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あまりに馬鹿げた応対ゆえに、かえって命を助かった斎藤宮内は、このあと別の家老(100石、69歳)とともに普請中の壁を破って吉良邸から逃げ出し、浪士が引き上げてから同じ壁の穴をとおって帰邸した。この所業で二人は人非人とののしられ、彼らが破った壁の穴には「犬猫、家老ノ外、入ル可カラズ」と落書きされた。

斎藤宮内とは運の違いすぎた小林平八郎。
小説、映画、演劇などの創作物では、小林は吉良方の重要人物。赤穂浪士の襲来にそなえて吉良邸の守りを固める要の役であったり、討ち入りの当夜は厳しく戦って倒れた剣客でもあった──というようなイメージがある。
ところが『吉良供養』によると、吉良側は赤穂浪士の襲来を予想していない。
ならば、守備の要という小林平八郎の役割は消える。言い逃れが通じず首をはねられた次第からは、剣客でもなかったことになる。

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杉浦日向子『吉良供養』から、斎藤宮内が命を助かり、小林平八郎が首をはねられたくだり。

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討入の夜の吉良邸で。
赤穂浪士が家老の斎藤宮内(150石、64歳)をつかまえる。
「わたしは下々の者です。どうかごじひを」
「下々が絹を着るか。お前は相応な者だろう。隠さず云え」
「は…皆様も御苦労に存じます。ど、どうか私の小屋へお立寄り下さいましてお煙草でも召しあがれ…」
応答にあきれた浪士たちは、宮内を突きとばして去る。

吉良邸の別の場所で。
おなじく家老の小林平八郎(150石、55歳)を浪士がつかまえる。
「主人の寝間へ案内しろ」
「下々にて存じませぬ」
怒った浪士は、平八郎の首をはねて去る。

杉浦日向子『吉良供養』が伝える斎藤宮内と小林平八郎の運命の対比。
戯画的だが、事実らしい。

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ベンヤミンは「救済」と言った。
対して、杉浦日向子は「供養」。

ベンヤミンの言う「救済」が、過去の救済を掲げながらも、現在を救済する契機として過去を見ているのに対し、杉浦の「供養」は一方的に過去を慰撫するだけで、見返りを期待していない。
ありえたかもしれない可能態としての過去をテコに現在の改変を志向するのがベンヤミンの「救済」だが、杉浦が『吉良供養』他の作品で行った「供養」は、虚構を手段とした事実への接近にとどまる。功利性あるいは現世利益的には「救済」が「供養」にまさるだろうが――

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永劫回帰と呼べるようなことが現実に起こるとすれば、それはブランキが立脚した物理法則によってではなく、後世の人為によってでしかない。何者かが過去に思いを馳せて敗者の悲哀や無念を共にし、彼らの復権を試みようとするなら、それが回帰となる。復権がかなうまで幾たびでも我々を呼び返してもらいたい。それが永劫回帰という願い。

敗者の復権を試みる行為をベンヤミンは「救済」と呼び(『歴史の概念について』)、杉浦日向子は「供養」と呼んだ(『吉良供養』)。

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モスクワ市内や赤の広場の光景をバックに、松山恵子「哀愁の駅」の設定を台湾に置き換えた歌が流れる不思議なビデオ
youtube.com/watch?v=MVcuvSpxF9

はじめに「蘇聯」の文字が出てきてソ連時代の映像かと思わせるが、そのうちロシアの三色旗とアメリカの星条旗が並んで出てきて、ならばソ連崩壊後のものか。映像の種類も、ドキュメンタリーなのかメイキングなのか――と、素性のわかりにくい映像だが、妙にに歌とマッチしている。

歌っているのは、1980-90年代の台湾歌謡界で代表的な存在だったらしい陳一郎。技巧に拠らない素直な唱法だが、声が悲哀の感情に触れてくる。

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戦前のものを含め日本の歌謡曲が台湾で歌い継がれていることは前に書いたが、「上海帰りのリル」も広くカバーされている。

陳一郎 - 上海歸來的莉露 (1989) - YouTube
youtube.com/watch?v=5mmh6Cip2y

陳一郎は80-90年代の台湾を代表するシンガーか。
そのほか「上海歸來的莉露」や「莉露」でYouTube を検索すると他の台湾歌手のカバーも拾える。楽器バージョンもあり。

関連記事
fedibird.com/@mataji/112090811

[参照]

「上海帰りのリル」は、アメリカのミュージカル映画『フットライト・パレード』の挿入歌「上海リル」にインスパイアされて作られた。
「上海リル」は日本語でも多くカバーされ、松尾和子、青江三奈、あがた森魚、他。初期の代表的カバーとしては川畑文子。また、舞台『上海バンスキング』で吉田日出子が歌ったという。

