引き続き佐藤信の戯曲『キネマと怪人』を読む。序がもう一つあり、題して「もうひとつの序」。
最初のト書き
《一本のおんぼろ傘の下、肩を寄せ合う三人。昨夜も見かけた「ご町内の三人組」――松島さん、厳島さん、天橋立さん。今宵の彼ら、あつかましくも彼のマルクス三兄弟もどき。》
最後のト書き
《三人組、前方を見つめて、そのまま動かない。
暗転――とたんに、三人組のあげる断末魔の悲鳴。》
場の設定は、ハイウェイ、雨、夜明け。
三人組は話を交わしたり歌ったりするが、なんのために出てきたのか。劇の登場人物だから、劇中で負わされている役割はあるはずだが。
何かを象徴するかもしれない存在として、現場に後足と尻尾だけ残し、頭や前足はトラックの車輪にこびりついてどこかへ行ってしまった猫。じつはただの野良猫ではなく、後ろ姿から見てハンフリー・ボガートなのだという。
引き続き『キネマと怪人』を拾い読み。
ホテル「ひばりケ丘」のボーイ竜が、別のナミコ=波子に向かっていう台詞。
《大陸の某王家の令嬢、謎の美人女優、あなた様をお迎えする長春の町は、一ヶ月も前からもう噂でもちきりでございました。待ちに待ったその当日、特急「あじあ号」の一等車のタラップから降りられて、駅前の広場を埋めた歓迎の大群衆ににっこりと手をお振りになったあなた、凛々しい乗馬服姿のあなたは……》
波子はこのドラマの主役らしい。登場人物のトップに彼女の名がある。
「某王家の令嬢」とあり、清朝の皇族の家に生まれた川島芳子を思わせるが、「美人女優」という表現は芳子にあてはまるのか。あるいは波子は、川島芳子と山口淑子(李香蘭)を合成したような人物か。
川島芳子 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/川島芳子
山口淑子 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/山口淑子
《ベルリン時間でいまは夜明けよ。ご存知? あそこではブロンドの少年たちが揃って臍から下を剥き出しにして朝の食卓に向かうのです。短い感謝のお祈りの間、少年たちの薄い陰毛は、金いろの朝日の祝福を受けて風にそよぎます。》
『キネマと怪人』の登場人物・浪子の台詞。
「臍から下を剥き出しに」とあることで、この浪子が、徳冨蘆花の『不如帰(ホトトギス)』から、のぞきカラクリの『不如帰』(下記歌詞)を経由してフィーチャーされてきたものとわかる。
タケオがボートに移るとき ナミさん赤い腰巻を
おへその上まで捲(まく)り上げ これに未練はないかいな
ナミコがボートに移るとき タケオは紺のズボンをば
膝の下まで摺(ず)り下ろし ……
https://tyumeji.blog.fc2.com/blog-entry-602.html
拾い読みという解。
本をパラパラやって、アンテナに引っかかったフレーズか段落を取り出す。
短いから、そのぶん理解も批評も容易。
もとの文脈を知らないのだから、誤読はありうる。もっとも、文脈のなかで理解しようとしても、やはり誤読はありうる。
再利用の場合も、誤読の上での再利用となりうる。
だったら元の文脈は無視すればいい。
全体として成り立っている文章から章句を取り出せば、元の文脈からは外れてしまう。それを承知で、既存の文章の断片を別の文脈にはめこむ。これを「断章取義」という。
部分の拾い読みで済ます。拾い読んだだけで、わかったかのように再話し、批評し、自身の創作物にはめこむ。
それしかできないなら、そうするしかないのだが。
本は拾い読み。
本を通して読んで、人に伝えられるような形でそれを理解して、理解したことを人に伝える。そんな読み方は自分にはできないのだから、分相応に拾い読んでコピー&ペースト、あるいはコラージュ、あるいは改ざん、自分にできるように読んで、自分にできるように使う。
ということで、佐藤『キネマと怪人』から。
佐藤 死体ばっかりだ。川の中に折り重なり、道端に積み重ねられ――生きている自分の方が、まるでとりとめなく、たよりないものに思えてしまう。
山中 まる半日、歩きづめに歩いて、それでもまだ終らないような広びろとした景色。あれもやはり景色と呼ぶのだろうか。あの一面の焼野原。
東京大空襲の体験なのか、思い出なのか。とりあえずわからない。
もうひとつ、この佐藤とは佐藤信を指してるのか。
いくぶんかは指してるのだろう。自分を自分の名で作品に登場させること。
あきれたというか、笑ったというか。
『あたしのビートルズ』を読み直そうと本を開いたら、鄭と桂は6畳ほどの安アパートに暮らす若い夫婦という関係だった。いったい自分は先の初読で何を読んだのか。夫が妻を強姦して殺害?
