Google Lens による英訳
That's why you don't give up.
Someone said. Dada was good because it wasn't bad
Dada is religion, Dada is poetry, Dada is esprit. Da is magic. i know dada
My colleagues, for better or for worse, religion.
Spry or skeptic, no matter how you define it, that's why you're all dead.
And I swear you're dead
The great mystery is the secret. but
be. they never
《エッゲリングはわたしに素描をみせた。それはまるで誰かがわたしに、魔法の書をひらいてみせたかのようだった。わたしは即座に、なぜそうなったのかを〈了解〉した。(……)
わたしたちの目標と道程が、おどろくほど一致しているのに感動した二人は、たちまち友人となり、いつまでも友人でありつづけた。かれにとっては、これまでまったく無視されてきたかれの仕事をみて、わたしが興奮して保証したことが、わたしにとって探し求めていた芸術的可能性を、突然認識したことと同様に、衝撃的であった。》――ハンス・リヒター『ダダ』(針生一郎訳)
ヴィキング・エッゲリング「絵画の基調低音のための材料」1918
https://fr.wikipedia.org/wiki/Viking_Eggeling#/media/Fichier:Viking_Eggeling_Generalbass_der_Malerei.jpg
深作欣二監督『上海バンスキング』(1984年)の予告編が YouTube にある。
https://www.youtube.com/watch?v=x_B7S043BxY
監督・深作、主演・松坂慶子、相手役に風間杜夫という組み合わせは、『蒲田行進曲』(1982年)と同じ。
こちらに深作版のあらすじ。
https://eiga.com/movie/37006/
原作(斎藤憐)にかなり書き足してあり、劇場版とはおもむきが異なる。
《一九一五年、第一次世界大戦のはじめに、飢えにやつれた、うすいあばたづらの、ひどくやせて背の高い作家兼演出家が、スイスにやってきた。それはフーゴー・バルで、唄をうたい、詩を朗読することのできる女友だち、エミィ・ヘニングスをつれていた。》――ハンス・リヒター『ダダ――芸術と反芸術』(針生一郎訳)
ダダ運動の最初の拠点であるキャバレー・ヴォルテールが、演出家であるフーゴー・バルとパフォーマーである女友だち(後に結婚)によって設けられたこと。
ダダの演芸的体質。ダダについては本や雑誌で知ったことばかりだから、つい文芸をベースとする思潮あるいは運動と思いがちだが、むしろ演芸的側面を見るべきではないか。
Dada and Cabaret Voltaire - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=fkl92oV1kMc
「自我を穴だらけのマント同様に脱ぎ捨てること」と、ダダ運動発祥の場とされるキャバレー・ヴォルテールの主人フーゴー・バルが書き残している。
https://johf.com/memo/046.html#2024.5.8
自我を捨てる。壁抜けの有力な解ではないか。
コートを脱ぎ捨てて壁に入り込んだオノレ・シュブラックのケースをどう考えるか。着ているものを脱ぎ捨てて、姿を壁に溶け込ませたものの、壁に撃ち込まれた銃弾で殺されてしまったらしいのだが。
バルの言におけるマントとは自我の喩えであって、自我そのものではないこと。
《Japan has fallen to Marxists》―― Pamphlets on X
https://twitter.com/PamphletsY/status/1787246181547901380
《独蘇戦の独側の回想録等で、独軍に包囲されたセバストポリ等で、最後の蘇の逆襲の際、その先頭に地区の女性共産党員が勇敢に突撃してくる事がしばしばあって、それを撃ち殺すストレスに触れるものがありますが、彼女達が何のために死んだのか、今の目で見ると複雑な心境になります。》――MUTI on X
https://twitter.com/MUTI39/status/1764605877133443538
《マルクス主義がその昔持っていた真の力、恐ろしさはその資本主義に対する透徹した分析ではなく、むしろ大多数のろくに文字も読めない人々にすらまだ見ぬ新しい未来を垣間見せたこと、自分が人間らしく生きられる世界を幻視させた、いわば詩的な力だったのよな。理論なんかのために人は死ねない。》――Af on X
https://twitter.com/Sz73B/status/1764425124013367565
上海あるいは仮想の都市を舞台とし…
https://ja.wikipedia.org/wiki/近藤東
ヲンナノ髪ニ昨夜ノ新月ガ引懸ツテトレナイ。
オンナノ腋毛ハ飴色ノ腋毛ダ。
窓ノ港ニハ白イパイロット・ボオトガ揺レテヰタ。
フタリハ急ニ悲シクナツタ。
日本ノ軍艦ガ遡航シテ入港シタ。午後三時。
――トウトウ駆逐艦デ追ツカケテ来タワヨ。
https://johf.com/memo/020.html#2022.2.8
上海、満州、出口、逃亡。モダニズム。
具体的などこかではなく。
《「唐十郎さん死去、84歳…「泥人魚」「ベンガルの虎」アングラ小劇場運動を先導(読売新聞オンライン)
