童話で有名なグリム。これも「民衆」の習俗を知るための「民俗学」の一環です。
近代文献学・言語学の祖としてのグリムは、ある意味日本の本居宣長にあたると言えましょう。
グリムは言語学・民俗学を通じて、ドイツの「大和心」、「もののあわれ」を探索・構築せんとした点でも宣長・柳田国男に通じるものがある。
と同時に概念法学を掲げるサヴィニーが、ドイツ国民の実情に対応する立法作業を行うプログラム。
つまり、日本の比喩を用いれば宣長、柳田だけでは権力機構としての「国家」は立ち上がらない。
日本の場合、水戸学を掲げた下級武士達が国家建設を担当し、豪農出身の国学は排除された。
しかし国民国家である以上、国民=常民の習俗・感情は無視できない。柳田国男が農政官僚であったことは偶然ではない。
またサヴィニー、グリムが属したドイツ・ロマン派によって「感情」が啓蒙的理性に対するドイツ人の紐帯となる。
この場合「ドイツ」の範囲は神聖ローマ帝国。しかも中世から「ドイツ人の神聖ローマ帝国」と呼ばれ、仏よりもローマ法継受が大規模でなされていたため、サヴィニーにとって、こんな好都合な状況はない。
問題は、統一法典の作成と発布の次期だけ。ここがティボーとの論争の賭金。ヘーゲルのこの際ティボーの側に立った。
トルコに行って「日本人」とわかるとたいてい関心をもち、親切にしてもらえる。
これは欧州では普通、日本・韓国・ベトナム、そして中国が「同じ黄色いアジア人」として括られ、対して関心も寄せられないのと対照的。
何故と云うに、トルコの人々にとって長年悩みの種である強国ロシアと対峙、その上1904-05年の戦争に勝利したという「日本」イメージが一般に流布しているからだ。
19世紀以来ロシアの南下政策に苦渋を舐めさせれて来たトルコ人にとっては、アジアで「はじめて西洋列強」を破った「アジア系」国家、になる訳だ。東郷平八郎などはそれなりに知られた有名人である。
もちろん、トルコはほとんど地球の裏側であるから、日本帝国主義の侵略を受けたことはない。であるから、その点でのマイナス。・イメージもない。
しかし、日本のインテリがその「ぬるま湯」にどっぷり使って、近代日本の植民地支配・侵略戦争を反省もせず、「西欧啓蒙」を糾弾している姿ほど滑稽なものはない。
ちなみに研究者の間ではオスマン・トルコとは言わない。オスマン帝国はトルコ人のものでなく、多民族・多宗教を包摂する「普遍イスラム帝国」だった。オスマン語も現代トルコ語とは別である。
ただ、当時の西欧はオスマン帝国のことを「トルコ」と呼んでいた。
A.ドロン死去(88歳)。
フランスの俳優にしては珍しい「イケメン」だった。
同世代のもう一人のスター、J=P.ベルモンドが「勝手にしやがれ」などの役柄とは異なり、ブルジョア出身の「インテリ」だったのに対し、アラン・ドロンは、家庭環境が安定せず、海軍兵士としてインドシナ戦争に従軍もした。
実際、アランは「インテリ」とは言えず、マフィアとの関係も「公然の秘密」だったとされるが、若い頃は「繊細で知的な青年」を演じることが多かった。
例えば、ゲイであったL.ビスコンティに愛され、『若者のすべて』や『山猫』などに出演できたことは、ドロンにとって幸運なキャリアだった。またJ=P.メルヴィルの映画にも複数出演、これらはすべて歴史に残るだろう。
他方ヌーヴェル・ヴァーグからは目の敵にされたルネ・クレマンの『太陽がいっぱい』では「現代のジュリアン・ソレル」を演じ、大衆的にも一挙に大スターになる。
実際これは、今見てもアラン・ドロンの俳優としての潜在力を引き出したよくできた映画だと思う。
この美的センスは日本の「太陽族」を演じた代表とも言える石原裕次郎とは全くレベルが違う。
その上、ゴダールの「ヌーヴェル・バーグ」にも出演しているのだから、まさに時代に恵まれたと言えるだろう。
急いで補足しておくと、私はトルコだけを一方的に批判する立場ではありません。
EU加盟を餌にしてトルコにあれやこれやと要求を出した挙句(ただし死刑廃止はよかった)、土壇場でジスカールデスタン元フランス大統領が、「文明の違い」などと言い出して、加盟を拒否した過程などは明らかに不当ですし、トルコ国民が怒るのは当然です。
