ブランキ『天体による永遠』のエピローグ

《私は決して自分自身の楽しみを求めたのではなかった。私は真理を求めたのだ。ここにあるのは啓示でも予言でもない。単にスペクトル分析とラプラスの宇宙生成論から演繹された結論にすぎない。上記二つの発見が我々を永遠にしたのである。それは思わぬ授かり物だろうか? それなら、それを利用しようではないか。それはまやかしだろうか? それならあきらめるほかはない。》――浜本正文訳『天体による永遠』

それは授かり物か?
ブランキはこの書を、幽閉されたトーロー要塞の一室で綴った。
すでに老齢の60代半ば、イギリス海峡に望む岩礁に築かれた古い要塞で人生を終えることも覚悟しただろうブランキにとって、この書を仕上げたことは「思わぬ授かり物」であった。
ならば、それを利用しようではないか。ここに示したものは啓示でも予言でもない、私はついに真理を究めたのである。すなわちこれを我が思想の到達点とし、遺著としよう。ただし、現実のブランキはさらに10年ほど生き延びた。

それはまやかしか?
永遠は妄想の産物。ならば、あきらめるしかない。

『天体による永遠』の最末尾

《自己の偉大さに酔い痴れ、自己を宇宙だと信じ、自己の牢獄の中であたかも無限の空間にいるかのごとく振舞って生きている騒々しい人間たち。だがまもなく彼らも、深い侮蔑のうちに、虚栄に満ちたその重い荷物を背負ってきた地球と共に、滅んでしまうのだ。異郷の星でも同じ単調さ、同じ旧套墨守であることに変りはない。宇宙は限りなく繰り返され、その場その場で足踏みをしている。永遠は無限の中で、同じドラマを平然と演じ続けるのである。》――浜本正文訳

諦念で締めくくっている。
幾たび回帰して来ようと、地球も私も足踏みを繰り返すだけだろう。カミュならこのような繰り返しを「シーシュポスは幸福なのだ」と結ぶことろだが、ブランキは諦めて終える。仮に回帰があったところで、同じ牢獄、同じドラマの再演にすぎない、と。

肯定的に敷衍するなら、永劫回帰とは後世に託す希み。
自身が回帰してくるのではない。後の世の誰かに呼び返されて回帰する。

永劫回帰と呼べるようなことが現実に起こるとすれば、それはブランキが立脚した物理法則によってではなく、後世の人為によってでしかない。何者かが過去に思いを馳せて敗者の悲哀や無念を共にし、彼らの復権を試みようとするなら、それが回帰となる。復権がかなうまで幾たびでも我々を呼び返してもらいたい。それが永劫回帰という願い。

敗者の復権を試みる行為をベンヤミンは「救済」と呼び(『歴史の概念について』)、杉浦日向子は「供養」と呼んだ(『吉良供養』)。

ベンヤミンは「救済」と言った。
対して、杉浦日向子は「供養」。

ベンヤミンの言う「救済」が、過去の救済を掲げながらも、現在を救済する契機として過去を見ているのに対し、杉浦の「供養」は一方的に過去を慰撫するだけで、見返りを期待していない。
ありえたかもしれない可能態としての過去をテコに現在の改変を志向するのがベンヤミンの「救済」だが、杉浦が『吉良供養』他の作品で行った「供養」は、虚構を手段とした事実への接近にとどまる。功利性あるいは現世利益的には「救済」が「供養」にまさるだろうが――

討入の夜の吉良邸で。
赤穂浪士が家老の斎藤宮内(150石、64歳)をつかまえる。
「わたしは下々の者です。どうかごじひを」
「下々が絹を着るか。お前は相応な者だろう。隠さず云え」
「は…皆様も御苦労に存じます。ど、どうか私の小屋へお立寄り下さいましてお煙草でも召しあがれ…」
応答にあきれた浪士たちは、宮内を突きとばして去る。

吉良邸の別の場所で。
おなじく家老の小林平八郎(150石、55歳)を浪士がつかまえる。
「主人の寝間へ案内しろ」
「下々にて存じませぬ」
怒った浪士は、平八郎の首をはねて去る。

杉浦日向子『吉良供養』が伝える斎藤宮内と小林平八郎の運命の対比。
戯画的だが、事実らしい。

杉浦日向子『吉良供養』から、斎藤宮内が命を助かり、小林平八郎が首をはねられたくだり。

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あまりに馬鹿げた応対ゆえに、かえって命を助かった斎藤宮内は、このあと別の家老(100石、69歳)とともに普請中の壁を破って吉良邸から逃げ出し、浪士が引き上げてから同じ壁の穴をとおって帰邸した。この所業で二人は人非人とののしられ、彼らが破った壁の穴には「犬猫、家老ノ外、入ル可カラズ」と落書きされた。

斎藤宮内とは運の違いすぎた小林平八郎。
小説、映画、演劇などの創作物では、小林は吉良方の重要人物。赤穂浪士の襲来にそなえて吉良邸の守りを固める要の役であったり、討ち入りの当夜は厳しく戦って倒れた剣客でもあった──というようなイメージがある。
ところが『吉良供養』によると、吉良側は赤穂浪士の襲来を予想していない。
ならば、守備の要という小林平八郎の役割は消える。言い逃れが通じず首をはねられた次第からは、剣客でもなかったことになる。

小林平八郎を剣客とする説は長いあいだ事実として流布していたらしく、江戸学の創始者とされる三田村鳶魚でさえ、ある言い伝えに「コロリとだまされて」(鳶魚)、俗説を補強する論を出世作の『元禄快挙別録』に記したが、のちに「当夜の小林平八郎」という小論を著して、「嘘も嘘、実にとんでもない間違い」と俗説の平八郎像を否定し去った。

俗説の核は、平八郎を上野介の正室・富子の付け人とするもの。
富子は上杉家から来嫁した。赤穂事件の時期の吉良家と上杉家は、二重三重の婚姻・養子関係にあり(これは事実)、その関係から上杉家は赤穂浪人への備えを支援し(これは虚構)、平八郎はその要となる人物であった(これも虚構)。鳶魚によれば、吉良家も上杉家も赤穂浪人の襲撃を予想していない。したがって、防御の要という平八郎の役割もない。そもそも平八郎は上杉家から来たのではない。もとからの吉良家の臣。重役ではあるが、剣豪などではない。

杉浦日向子の『吉良供養』は多くを鳶魚に負ったと見られる。

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