とりあえずの設定では、鄭は演出家か何からしい。彼の書いた脚本の中で桂は本を読む役を与えられていて、目下の『あたしのビートルズ』中で彼女は本を読むふりを続けている。
やがて日本人(という名の男)が登場して、鄭を爆殺するつもりであることが明かされる。
鄭、桂、日本人の3人の会話から、鄭による桂の殺害は明日おこなわれ、日本人による鄭の爆殺は晴れた日曜日の白昼、その条件にあえば明後日おこなわれることがわかる。爆殺の動機もわかって、それは朝鮮人である鄭が日本人である桂を強姦・絞殺したことにたいする日本人(という名の男)の復讐である。
以上、ほとんど憶えがなかった。
何をしてるのだ、俺。理解できないものばかり追いかけて、そのせいで記憶にも残らない。
鄭という朝鮮人が桂という日本人を犯して殺す。
佐藤信の戯曲『あたしのビートルズ』は、この二人を演じる役者の演技をめぐって進行する。
劇はなかなか進展しない。そこで、レノン、マッカートニー、ハリスン、星子、日本人(これも役名)を演じる5人が、鄭と桂の演技を助ける。このうちはじめの4人は運送屋として現れるが、じつはビートルズだと名乗る。5人目の日本人は所持していた拳銃をハリスンに奪われるが、なお爆弾を所持している。
レノンら5人は、鄭と桂の演技をけなしたり、励ましたり、二人の代わりに台詞をしゃべったり、劇中歌を歌ったりする。桂は5人の手出しを受け入れ、鄭の意思を無視して劇が進みはじめる。
そのうちに鄭と桂のアイデンティティが逆転する。じつは鄭は日本人で、桂の両親は朝鮮人なのだという。
最後に結末らしい出来事があり、登場人物全員がビートルズの A Hard Day's Night に乗って踊りだす。
作者の付記によると、この戯曲は1958年に起きた「小松川女高生殺し事件」にヒントを得ている。「上演の際には、劇の始まりか終りに、スライド等適当な方法で、なるべく詳しい事件のドキュメントが、観客に示される」と。
新しい町へ行くだろう。映画館を探すことにしてるんだ。それもなるべく小さくて汚れたやつ――どういうもんかなあ。俺、昔から映画はそういう小屋で観ないと気分がでないのさ。時間みはからってまず小便済ましてさ、それからピーナッツ買って、客席の半分壊れたような椅子に腰を下す。前の席の背もたれに足を投げ出すとな、ベルが鳴るんだ。ぞくっとくるね。……
佐藤信『キネマと怪人』から、ジミーことジェームス・ディーンの台詞。
映画館がそのような場でもあることが許された時代。
ところで、「ジェームズ」か「ジェームス」か。ネットで検索すると、映画のポスターでも「ジェームス」になってるから、昔は濁らなかったのかもしれない。
『ブランキ殺し上海の春』の「ブランキ版」と「上海版」、それに『鼠小僧次郎吉』物を2本、佐藤信の戯曲を読んでみたが、まるでわからない。
これはわかりそうと感じつつ読みはじめた『キネマと怪人』だが、どういうことになるか。
《ダダがつかんだものは、あれかこれかというありふれた思考の図式では、解釈も説明もされえない。わたしたちに自然な、イエスかノーかの思考を、ダダはまさに爆破しようとした。二元論的思考を仮借なく投げすてるところに、この運動の性質が示される。思考は拡大され、感情をもつ思考、思考をともなった感情、その両者が詩や絵や音のうちに統合されなければならなかった。「悟性は感情の一部であり、感情は悟性の一部だ」(アルプ)新しい、拡大しつつある思考の、このような前提がうけいれられさえすれば、ダダの矛盾はおのずから消えて、ひとつの世界像が生れる。そこでは因果的経験のほかに、これまでみえず、きこえなかったもうひとつの経験が明らかにされ、無法則なものをふくむ合法則性が明らかにされる。》――同じく『ダダ』