またシリア戦争の結果、数百万単位の難民が国を追われましたが、そのほとんどはトルコに留めおかれている。ドイツでは、このシリア難民をターゲットにした排外主義が前景化していますが、白人ドイツ人は急激に人口減少しているので、底辺労働力に必要な移民人口だけ受け入れている。
またトルコに対する映画を含めた欧米メディアがかなりの「偏向」を示しているのもまた事実です。
とは言え、トルコは今や人口8500万の大国。軍事力はエジプトをはるかに凌ぎ、リビア内戦にも軍を派遣、ワーグナーの支援を受けた対立勢力を打倒。またアゼルバイジャンを支援して、ロシアの保護下にあったアルメニアを粉砕。
現在は1453年のコンスタンティノープル陥落の日は国家的行事となり、イェニチェリの扮装をした集団が首都を練り歩く。元来トルコ共和国はオスマン帝国の否定が国是だった筈だが、これも典型的な「伝統の創造」である。
4/4
私は、選挙のときもそういうものを感じます。
未だに
都知事選での石丸候補の「躍進」の理由を、動画やSNS戦略の巧みさにみる意見を見ます。
むろん、SNSや動画を分析することから分かることもあると思います。
しかし、私は彼が大量の動画を出せた、その背景こそが重要だと思います。
大量の動画を作ったり、
それをみてもらうための広告費がどうやって用意されたのか。
選挙を手伝う膨大な人員はどこから来ていたのか。
そして「動画戦略だけではダメだ、やはり大きなマスコミに出ないと」とマスコミに彼のことを「2位になるかもしれない」と大きく取り扱わせた「選挙の神さま」と言われるコンサルタントを誰が雇ったのか。
そういうことをもっと知りたいです。
そういう背景への視点を持たず、わかりやすく見えているところに飛びついて分析対象にするなら、
頻繁に表示される動画を見て感動し、石丸氏に投票し、特攻に興味を持つ若者からどれほど距離があるのだろう、と思います。
私たち大人がなすべきことは、未熟な若者を責めたり、そういう不均衡な表示をするプラットフォーム(マスメディアも含め)を当然視したりすることではなく、恣意的な「偏り」に対して疑問を持ち、おかしいのでは?と言っていくことではないでしょうか。(終わり)
3/4
そうした私たちの「加害の歴史」が内容に含まれる映画がトップにどーんと表示されることは、まずありません。
私がこれらの映画をアマゾンから探せるのは、あらかじめこういう映画があることを知っているからです。
せめて、これらの「加害」を描いた映画も今回の「あの花が」と同じくらいの扱いで大きく表示され、見る側が選択することができれば・・・と思います。
特攻隊に志願した若者は「本当は志願したのではない、強制されたのだ」とよく言われます。
そういう時代に比べたら、私たちはいろんなことを自分で自由に選択しているように見えます。
しかし、実際のところ、判断する材料もろくに与えられないまま、お金や力のある人たちが望むものだけを示されて、「このどれかを選べ。選んだら責任をとれ」と日々迫られているような気がするのです。
実際には示された選択肢以外のものがあるのに、それがないかのように見せられ、巧妙に誘導されているのに。
(つづく)
2/4
特攻記念館のようなところを訪れ、”知っている”人たちの写真や手紙が展示をされているのを見て、泣き崩れるという場面で終わります。
タイムスリップし、「出撃する隊員たちを世話する食堂のおばさん」を住み込みで手伝うようになる主人公。
当然、自分と近い年齢の若者たちが、苦しみながら出撃する姿を複数見ます。
しょうじき、よく出来ていると思いました。
もし私が主人公たちと同じような10~20代の年齢だったら、この映画を泣きながら見て、知覧についての本を読んだり、「”聖地巡礼”したい」と望んだかもしれません。
(そしてそうしている限り、日本軍の「侵略」からは目を逸らし続けることになったでしょう)
今回私がなぜ「あの花が」を見たのかというと、発言が批判されている卓球のメダリストの女性は、この映画を見たのではないか、と思ったからです。