バチバチのライバルだった寺山修司と同じ日にお亡くなりになるとは、、、5月4日は"アングラ演劇の日"に決定ですね》――お座敷テクノ on X
https://twitter.com/ozashikitechno/status/1786866889035239715
《バタイユによれば人間の生の目的は「栄光」にあるという。それは生産に目的づけられた生の外部にある。「いかなる目的も持たないこと、そして、原因となって何かの役に立たないこと、このアリアドネの糸をニーチェは決して見失わなかった」。
永劫回帰は、各瞬間を無動機的にし、生を目的から解放する。永劫回帰、それは、生の各瞬間がもはや無動機的になっている人間の砂漠に他ならないのである。》――木澤佐登志「もううんざり! 競争社会から降り始めた現代のディオゲネスたち」
https://gendai.media/articles/-/106666?page=6
テイレシアスはギリシャ神話に出てくる盲目の預言者。
オウィディウスの『変身物語』によると、テイレシアスが預言者になった次第は次のとおり。
あるとき彼は森の中で交尾している二匹の蛇を見て、杖で殴りつけた。すると男であったテイレシアスは女に変わり、そのまま7年間を過ごした。8年目にまた同じ蛇たちに出会って杖で殴ると、もとの男にもどった。このことがあって、彼は男女双方の性愛に通じることになった。
ユピテルと妻のユノーが、男女どちらの性的快感が大きいかで言い争ったとき、テイレシアスはユピテルに味方して、女の快感のほうが大きいと言ったため、ユノーに憎まれて盲目にされてしまう。
神々の世界では、ある神がしたことの効果を取り消すことは、どんな神にも許されない。そこで全能の父である神は、視力を奪われたテイレシアスに予言の能力を与えて、罰を軽くした。
ギヨーム・アポリネールの戯曲『テイレシアスの乳房』に「ザンジバルの民衆」という役がある。戯曲の舞台であるザンジバルの民衆という意味だが、一人で演じる。
劇中の効果音――太鼓、アコーディオン、ラッパ、鈴、カスタネット、銃声、雷鳴、皿の割れる音など――は、すべてこの人物から発せられる。この役に割り当てられた台詞はないが、メガホンの役をするときは台詞を言う。
『テイレシアスの乳房』粗筋
前半 https://johf.com/memo/045.html#2024.4.30
後半 https://johf.com/memo/046.html#2024.5.2
《日本の芸能・文学が、我々の板につき、我々のものになつたのは、低い階級のものゝ為事が認められ出してからのもので、この低い階級のものは皆宗教家です。これらの人々は、皆社会外の社会にゐて、無頼の徒です。土地もなく、祭りの時だけ許されて無頼が出来ます。平安朝末の法師達の振舞ひはこれと同じことです。これが近代迄も社につき、又ははなれて動いてゐて、社につく神人が、山や川を越えて御札をくばつて歩いたもので、その行動は無茶苦茶なことが多かつたのです。これらが下級の武士の出て来る処となります、かうして、近代の芸能にたづさはるものと、信仰生活にゐる人々の中のある部分と、武家のある階級は、皆一つであつたと言ふことになります。》――折口信夫「無頼の徒の芸術」
https://www.aozora.gr.jp/cards/000933/files/47719_69319.html
折口信夫に「ごろつきの話」という小論文(講演記録)がある。
https://www.aozora.gr.jp/cards/000933/files/18408_27478.html
ここで折口は「無頼」や「無頼漢」を「ごろつき」と読ませ、無頼=ごろつきの具体例として、うかれ人、ほかい人、野ぶし、山ぶし、念仏聖、虚無僧、くぐつ、すり、すっぱ、らっぱ、がんどう(強盗)、博徒、侠客、かぶき者、あぶれ者、町やっこ、舞々・舞太夫、しょろり・そろり、無宿者・無職者などをあげている。
時代は違うが、この無頼漢リストはマルクスの列挙したボエーム=ルンペンプロレタリアのリストを思わせる。
ただし、マルクスがルンペンプロレタリアを歴史の夾雑物として扱おうとしたのに対し、折口は「ごろつきの話」の冒頭で次のように述べ、日本史における無頼=ごろつきの存在と役割に重いものを与えた。ここで言う「時代」も、古代から近代初期までの長い期間を指す。
《無頼漢などゝいへば、社会の瘤のやうなものとしか考へて居られぬ。だが、嘗て、日本では此無頼漢が、社会の大なる要素をなした時代がある。のみならず、芸術の上の運動には、殊に大きな力を致したと見られるのである。》
《マルクスが、「ルンペンプロレタリアート」という語を用い始めたとき、これには二つの意味が込められていた。まず、これが指す集団は、革命の前進に役立たないどころか、これを妨害するがゆえに屑(ルンペン)である。また、これは、ブルジョワジーとプロレタリアート間の階級闘争の理論の中に取り込むには不都合な異物としての屑(ルンペン)でもある。他方ベンヤミンの方法とは、「屑、ごみの目録を作るのではなく、ただ唯一の可能なやり方でそれらに正当な位置を与え」ること、つまり「それらを用いること」である。マルクスによれば、「ルイ=ナポレオンが「無条件に頼ることができる唯一の階級だと認める」、あらゆる階級の「くず、ごみ、かす」(『ブリュメール一八日』第五章)であるボエーム=ルンペンプロレタリアートこそ、ベンヤミンの真の素材なのである。》――横張誠『芸術と策謀のパリ』
階級闘争理論に対する「不都合な異物」としてのルンペンプロレタリアの存在。彼らが革命の敵であることよりも、革命理論の敵であることにマルクスは苛立っていたように見える。