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マルクスは社会的ポジションの不確かな者を嫌った。ブルジョアかプロレタリアかに振り分けられない者、一般的な言い方ならボヘミアン、マルクスの用語でいえばルンペンプロレタリア。

《あやしげな生計をいとなみ、あやしげな素性をもつ、くずれきった道楽者とならんで、おちぶれて山師仕事に日をおくるブルジョア階級の脱落者にならんで、浮浪人、元兵士、元懲役囚、徒刑場からにげてきた苦役囚、ぺてん師、香具師、たちん坊、すり、手品師、ばくち打ち、ぜげん、女郎屋の主人、荷かつぎ、文士、風琴ひき、くずひろい、とぎや、いかけや、こじき、一口にいえば、あいまいな、ばらばらの、あちこちになげだされた大衆、フランス人がラ・ボエームとよんでいる連中、こうした自分に気のあった分子をもってボナパルトは十二月十日会の根幹をつくった。》――伊藤新一・北条元一訳『ルイ・ボナパルトのブリュメール十八日』

ボエーム(Bohème)は、ボヘミアの住民を意味するラテン語に由来する。いわゆる「ジプシー」が、ボヘミアからきたと見なされて「ボヘミアン」と呼ばれていたが、さらに19世紀中頃のフランスで反ブルジョワ的な生き方をモットーとする芸術家らがジプシーに喩えられてボエームと呼ばれるようになった。

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ジプシーには、固有の服装というものがない。昔からジプシーの女性は、着物を紡ぐこともせず、織ることもしないできた。着ているものは、みなジプシー以外の人たちの着るものだ。また、そういう人たちのお古だ。ただし、着物の着方や色彩や配色などは、ジプシーの昔からの独特のものである。――マルティン・ブロック『ジプシー』(相沢久訳)

ああ、自分もだ。
他人からもらったものをずいぶん着てきた。
ジャケット、パンツ、シャツ、スーツ、コート、セーター、多くは古着。新品の場合も、何かの事情による不要物。
年上からも年下からももらった。
男物も女物も。
生者からも死者からも。
持ち主の知れぬ革のサンダルも。あれはもらったというより盗んだというものか。
いくぶんかはジプシーなのだろう、自分も。

以上、zakki by mataji から
johf.com/memo/045.html#2024.4.

DOMMUNEが昨日放送した「寺山修司と60年代テレビの前衛」のアーカイブをYouTubeで公開
youtube.com/watch?app=desktop&

その漫画を見たのは学齢前。ひらがなは読めたが、漢字はまだ読めなかったはず。
それが『モンテ・クリスト伯』と気づいたのは、中学時代、学校の図書館から借りた要約本を読んで。小学校時代の6年をはさんで、そんなにも長く記憶に残っていたのは何故か。作者の挫折に自分の感性が反応したからだろう。

今にして思えば、あれは予言的体験だったか。
何ごともやり遂げられず、挫折、放棄、諦めといった形で終わる。おまえの人生はその繰り返しだよ、といったような。
幼時にして備わっていた挫折体質。そんな体質が、あることで訪れたある理髪店の二階のひと間でひとり過ごす間に、低い棚からみつけて読んだ漫画に感応したのだろう。

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自分の記憶にある最初の漫画は、『モンテ・クリスト』を脚色しようとしたか、あるいは下敷きにした別物。最後のコマで、作者が両手で頭をかきむしり、「行き詰まった」といった意味のことを言って、連載の中止を宣言している。原作に即して言えば、まだエドモン・ダンテスがシャトー・ディフの牢にいる段階なのに、早々に先行きを見限られた残念な作品。

もしかすると、この漫画は最初の漫画体験というにとどまらず、記憶に残った最初の読書体験だったのかもしれない。
同じころ、身辺に子供向けの絵本が1、2冊あったような気がしないでもないが、そちらは記憶がおぼろ。色の付いた本があったようなという記憶にとどまる。それなのに、子供には意味の取りにくそうな、しかもよそで一度見ただけの漫画が記憶に残ったことをどう考えるか。

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本来の忠義は契約事項であること。契約書などなくても、口約束さえなくても、契約事項。
家人は家に尽くす。家人が尽くす限りにおいて主家は適切な見返りを与えなければならない。家人が死んでも──病気で死のうと戦場で死のうと──契約は破棄されない。主家は家人の家族を保護し、家人の家を存続させてやる。これによって又者(家人の家人)も救われる。そういう信頼や安心感があるから、時には命をかけても家人は主家に尽くす。
赤穂事件は、忠義が契約による実効性を失くして、たんなる理念と化す移行期の出来事。以後、忠義は無償の行為となり、無償ゆえの純粋性、狂信性は近代にまで持ち越される。

《「大義」が殊更物々しく持出される時人が多勢死ぬ。
快挙とも義挙ともはた壮挙とも云われる義士の討入はまぎれもない惨事だと思う。》

『吉良供養』の冒頭に杉浦日向子がかかげた宣言がこれ。
大義が惨事を引き起こす。
その惨事はすでに起きてしまった。
もう取り返しはできないが、供養ならわたしはできる。そう考えて描かれたのが『吉良供養』だろう。