上海リル/SHANGHAI LIL - YouTube
youtube.com/watch?v=kIzpXZAfxP

上海リル - Wikipedia
ja.wikipedia.org/wiki/上海リル

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〽船を見つめていた、ハマのキャバレーにいた…、「上海帰りのリル」は1951年発売。歌手は「ビロードの歌声」と言われた津村謙。当時としては大ヒットの累計30万枚を1954年時点で記録した。1968年時点で累計52万枚。
発売翌年の1952年、これを主題歌として水島道太郎主演の映画『上海帰りのリル』が作られ、これもヒット。

上海帰りのリル - YouTube
youtube.com/watch?v=19n7uyalzm

上海帰りのリル - Wikipedia
ja.wikipedia.org/wiki/上海帰りのリル

李香蘭(山口淑子)が殺されずに帰されたこと。

《李香蘭は中国人と思われていたため、日本の敗戦後、中華民国国民政府から漢奸(売国奴・祖国反逆者)の廉で軍事裁判にかけられた。そして、李香蘭は来週上海競馬場で銃殺刑に処せられるだろう、などという予測記事が新聞に書かれ、あわや死刑かとも思われた。しかし奉天時代の親友リューバの働きにより、北京の両親の元から日本の戸籍謄本が届けられ、日本国籍であるということが証明された。》
ja.wikipedia.org/wiki/山口淑子

法理としては、「日本人であるから、漢奸(売国中国人)としては無罪」ということらしいが、有罪にするつもりなら、法理や司法手続きなどどうにでもできたろう。
港を離れる引揚船のデッキから山口が上海の摩天楼を眺めていると、船内のラジオから自分の歌う「夜来香」が聞えてきたという。「夜来香」もあわせて無罪という光景。

年間の霧発生日数を、太平洋戦争終結(1945年)の前後で比べると、戦前のほうが多い。夜霧に限定したデータではないが、夜霧についても同様の傾向だったろう。
夜霧の歌がさかんに作られた戦後より、戦前のほうが霧は多く発生していた。かつての日本の夜霧は、忍び逢う恋を隠してくれたり、哀愁の街に降ったりするものではなく、たいした感興をもたらすことはなかったのだろう。とすれば、夜霧をロマンチックに思う感性は、上海の夜霧に対して培われたものが、戦後の日本で再生したと見ることができるのではないか。

霧日数の経年変化、東京と横浜
asahi-net.or.jp/~rk7j-kndu/kis

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夜霧を歌った戦前の流行歌(歌詞かタイトルに「夜霧」を含むもの)
 1939 さらば上海  李香蘭
 1939 港シャンソン 岡晴夫
 1941 夜霧の馬車  李香蘭
1939年の2本は、いずれも上海を舞台としている。41年の「夜霧の馬車」には具体的な地名がないが、歌詞に「波の上浮かぶジャンク」「月に胡弓の流れる町を」などとあって、中国が舞台。
探してみたが、夜霧を歌った戦前の歌謡で日本を舞台としたものは今のところ見当たらない。戦前の日本では、上海の夜霧をロマンチックに感じても、国内の、たとえば東京の夜霧にはそんな思いを抱かなかったのかも。異郷感の有無?

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〽青い夜霧に灯影が紅い… 上海の夜霧を歌ってヒットしたディック・ミネの「夜霧のブルース」は、水島道太郎主演の映画『地獄の顔』(1947年)の主題歌。
ja.wikipedia.org/wiki/夜霧のブルース_
youtube.com/watch?v=VFLTDphHeA

同じ「夜霧のブルース」を主題歌とする映画『夜霧のブルース』(1963年)は石原裕次郎主演、主題歌も石原。ストーリーは『地獄の顔』とは別。
石原にはヒット曲「夜霧よ今夜も有難う」(1967年)あり。第2次大戦後の1940年代後半から70年代にかけて夜霧を歌う歌が大量につくられたが、「夜霧よ――」はその代表曲。

《霧に包まれた上海の街、十米も先はわからない様なモヤ、灰色の雲の中をフハリフハリと行く人、その時、街の心臓にパツト灯がつく、白いロココ風の馬車が二馬路の角を通る、白い馬車白い二頭の俊足を持つた馬、白いビロードの服をつけた馭者、乗つて居る人は老人と華かな飾りをつけた若い弱々しい、紫色の娘、彼氏はその時刻に二馬路から三馬路にかけて歩道を散歩して居れば必ずその白い馬車を必ず定つて見かけた。そうしてその白い馬車が彼氏の心の中で生活し生長した。でどうかしてその白い馬車を見かけない日、彼氏は一種の憂鬱と不安におそはれた。》
三岸好太郎「上海の絵本」
aozora.gr.jp/cards/001997/file

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《その早暁、まだ明けやらぬ上海の市街は、豆スープのように黄色く濁った濃霧の中に沈澱していた。窓という窓の厚ぼったい板戸をしっかり下した上に、隙間隙間にはガーゼを詰めては置いたのだが、霧はどこからともなく流れこんできて廊下の曲り角の灯が、夢のようにボンヤリ潤み、部屋のうちまで、上海の濃霧に特有な生臭い匂いが侵入していたのであった。》
海野十三「人造人間殺害事件」
aozora.gr.jp/cards/000160/file

