佐藤信『ブランキ殺し上海の春(ブランキ版)』を再読。いちおう枠組みは把握できたとする。
登場人物は全員、19世紀のパリから20世紀の上海へ回帰してきた者たち――という理解でいいだろう。彼らのうちの一部はかつてのブランキ本人、一部は配下、その他周辺の者たち、ごく一部はブランキの敵対者。
最終章「終曲」の春日の台詞。
「いまこの瞬間、無数のぼくたちが、無数の橋の上で、無数の死体を前に途方にくれているんです。ぼくたちは間違っている。無数のぼくたちはみんな間違っています……」
ブランキがパリでやりそこなった革命は、ここ上海でも実らなかった。ぼくたちは間違っている……
宿題、なぜ上海か。
なぜ彼らは上海に回帰してきたか。言い換えれば、作者はなぜ上海を選んだか。
ブランキ版の最後の台詞も春日が言う、誰にともなく。
「ねえ、ここは上海ですか?」
この問の意味もわからない。
作者はドラマの場を上海に設定し、登場人物たちも上海租界を歩き回ったのだから、ここは上海のはずなのだが。あるいは、「いや、ここは東京」、そんな答えを期待してるのだろうか。
「ブランキ版」の次の章は「15 プレリュード」。なにゆえ今さらの前奏なのか。
硝子屋が「ムッシュウ・プランタン」と伯爵に呼びかける。
伯爵の返事は、「忘れたな、何もかも忘れちまった」
ブランキが率いた革命組織「四季協会」は4つの大隊から成り、プランタン=春はその一つ。硝子屋の呼びかけに伯爵は「忘れた」とは答えたが、自分が「プランタン」であることは否定しない。ここ上海で「伯爵」と呼ばれている人物は、かつてブランキの指揮下にいた「ムッシュウ・プランタン」、すなわち「春大隊」の長が回帰してきて、かりに伯爵と名乗っているのだろう。
とすれば、伯爵の前身を知る硝子屋も、かつてブランキの周辺にいた何者かであって、それがここ上海に回帰してきたに違いない。
なぜ、今さらのプレリュードか。この章あたりから登場人物たちの正体=前身が見えてくるからではないか。
窓が違う。こんなに大きくて、格子もはまっていない。老人=ブランキは、自身の今いる部屋がトーロー要塞の牢獄とは異なることに気づく。そのことの意味を老人も戯曲も言葉に出しては言わないが、この「異なる」ということこそが、ブランキが『天体による永遠』で唱えた永劫回帰の眼目。
永劫回帰は同じ出来事を繰り返すが、異なる様相でも出来事を繰り返す。永劫回帰は分岐する。様相は分岐のたびに変化をかさね、現に1881年に死んだブランキが半世紀を経てここ上海に回帰してきたのだし、さらに幾つもの分岐と変異を繰り返して、いつかどれかの地球上で私ブランキは革命を成し遂げるだろう。――それが彼の永劫回帰論の夢。
あるいは、これも明示はされてないが、繃帯も回帰してきたブランキの一人か。ここまでのところ、繃帯は道端で拾ったピストルで頭の周りの虻を追い払っただけだが。
小部屋。牢獄のような。
ト、寝台で繃帯と少女が裸で抱き合い、眠っている。春日の姿はない。
別のひとり……老人。鞄。燭台をもち部屋の中を興味ぶかそうに、仔細に観察している。
老人「何もかもそっくりだ。花崗岩の壁……不規則な凸凹だ。それぞれがそれぞれの形と色と持続……そして、生命をもった結晶をつくっている。ピラミッド形、円錐形、十二面体」
『ブランキ殺し上海の春(ブランキ版)』は全31章、上はその中盤「14 窓」冒頭のト書きと台詞。
老人はブランキ。部屋を見回して、自分がとじこめられていたトーロー要塞の牢獄を思い出し、酷似の様相を数え上げる。やがて鞄から天体望遠鏡を取り出し、組み立ててのぞきはじめるが、見えているのは部屋の壁だけらしい。
寝台から繃帯が起き上がり、服を着はじめる。老人は振り向くが、たがいに相手の存在を気にするふうではない。
少女が目をさます。繃帯はテーブル上のピストルを取り上げ、止める少女を押しのけて部屋を出ていく。
老人が望遠鏡から目を離してつぶやく。「そうか……窓が違う。こんなに大きくて、それに格子もはまっていない」