もし、プライムビデオのトップページに、繰り返し表示される映画を、おすすめされるままに見て、素直に受け取る若者がいたとして、誰を責めたらいいのか。
私は、アクセスしやすいところにこういう特攻を題材にした映画だけがあるような社会がまずおかしいと思います。
アマプラには「アイ・キャン・スピーク」や「雪道」などの「従軍慰安婦」を扱った映画もありますが、
(つづく)
1/4
何日か前、映画を見るためにアマゾンのプライムビデオにアクセスすると、「あの花が咲く丘で、君とまた出会えたら。」(以下「あの花が」と略)という特攻が題材の映画がトップページに表示され、その後数日間変わらず表示され続けました。
トップに表示されていること自体が一定の「お墨付き」となり、この映画を見た人は多いと思います。
"#1 日本"と出ていた日は、日本のアマプラ内の日本映画でその日一番見られていたのでしょう。
以前、あるブログで「この映画の主人公の「タイムスリップ」自体が、主人公が「父の死」を乗り越えて内面的な成長をするための「夢」であると解釈でき、全体的には”反戦映画”と解しうるが、若い人がそう受け取るかどうかは危うい」という趣旨の評を読みました。
確かに、特攻をじかに賛美する場面は出てきません。「今の平和は、尊い犠牲のおかげ」などのクリシェも一切出てこず、現代から1945年にタイムスリップしてきた主人公は「でも、”無駄死に”じゃん」という視点を最後まで持ち続けます。
しかし、だからこそ、これほどよく出来た特攻”理解”への「入り口」があるだろうか、と思いました。
現代に戻った主人公は、自分は恵まれていて幸せなのだと気づいて、自覚的に生きようと決意、
(つづく)
この時期といったら「火垂るの墓」なので下の子に見せようとと思っていたが、放映がないのであるな。調べたら2018年からテレビでやらなくなったそうである。
調べたわけではないが、安倍晋三一味の圧力も一部きっとあるだろうなあ。戦火がもたらす悲惨を子供達に知って欲しくない、聖戦を美談だけで埋め尽くしたい日本すげーの一派にとっては実に邪魔な文化的遺産、レガシーであろう。
それとは関係なくジブリはネットフリックスでも日本国内からの接続だと配信していない。欧州からだと全部見ることができる。権利関係の障害か何かだろうか。
まあ、そんなのに負けるわけいかないので探してみせた。
件の京都の大学の先生、「スンニ派がパレスティナを助けるわけがない。」などと妙なことを仰っていたが、これも間違い。
「アラブの大義」を口先で唱えるエジプトが一向にパレスティナを助けないのは、シシ軍事政権が米国の管理下にあるため。元来「アラブの春」の後、合法的に選挙で政権を獲ったムスリム同胞団をクーデターで軍部が打倒できたのは、米国の許可があったから。ついで言えば、ハマスもスンニ派、トルコもスンニ派である。
さらに言うとアラファトのPLOは世俗主義近代派であったし、モサドに爆殺された作家のG.カナファーニーはPFLP(マルクス=レーニン主義に基づく反植民地主義)所属。
シーア派のイランは現在米国・イスラエルに対立する中東唯一の国家と言えるが、1979年の革命までのパーレヴィー政権は中東における「米国の番犬」と呼ばれていた。
またイランがシーア派主流になったのは、オスマン帝国との対抗上、18世紀になってからである。
N先生が愛するトルコはと言えば、WWII直後からNATO加盟国であり、朝鮮戦争に相当兵力を派遣。また国内のクルド人問題を解決する気はさらさらない。
またエルドアンはナゴルノ・カラバフ戦争においてイスラエルの軍事ドローンをアゼルバイジャンに大量供給、結果アルメニアは大敗した。
ことほど左様に、「欧州」の形成にはイスラム文明が混交している。
であるから、今の欧州の一般言説のように、パスレティナ問題や中東問題一般を「文明の衝突」とするハンチントン的なフレームは議論を「トンチンカン」にする効果しかもたない。