《因果関係をはなれた、新しい無法則性というテーゼをたてて、反-芸術を宣言するのは、たしかに非常にいいことではあったが、それは全的人間、さらに秩序づける意識が創造過程の内部に入りこみ、あらゆる反-芸術論争にもかかわらず、芸術作品が生れることをさまたげなかった。偶然とならんで、いずれにしろ避けがたく、まさに秩序づける、意識的な人間が存在していた。それはツァラの新聞の切れはしの詩や、アルプのちぎられ、ばらまかれた紙切れに劣らず、何といってもわたしたちがはたらきかけた真の状況であった。ひとつの葛藤にみちた状況!》――ハンス・リヒター『ダダ――芸術と反芸術』(針生一郎訳)
著者は偶然と反-偶然の相反する手法を、排他的関係にあるとは見ず、止揚すべき対立とも見ない。
両者はそのままで、ひとつの全体すなわちダダの部分を形作っていた、と。
《こうした貧民は結局零落してしまう者が多かった。すると流れ者の仲間入りをして各地を放浪するのであるが、フランスの浮動人口は、一七八〇年代までに数百万もの自暴自棄の人びとを含んでいる。修行の旅にある職人、旅役者の一座、いんちき医師や薬売りといった少数の幸福な人間を除き、放浪の生活は文字通りはきだめに食物を漁るに等しかった。浮浪者たちは鶏小屋を襲い、番人のいない牝牛から勝手に乳をしぼり、生け垣の洗濯物を盗み、馬の尻尾を切り落とし(馬の尻尾は家具職人が買ってくれた)、施しが行われている場所にくると、自分の身体を切り裂いては病人になりすました。また、軍隊に入っては脱走することも、度々繰り返した。彼らは密輸者、追い剥ぎ、掏摸、娼婦になった。そして最後には施療院で死ぬか、茂みか干し草置き場に這って行き、そこで息をひきとった。乞食の生涯が終わったのである。》――ロバート・ダーントン『猫の大虐殺』(海保眞夫・鷲見洋一訳)
マルクスの「ボエーム=ルンペンプロレタリア」、折口信夫の「無頼=ごろつき」
https://fedibird.com/@mataji/112356959565285086
既存の詩や文から章句を切り出し、もとの文脈を無視して再利用することを「断章取義(だんしょうしゅぎ)」という。
『列子』にある列子の故事を、弓の名人・紀昌のこととして「名人伝」に取り入れた中島敦の方法も断章取義と言える。他にも「名人伝」では、『列子』中の章句をさかんに流用、元のシチュエーションから切り離して使っている。
ネガティブな面を強調して断章取義を言い換えれば、盗用あるいは故意の誤用ということになるが、ポジティブには、断章取義こそすべての創作活動の基本ではないか。
創作物の中身がすべて創作者の内部から発しているなどとは言えない。すべてが作者のオリジナルだとしたら、それらは遺伝子で伝えられてきたものとでも考えないと説明できない。逆に、すべては借用、流用、盗用と言ったほうが事実に近いだろう。
「凡才は模倣し、天才は盗む」とピカソは言った。
「盗め、どうして盗まないのだ」とウィリアム・バロウズも言っている。
名人伝 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/名人伝
名人伝 - 青空文庫
https://www.aozora.gr.jp/cards/000119/files/621_14498.html
中島敦の短編「名人伝」の登場人物、紀昌、飛衛、甘蠅の名は、『列子』湯問篇に弓の名手として出てくる。
射術を飛衛に学んだ紀昌が、飛衛を倒して第一人者になろうと図ったこと、野中で出会った二人が矢を撃ち合ったくだりなども主として湯問篇に拠り、一部の表現をを仲尼篇から借りている。
「名人伝」に紀昌の上達を表現して、「一杯の水をたたえた盃を右肘の上に載せて強弓を引くに、狙いに狂いの無いのはもとより、盃中の水も微動だにしない」とあるのは、『列子』黄帝篇に列子の故事として書かれていることの流用。
名人・紀昌の晩年の述懐「既に、我と彼との別、是と非との分を知らぬ。眼は耳の如く、耳は鼻の如く、鼻は口の如く思われる」も、同様の表現が列子の言として黄帝篇に出てくる。
これらの他、「名人伝」は『列子』から多くの出来事やフレーズを借りている。