《上海四馬路の夜霧は濃い。
黄いろい街灯の下をゴソゴソ匍うように歩いている二人連の人影があった。
「――うむ、首領この家ですぜ。丁度七つ目の地下窓にあたりまさあ」
と、斜めに深い頬傷のあるガッチリした男が、首領の袖をひっぱった。
「よし。じゃ入れ、ぬかるなよワーニャ」》
海野十三「見えざる敵」
aozora.gr.jp/cards/000160/file

動詞 shanghai(上海)の由来

《19世紀は帆を動力とする商船の全盛期であり、不誠実な船長に新鮮な乗組員(多くは不本意な乗組員)を供給する海のポン引き(クリンプ)の全盛期でもあった。別の言い方をすると、船員はシャンハイされた。(クリンプという言葉は、もともとは「エージェント」を意味するイギリスのスラングで、おそらくイギリス人船員とともにアメリカにやってきたのだろう。「シャンハイ」という言葉は、クリンプされた船員の多くが、帆船時代の主要港であった中国の上海にたどり着いたことから生まれたと思われる)》
Of Crimes and Shanghaied Sailors
historynet.com/of-crimes-and-s

《「シャンハイされる(getting shanghaied)」という語は、歴史上、とくに19世紀において、誘拐や強制によって人を船員として働かせた行為を指す。(……)シャンハイの犠牲者は、麻薬を盛られたり騙されたりして、海の上で目覚め、船上で強制的に働かされることになった。》
What does the term ‘getting shanghaied’ mean? - Quora
quora.com/What-does-the-term-g

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鉄板をひっかくような音が聞こえてきた。
SOS、助けを求める信号だった。為吉はナイフを取り出して水管を叩いた。

《「Shanghai――」と返信があった。
 上海? ナニコトカと彼は又水管を掻いた。
「Shanghaiされた」
 上海された! 通行人を暴力で船へ攫って来て出帆後、陸上との交通が完全に絶たれるのを待って、出帆後過激な労役に酷使することを「上海する」と言って、世界の不定期船に共通の公然の秘密だった。罪悪の暴露を恐れて上海した人間に再び陸を踏ませることは決してなかった。絶対に日光を見ない船底の生活、昼夜を分たない石炭庫の労働、食物其他の虐待から半年と命の続く者は稀だった。》――牧逸馬「上海された男」
aozora.gr.jp/cards/000304/file

《shanghai vt. ⦅海俗⦆麻薬をかけて[酔いつぶして]船にむりやり連れ込む⦅水夫にするため⦆, 誘拐[拉致]する; ⦅俗⦆だまして[むりやり]いやなことをさせる.》――『リーダーズ英和辞典』

《寺山修司にあっては、句も歌も、およそ自身の感懐を吐露するというようなものではありえなかった。彼は、句や歌を作ることによって、自身の感懐なるものを作りあげたのであり、場合によっては自身の物語、自身の出生の秘密さえつくりあげたのである。
 たとえば塚本邦雄はその寺山修司論「アルカディアの魔王」において、「マッチ擦るつかのま海に霧ふかし身捨つるほどの祖国はありや」ほかの歌を引いた後に次のように述べている。

「反生活と人間のなからひに、引きさかれつつ現れた、父、家、青年、祖国、その属性を、もはや私に即して読む愚を繰返す読者はあるまい。これらのヴォカブラリーを以て彼の思想的深化を説くのも、作者にとっては有難迷惑にすぎないだらう」

 塚本邦雄のこの指摘は何度繰り返されても過ぎることはないだろう。いまなお「私に即して読む愚を繰返す読者」が少なくないからであり、しかもそれが驚くまいことか歌人に少なくないからである。(……)寺山修司は嘆声を発したのではなく、嘆声を作ったのである。あたかも劇のなかの一青年の嘆声を台詞として作るように作ったのである。》――三浦雅士「二重性の連鎖――寺山修司の言葉」(思潮社『続・寺山修司詩集』解説)

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《私は一九三五年十二月十日に青森県の北海岸の小駅で生まれた。しかし戸籍上では翌三六年一月十日に生まれたことになっている。この三十日間のアリバイについて聞き糺すと、私の母は「おまえは走っている汽車のなかで生まれたから、出生地があいまいなのだ」と冗談めかして言うのだった。》――寺山修司『誰か故郷を思はざる』

《この自伝には寺山修司が得意とするフィクションが横溢している。彼は「青森県の北海岸の小駅」で生まれたのではなく、実際には弘前市紺屋町にあった父親の転勤先の家で生まれている。彼の母親が「おまえは走っている汽車のなかで生まれた」というような冗談を言う人かどうかもあやしい。ここには彼が「走っている汽車」というイメージに同化しようとする、彼自身の「外に向かって育ちすぎた」フィクションがあるのだ。》――佐々木幹郎「「死ぬのは他人ばかり」か?」(思潮社『続・寺山修司詩集』解説)

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