日本でも「イランが核兵器をもっている」と思い込む御仁さえいるくらいである。実際は、中東ではイスラエルだけが核兵器をもっている。
結局の所、問題の99%は「リベラルな国際秩序」を自称する欧米帝国主義と中東地域の「力」関係に拠る。
しかし、欧米言説では最近ようやく「植民地主義 clonialism」という言葉は使用するようになったが、「帝国主義 imperialism」の解釈格子を使うことはまずない。
また欧州のリベラルは19世紀の半ばになってようやく「奴隷制」廃止に踏み切ったが、それは同時に「奴隷制」が残存しているアフリカ・中東を「文明化」する大義名分となった。ここは注意が必要。
ところで、現在の中東情勢を「逆ハンチントン」的になんでも「文明の衝突」で説明しようとする京都の大学教授がいるが、これは明らかに誤り。
たしかに欧米メディアのエルドアン叩きは操作されたいるが、さりとて、エルドアン側の主張を鵜呑みにはできないのである。
ところで、10世紀末にボローニャ周辺で何故ローマ法(ユスティニアヌス法)が「再発見」され、法律家によって加工しながらヨーロッパ各地に輸出されたのでしょうか?
ここで、ローマ法がイスラムの遺産だということを思い起こしましょう。10世紀はユーラシアの東西で宋朝とアッバース朝によって「グローバル経済」が成立している時期。このルートを通って、羅針盤・黒色火薬・活版印刷も中国から西欧に伝えられる。
またイスラムは元来都市商人の宗教であり、この時期には「神学者」は存在せず、「法学者」がトラブルに調停・仲裁にあたる。そのためのルールも発達します。
このイスラムネットワークにとっても、重要なものの一つが地中海遠隔商取引でした。
欧州史では11、12世紀は商業の復活の時代と語られれますが、当時のユーラシア世界経済の西の末端に参加している状態に過ぎません。
イスラムとの接触の中で、アラビア数字、医学、哲学(アリストテレス)、法学、そして法律家を大学で養成するシステム(マドラサ)などが北イタリア(ボローニャ・バドヴァ)、南イタリア(ナポリ)などに導入されたと推測されます。
このローマ法の私法的部分がイタリアから南仏に広がると同時に、組織法として変形されて教会法へと発展していったと考えられるのです。
BT
リンクがうまくとべなかったので、はりなおしておきますね。
https://weibo.com/tv/show/1034:5067330439282766
フィリピンの元「慰安婦」の女性について、今ぱっと思い出せるのは、「レッドマリア それでも女は生きていく」というドキュメンタリに、当事者の方が出ていらしていたと思います。
これはとてもいい映画なので、見たことがないという方はぜひ。
(レンタルで見られます)。
今日は世界『慰安婦記念日』一部のフィリピンの「慰安婦」被害者家族は抗議活動を行い、日政府に正式に謝罪し、賠償を支払うよう求めました。日本がフィリピンを占領している間、フィリピンの女性1000人以上が「慰安婦」として強要され、現在も生きている被害者はごくわずかで、彼女たちは一生謝罪するのを待っていない。2017年、フィリピンは「慰安婦」の記念像を作ったことがありますが、わずか4ヶ月後、日本政府の圧力で取り壊されました。
http://t.cn/A68khIvwhttp://t.cn/A68khXXz
岸田首相退任に合わせてTVも慌ただしく、「次の総裁選」についての広報に勤しんでいるらしい。
朝日系の番組では、慶応SFCの竹中平蔵の弟子の中室牧子が「河野太郎氏に期待します。閣僚経験も豊富だし、突破力も本物」などとコメントしていたのとこと。
この中室という人は、朝日の論壇委員やら、JRの車内画像広告にやたらと頻出するので、さすがに私も名前を覚えた。
画像広告では、男性アナウンサーに「AI時代に人に期待されているものは?」と聞かれて、ホワイトボードに「コミュニケーション力」と掲げて、車内の私を驚かせたものである。
ところで、「突破力」という言葉、私の知らない界隈では、最近は普通に使うらしい。
昔、宮崎学が「突破者」という自伝を書いていたけれども、何か関係があるのだろうか?