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『吉良供養』は吉良家の人々を供養した。
どう供養したか。
事実に迫ることが供養だと杉浦は考えたはず。赤穂事件を材料にした創作物のうちでも、『吉良供養』は最も事実に即したもののひとつ。
吉良側には勇敢に戦った者も、卑怯な進退をした者もいる。おおかたはほとんど出会い頭みたいに殺された。そうした振る舞いの別や結果の違いにかかわりなく、吉良家の人々は──じつは赤穂方もなのだが──忠臣蔵という大きな物語を構成する部品として使われている。事実を明らかにすることは、部品としての使用目的から人々を解放する。そのような意味で、『吉良供養』は人々を忠義の物語から切り離した。この切り離したことが供養である。
斎藤宮内も小林平八郎も忠義の盛り上げ役として生きたわけではない。
屋敷にとどまれば殺されると思ったから宮内は逃げ出し、安全を見きわめて屋敷にもどった。それだけのことであって、忠義は関係ない。
小林平八郎は言い抜けにしくじって殺された。彼の場合も、やはり忠義は関係ない。

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《エドモンダンテスが苦労して牢獄の壁掘り抜いたら、外ではなくお隣のお部屋へ出てしまった。でもやらないよりはマシだったと考えるようなものです。可能性あれば賭けてみて、こけたならそれまで…》
twitter.com/Doranekodo/status/

う〜む、とりあえず無難を選ぶのも人間というものだが…、つまりは賭けか。

杉浦日向子の『吉良供養』は、時と所を赤穂浪士討ち入りの夜の吉良邸に限定し、おもに吉良側の人々の動きと生死をドキュメンタリー風に綴った上下16ページずつの漫画作品。サブタイトルは「検証・当夜之吉良邸」。下巻の表題ページに「東都神田青林堂上梓」「壱千九百八拾壱年拾壱月」とあり、初出は雑誌『ガロ』か。現在、ちくま文庫『ゑひもせす』所収。
その「検証」によると、公の調書では吉良側の死者16名、負傷者23名、ただし重症で落命する者が多く、検視後には死亡23名、負傷16名と逆転した。いずれにしろ家中の約半数が死傷する一方で、浪士側は46名が討ち入って全員生還。浪士の原惣右衛門は「敵対して勝負仕り候者は三、四人許り、残りの者どもは立合に及ばず、通り合せに討捨て」との証言を残し、杉浦は「完全なワンサイドゲーム」とした。

タイトルの謎。なぜ「供養」なのか。
ワンサイドゲームに終わった殺し合いの結果を再現することが、敗者側の供養になるのか。
ぶざまな所業を蒸し返された斎藤宮内は、これで供養されたことになるのか。
「忠臣蔵」という国民的物語の中で名誉あるポジションを与えられていた小林平八郎は、こんな死に方を暴露されて供養されたといえるのか。

杉浦日向子は『吉良供養』によって赤穂浪人の吉良邸襲撃事件の実相をあきらかにした。
これが科学(歴史学)の方法ではなく、虚構(漫画)を手段として行われたこと。

虚構によるのでなければ、こんな絵は描けない。
fedibird.com/@mataji/112288263

あまりにも不条理に殺されたうえ同情もされなかった上野介と吉良家の人々に対する見方を変えるのは、歴史の事実を説くだけではダメで、杉浦日向子氏の「吉良供養」のような堂々たる文学作品が必要なんです。――芦辺拓
twitter.com/ashibetaku/status/

[参照]

小林平八郎を剣客とする説は長いあいだ事実として流布していたらしく、江戸学の創始者とされる三田村鳶魚でさえ、ある言い伝えに「コロリとだまされて」(鳶魚)、俗説を補強する論を出世作の『元禄快挙別録』に記したが、のちに「当夜の小林平八郎」という小論を著して、「嘘も嘘、実にとんでもない間違い」と俗説の平八郎像を否定し去った。

俗説の核は、平八郎を上野介の正室・富子の付け人とするもの。
富子は上杉家から来嫁した。赤穂事件の時期の吉良家と上杉家は、二重三重の婚姻・養子関係にあり(これは事実)、その関係から上杉家は赤穂浪人への備えを支援し(これは虚構)、平八郎はその要となる人物であった(これも虚構)。鳶魚によれば、吉良家も上杉家も赤穂浪人の襲撃を予想していない。したがって、防御の要という平八郎の役割もない。そもそも平八郎は上杉家から来たのではない。もとからの吉良家の臣。重役ではあるが、剣豪などではない。

杉浦日向子の『吉良供養』は多くを鳶魚に負ったと見られる。

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あまりに馬鹿げた応対ゆえに、かえって命を助かった斎藤宮内は、このあと別の家老(100石、69歳)とともに普請中の壁を破って吉良邸から逃げ出し、浪士が引き上げてから同じ壁の穴をとおって帰邸した。この所業で二人は人非人とののしられ、彼らが破った壁の穴には「犬猫、家老ノ外、入ル可カラズ」と落書きされた。

