ジプシーには、固有の服装というものがない。昔からジプシーの女性は、着物を紡ぐこともせず、織ることもしないできた。着ているものは、みなジプシー以外の人たちの着るものだ。また、そういう人たちのお古だ。ただし、着物の着方や色彩や配色などは、ジプシーの昔からの独特のものである。――マルティン・ブロック『ジプシー』(相沢久訳)

ああ、自分もだ。
他人からもらったものをずいぶん着てきた。
ジャケット、パンツ、シャツ、スーツ、コート、セーター、多くは古着。新品の場合も、何かの事情による不要物。
年上からも年下からももらった。
男物も女物も。
生者からも死者からも。
持ち主の知れぬ革のサンダルも。あれはもらったというより盗んだというものか。
いくぶんかはジプシーなのだろう、自分も。

以上、zakki by mataji から
johf.com/memo/045.html#2024.4.

マルクスは社会的ポジションの不確かな者を嫌った。ブルジョアかプロレタリアかに振り分けられない者、一般的な言い方ならボヘミアン、マルクスの用語でいえばルンペンプロレタリア。

《あやしげな生計をいとなみ、あやしげな素性をもつ、くずれきった道楽者とならんで、おちぶれて山師仕事に日をおくるブルジョア階級の脱落者にならんで、浮浪人、元兵士、元懲役囚、徒刑場からにげてきた苦役囚、ぺてん師、香具師、たちん坊、すり、手品師、ばくち打ち、ぜげん、女郎屋の主人、荷かつぎ、文士、風琴ひき、くずひろい、とぎや、いかけや、こじき、一口にいえば、あいまいな、ばらばらの、あちこちになげだされた大衆、フランス人がラ・ボエームとよんでいる連中、こうした自分に気のあった分子をもってボナパルトは十二月十日会の根幹をつくった。》――伊藤新一・北条元一訳『ルイ・ボナパルトのブリュメール十八日』

ボエーム(Bohème)は、ボヘミアの住民を意味するラテン語に由来する。いわゆる「ジプシー」が、ボヘミアからきたと見なされて「ボヘミアン」と呼ばれていたが、さらに19世紀中頃のフランスで反ブルジョワ的な生き方をモットーとする芸術家らがジプシーに喩えられてボエームと呼ばれるようになった。

《マルクスが、「ルンペンプロレタリアート」という語を用い始めたとき、これには二つの意味が込められていた。まず、これが指す集団は、革命の前進に役立たないどころか、これを妨害するがゆえに屑(ルンペン)である。また、これは、ブルジョワジーとプロレタリアート間の階級闘争の理論の中に取り込むには不都合な異物としての屑(ルンペン)でもある。他方ベンヤミンの方法とは、「屑、ごみの目録を作るのではなく、ただ唯一の可能なやり方でそれらに正当な位置を与え」ること、つまり「それらを用いること」である。マルクスによれば、「ルイ=ナポレオンが「無条件に頼ることができる唯一の階級だと認める」、あらゆる階級の「くず、ごみ、かす」(『ブリュメール一八日』第五章)であるボエーム=ルンペンプロレタリアートこそ、ベンヤミンの真の素材なのである。》――横張誠『芸術と策謀のパリ』

階級闘争理論に対する「不都合な異物」としてのルンペンプロレタリアの存在。彼らが革命の敵であることよりも、革命理論の敵であることにマルクスは苛立っていたように見える。

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《マルクスに対し、ルンペンプロレタリアートを革命の基盤として評価したのが、ミハイル・バクーニンである。バクーニンは、ルンペンプロレタリアートは貧困に苦しむ「下層の人々」であるが故に「ブルジョワ文明による汚染をほとんど受けておらず」、だからこそ「社会革命の火蓋を切り、勝利へと導く」存在であると捉えた。》――Wikipedia「ルンペンプロレタリアート」記事
ja.wikipedia.org/wiki/ルンペンプロレタ

折口信夫に「ごろつきの話」という小論文(講演記録)がある。
aozora.gr.jp/cards/000933/file

ここで折口は「無頼」や「無頼漢」を「ごろつき」と読ませ、無頼=ごろつきの具体例として、うかれ人、ほかい人、野ぶし、山ぶし、念仏聖、虚無僧、くぐつ、すり、すっぱ、らっぱ、がんどう(強盗)、博徒、侠客、かぶき者、あぶれ者、町やっこ、舞々・舞太夫、しょろり・そろり、無宿者・無職者などをあげている。

時代は違うが、この無頼漢リストはマルクスの列挙したボエーム=ルンペンプロレタリアのリストを思わせる。
ただし、マルクスがルンペンプロレタリアを歴史の夾雑物として扱おうとしたのに対し、折口は「ごろつきの話」の冒頭で次のように述べ、日本史における無頼=ごろつきの存在と役割に重いものを与えた。ここで言う「時代」も、古代から近代初期までの長い期間を指す。

《無頼漢などゝいへば、社会の瘤のやうなものとしか考へて居られぬ。だが、嘗て、日本では此無頼漢が、社会の大なる要素をなした時代がある。のみならず、芸術の上の運動には、殊に大きな力を致したと見られるのである。》

《日本の芸能・文学が、我々の板につき、我々のものになつたのは、低い階級のものゝ為事が認められ出してからのもので、この低い階級のものは皆宗教家です。これらの人々は、皆社会外の社会にゐて、無頼の徒です。土地もなく、祭りの時だけ許されて無頼が出来ます。平安朝末の法師達の振舞ひはこれと同じことです。これが近代迄も社につき、又ははなれて動いてゐて、社につく神人が、山や川を越えて御札をくばつて歩いたもので、その行動は無茶苦茶なことが多かつたのです。これらが下級の武士の出て来る処となります、かうして、近代の芸能にたづさはるものと、信仰生活にゐる人々の中のある部分と、武家のある階級は、皆一つであつたと言ふことになります。》――折口信夫「無頼の徒の芸術」
aozora.gr.jp/cards/000933/file

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