何にしても、思想や方向性をブラインドにして「突破力」だけ求めるのは、危険極まりない。
ヒトラー率いるナチスは「危機の時代」における「突破力」だけは群を抜いていたのである。
どうも、「ワンワード・フレーズ」で大衆心理を操作しようとする広告作法、この30年まるっきり変化がないようだ。
念のため付け加えておくと、広告を組織的に政治における大衆動員に利用したのはナチスをもって嚆矢とする。
今日は一応「お盆」である。
この1年弱で亡くなった人。
A.ネグリー「自由と平等のために人生を捧げた」の遺言を残す。『帝国』による現代資本主義の分析は失敗に終わったが、「マルチチュード」の概念は、それこそカント的な「統制的」理念として生き続けるだろう。
F.ド・ヴァールーオランダ出身、妻はフランス人、米国で活動した人類学者、動物学者。英語圏で猛威を振るうR.ドーキンス的な「遺伝決定論」と新自由主義の結合を批判し続けた。霊長類研究を通して、「生物」としての「人間」の位置づけに大きな光を当てる。
J.A.ポーコーックーニュジーランド出身の政治的人文主義の研究者。一般には地味だが、17,18世紀研究を一変させた。
特に、日本の17世紀、18世紀研究はポーコックの出現で大きく変化した。
ただし、ノーマンの『クリオの顔』を再読すると、すでにポーコック的な政治的人文主義が注目されていることに気づく。
J.イスラエルの「穏健啓蒙」と「急進啓蒙」の区別、そこからも排除されたルソーとフランス革命について、現在まだ説得的な議論は提出されていない。
大江健三郎ー「サルトルにはじまり、サルトルに戻った」との記事が出たが、戦後文学との関係についての研究はこれからだろう。合掌。
ビリー・ワイルダーの映画「情婦」(アガサ・クリスティ『検察側の証人』原作)という超有名な、めちゃくちゃおもしろい映画があります。
だいぶ前に一回見て、最近もう一回見直しました。
そうしたら、何年か前に見たファスビンダーの映画「マリア・ブラウンの結婚」で描かれていたことと、重なる背景事情が出てきて、頭のなかでそれらが響き合って、さらにおもしろかったです。
これがいわゆる「解像度があがる」ということなのでしょうか。
ちなみに、「情婦」に出てくるのは「リリー・マルレーン」を持ち歌にしていたマレーネ・ディートリッヒです。
今回の「ファスビンダー傑作選」のラインナップに「マリア・ブラウンの結婚」は入っていないようですが、まだ見たことがない方はぜひごらんになることをおすすめします。
(配信やレンタルなどで。地域の図書館などに入っていることもあります)
そこで描かれる「戦後」に圧倒されます。
哲学・思想史・批判理論/国際関係史
著書
『世界史の中の戦後思想ー自由主義・民主主義・社会主義』(地平社)2024年
『ファシズムと冷戦のはざまで 戦後思想の胎動と形成 1930-1960』(東京大学出版会)2019年
『知識人と社会 J=P.サルトルの政治と実存』岩波書店(2000年)
編著『近代世界システムと新自由主義グローバリズム 資本主義は持続可能か?』(作品社)2014年
編著『移動と革命 ディアスポラたちの世界史』(論創社)2012年
論文「戦争と奴隷制のサピエンス史」(2022年)『世界』10月号
「戦後思想の胎動と誕生1930-1948」(2022年)『世界』11月号
翻訳F.ジェイムソン『サルトルー回帰する唯物論』(論創社)1999年