斎藤宮内とは運の違いすぎた小林平八郎。
小説、映画、演劇などの創作物では、小林は吉良方の重要人物。赤穂浪士の襲来にそなえて吉良邸の守りを固める要の役であったり、討ち入りの当夜は厳しく戦って倒れた剣客でもあった──というようなイメージがある。
ところが『吉良供養』によると、吉良側は赤穂浪士の襲来を予想していない。
ならば、守備の要という小林平八郎の役割は消える。言い逃れが通じず首をはねられた次第からは、剣客でもなかったことになる。

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杉浦日向子『吉良供養』から、斎藤宮内が命を助かり、小林平八郎が首をはねられたくだり。

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討入の夜の吉良邸で。
赤穂浪士が家老の斎藤宮内(150石、64歳)をつかまえる。
「わたしは下々の者です。どうかごじひを」
「下々が絹を着るか。お前は相応な者だろう。隠さず云え」
「は…皆様も御苦労に存じます。ど、どうか私の小屋へお立寄り下さいましてお煙草でも召しあがれ…」
応答にあきれた浪士たちは、宮内を突きとばして去る。

吉良邸の別の場所で。
おなじく家老の小林平八郎(150石、55歳)を浪士がつかまえる。
「主人の寝間へ案内しろ」
「下々にて存じませぬ」
怒った浪士は、平八郎の首をはねて去る。

杉浦日向子『吉良供養』が伝える斎藤宮内と小林平八郎の運命の対比。
戯画的だが、事実らしい。

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ベンヤミンは「救済」と言った。
対して、杉浦日向子は「供養」。

ベンヤミンの言う「救済」が、過去の救済を掲げながらも、現在を救済する契機として過去を見ているのに対し、杉浦の「供養」は一方的に過去を慰撫するだけで、見返りを期待していない。
ありえたかもしれない可能態としての過去をテコに現在の改変を志向するのがベンヤミンの「救済」だが、杉浦が『吉良供養』他の作品で行った「供養」は、虚構を手段とした事実への接近にとどまる。功利性あるいは現世利益的には「救済」が「供養」にまさるだろうが――

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永劫回帰と呼べるようなことが現実に起こるとすれば、それはブランキが立脚した物理法則によってではなく、後世の人為によってでしかない。何者かが過去に思いを馳せて敗者の悲哀や無念を共にし、彼らの復権を試みようとするなら、それが回帰となる。復権がかなうまで幾たびでも我々を呼び返してもらいたい。それが永劫回帰という願い。

敗者の復権を試みる行為をベンヤミンは「救済」と呼び(『歴史の概念について』)、杉浦日向子は「供養」と呼んだ(『吉良供養』)。

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モスクワ市内や赤の広場の光景をバックに、松山恵子「哀愁の駅」の設定を台湾に置き換えた歌が流れる不思議なビデオ
youtube.com/watch?v=MVcuvSpxF9

はじめに「蘇聯」の文字が出てきてソ連時代の映像かと思わせるが、そのうちロシアの三色旗とアメリカの星条旗が並んで出てきて、ならばソ連崩壊後のものか。映像の種類も、ドキュメンタリーなのかメイキングなのか――と、素性のわかりにくい映像だが、妙にに歌とマッチしている。

歌っているのは、1980-90年代の台湾歌謡界で代表的な存在だったらしい陳一郎。技巧に拠らない素直な唱法だが、声が悲哀の感情に触れてくる。

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戦前のものを含め日本の歌謡曲が台湾で歌い継がれていることは前に書いたが、「上海帰りのリル」も広くカバーされている。

陳一郎 - 上海歸來的莉露 (1989) - YouTube
youtube.com/watch?v=5mmh6Cip2y

陳一郎は80-90年代の台湾を代表するシンガーか。
そのほか「上海歸來的莉露」や「莉露」でYouTube を検索すると他の台湾歌手のカバーも拾える。楽器バージョンもあり。

関連記事
fedibird.com/@mataji/112090811

[参照]

「上海帰りのリル」は、アメリカのミュージカル映画『フットライト・パレード』の挿入歌「上海リル」にインスパイアされて作られた。
「上海リル」は日本語でも多くカバーされ、松尾和子、青江三奈、あがた森魚、他。初期の代表的カバーとしては川畑文子。また、舞台『上海バンスキング』で吉田日出子が歌ったという。

上海リル/SHANGHAI LIL - YouTube
youtube.com/watch?v=kIzpXZAfxP

上海リル - Wikipedia
ja.wikipedia.org/wiki/上海リル

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〽船を見つめていた、ハマのキャバレーにいた…、「上海帰りのリル」は1951年発売。歌手は「ビロードの歌声」と言われた津村謙。当時としては大ヒットの累計30万枚を1954年時点で記録した。1968年時点で累計52万枚。
発売翌年の1952年、これを主題歌として水島道太郎主演の映画『上海帰りのリル』が作られ、これもヒット。

上海帰りのリル - YouTube
youtube.com/watch?v=19n7uyalzm

上海帰りのリル - Wikipedia
ja.wikipedia.org/wiki/上海帰りのリル

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