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《私は一九三五年十二月十日に青森県の北海岸の小駅で生まれた。しかし戸籍上では翌三六年一月十日に生まれたことになっている。この三十日間のアリバイについて聞き糺すと、私の母は「おまえは走っている汽車のなかで生まれたから、出生地があいまいなのだ」と冗談めかして言うのだった。》――寺山修司『誰か故郷を思はざる』

《この自伝には寺山修司が得意とするフィクションが横溢している。彼は「青森県の北海岸の小駅」で生まれたのではなく、実際には弘前市紺屋町にあった父親の転勤先の家で生まれている。彼の母親が「おまえは走っている汽車のなかで生まれた」というような冗談を言う人かどうかもあやしい。ここには彼が「走っている汽車」というイメージに同化しようとする、彼自身の「外に向かって育ちすぎた」フィクションがあるのだ。》――佐々木幹郎「「死ぬのは他人ばかり」か?」(思潮社『続・寺山修司詩集』解説)

《寺山修司にあっては、句も歌も、およそ自身の感懐を吐露するというようなものではありえなかった。彼は、句や歌を作ることによって、自身の感懐なるものを作りあげたのであり、場合によっては自身の物語、自身の出生の秘密さえつくりあげたのである。
 たとえば塚本邦雄はその寺山修司論「アルカディアの魔王」において、「マッチ擦るつかのま海に霧ふかし身捨つるほどの祖国はありや」ほかの歌を引いた後に次のように述べている。

「反生活と人間のなからひに、引きさかれつつ現れた、父、家、青年、祖国、その属性を、もはや私に即して読む愚を繰返す読者はあるまい。これらのヴォカブラリーを以て彼の思想的深化を説くのも、作者にとっては有難迷惑にすぎないだらう」

 塚本邦雄のこの指摘は何度繰り返されても過ぎることはないだろう。いまなお「私に即して読む愚を繰返す読者」が少なくないからであり、しかもそれが驚くまいことか歌人に少なくないからである。(……)寺山修司は嘆声を発したのではなく、嘆声を作ったのである。あたかも劇のなかの一青年の嘆声を台詞として作るように作ったのである。》――三浦雅士「二重性の連鎖――寺山修司の言葉」(思潮社『続・寺山修司詩集』解説)

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