もう上海はない。上海という町は、今だってあるけれど、それはあの上海じゃない。今や、あの上海は、幻の町なのだ。消えてしまった町、消えてしまった青春。(……)今僕は、大川さんの青春の日々、好きなジャズに明け暮れ、キリッとしまった体のなじみの中国女性とかりそめの恋を楽しんだ天国のような上海の気分にしばらく酔っていたい。この七色の光のまばゆさは植民地特有の雰囲気なのだ。それは、異国で女性と知り合った時にも、幾分かは味わうことのできる切なさだ。楽しくて、素敵なのだけど、人はその時人生のはかなさを知る。
斎藤憐『昭和のバンスキングたち――ジャズ・港・放蕩』から。
大川さんとは、1938年から1941年まで上海のクラブ「ブルーバード」でバンマスをつとめたサックス・クラリネット奏者の大川幸一。斎藤憐『上海バンスキング』の登場人物・波多野四郎のモデル。
2023年は寺山修司没後40年とのことで、各方面でイベントあり
https://www.terayamaworld.com/foyer/
2023年、早稲田大学演劇博物館で特別展「演劇の確信犯 佐藤信」
https://enpaku.w.waseda.jp/ex/17861/
どちらも最近になって知った。
今になって上海を云々してるのは、歴史上の事実からは世紀遅れ。
上海を題材にした寺山修司、佐藤信、斎藤憐・串田和美らの戯曲・演劇活動からは半世紀遅れ。
彼らの活動を振り返るイベントからは1年遅れ。
まとめて言えば、いつも時代遅れ。
だが、近づいているとも言える。何に? 時代に?
たとえば、さっきまで俺がほっつき歩いてた、楊樹浦のユダヤ人街だ。白ペンキばかりがけばけばしいバラック建ての間から、ふいに、およそ辺りの様子とは不似合いな、甘ったるい花の香りが漂ってきたりする。つまり、この町の春にはそんなところがあるんだ。うっかりしていると、ぼんやり同じところに半日も佇んでいたりする、人のこころを空っぽにする何かが、春になるとこの町をすっぽり包みこむ。そんな町に、懐に入れたピストルのちょっと手ごたえのある重さ……俺は嫌いじゃない。
『ブランキ殺し上海の春(ブランキ版)』から、繃帯の台詞。繃帯は顔の半分を汚れた繃帯で巻いた男。道端で拾ったピストルで頭の上の虻を撃ったところ。
虻を撃ったのは、紙弾頭のおもちゃの弾丸だ。実弾は……またどこかで拾えるだろうか?
国民政府の No.2 であった汪兆銘は、蒋介石を裏切って日本の傀儡政権をつくり、南京・上海周辺だけを治めた人物――として知られる。彼の日本に対する考えは、「日本と長く激しい戦争を続けたら、その間に中国はソビエト化してしまう」というもので、歴史は彼の恐れたとおりに推移した。
のちに汪兆銘が漢奸(中国人の敵)として非難されたときの、汪兆銘夫人の反論。
「蒋介石は英米を選んだ。毛沢東はソ連を選んだ。汪兆銘は日本を選んだ。そこにどのような違いがあるのか」
以上、加藤陽子『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』による。
汪兆銘夫人の論は、「正しい者が勝つのではない。勝った者が正しいとされるのだ」と一般化できる。勝者はぜったいに口にしようとしない真理。
2023年5月、明治座で『御贔屓繫馬(ごひいきつなぎうま)』の上演あり。初演は1984年。鶴屋南北の2本の前太平記物を混ぜ合わせたものという。役名から見て、2本は『戻橋背御摂』と『四天王産湯玉川』か。
去年の公演で平良門の許嫁・桔梗の前をつとめた中村米吉のブログに記事あり。
http://ka6-yone-ryu.com/?p=6996
こちらはファンの感想。全体の様子がわかる。
http://mariru.cocolog-nifty.com/blog/2023/05/post-2db283.html
『上海バンスキング』は1979年、串田和美の演出で初演。現在までに数百回の公演実績。
また、1984年(深作欣二監督)、1988年(串田和美監督)に映画化。1988年版はYouTubeで公開されている。
上海バンスキング(自由劇場) - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=M-MnyhpeVbg
この版はオリジナルの戯曲をほぼ忠実に踏襲。一部カットされた場もあるが、原作のわかりにくい箇所を省いたふしもあり、むしろ舞台版を映画の形式で再現したものか。
……街中焼け跡だらけだもんねえ。(外を見て)あの連中が悪いのよ……あの連中が、涼しい風がふきぬける糸杉の散歩道や赤レンガの建物を瓦礫の山にしてしまったの。……半ズボンに長靴下をはいた金髪の青年たちは、テニスコートでラケットをふるい、絹のドレスのレディやマダムたちは、まるでそのうららかな午後が永遠に続くかのように、セイロンティーを飲みながら、とりとめもない時間に身をまかせ……。すごかったのよ、女子供は本土へ帰れって言われたけどね。フランス租界にいれば大丈夫だからって、……なにしろ、フランス租界をはさんで、こっち側が日本軍、向こう側が中国軍、頭ごしに大砲の撃ち合いやるんですもの……映画観てるみたいだったわ……
斎藤憐の戯曲『上海バンスキング』から、マドンナの台詞。
時と場は、1938年初春、虹口の中国式石造住居。
経緯の説明を欠く唐突な台詞だが、前年8月に勃発した第2次上海事変がおさまったこと、その間、彼女がフランス租界に戦火を避けていたことを言っている。
1938年は、ダンサーの山田妙子が大連から上海にやってきた年。
https://fedibird.com/@mataji/112108478372540787
また、東海林太郎の歌で「上海の街角で」が発売された年。
https://fedibird.com/@mataji/112090811684859829
「虹口」は「ホンキュウ」。ディック・ミネの歌った「夜霧のブルース」に「夢のスマロ(四馬路)かホンキュウ(虹口)の街か」とあり。
「夜霧のブルース」は映画『地獄の顔』の主題歌。次のビデオでは開始から3分で主題歌がはじまる。
https://www.youtube.com/watch?v=VFLTDphHeAU
プロダンサーの山田妙子は、駆け落ち先の大連で男にも仕事にも見切りをつけ、1938年初頭、上海に渡った。
虹の入り口というイメージの「虹口」は、期待はずれの街だった。「横浜橋」という小さな橋を渡りきると、目の前に掘っ立て小屋のような木造二階建てがあり、「Blue Bird」と看板がかかっていた。これが虹口で一番のダンスホールなのか。看板の文字が英語なのがせめてもの救いといったところだった。
古くから上海にいるダンサーが妙子に言ったこと。
あのね、「上海ってすごく素敵」とか言うけど、実際に素敵な租界で暮らした日本人なんて、ほんの僅か。
あたしも来る前はそう思ってたけど、じっさいは見ての通り、長崎からパスポートなしで来られるから、虹口なんて長崎の田舎みたいなもんよ。租界に行くには、とにかく西洋の言葉がひとつできないと。住むなんてとんでもない。
妙子の目に映った虹口は欧米人の闊歩する上海ではなかった。向上心の強い彼女は一流ナイトクラブでのソロダンサーを目指して、河向こう=租界の欧米人社会に挑んでいくことになる。
これも榎本泰子『上海』による。榎本のソースは山田妙子(和田妙子名義)自伝。
のちにエドガー・スノウと結婚することになるヘレン・フォスターは、1931年、23歳で、アメリカ総領事館の秘書として働くため上海にやってきた。故郷のアメリカではいっかいの女性にすぎない彼女だったが、上海に着いたとたん、ドルの威力によってマンダリン並みの特権階級に押し上げられる感を味わった。
スノウと最初に待ち合わせをしたのは、共同租界随一の繁華街である南京路の喫茶店「チョコレート・ショップ」。そこは清潔なアイスクリームの一匙一匙が郷愁をさそう最もアメリカ的な場所であり、外国人が安心して牛乳を飲める唯一の場所だった。
この店はアメリカ人の船員が1912年に開業し、オフィス勤めの外国人に人気だった。アメリカで少女時代を過ごした孫文夫人の宋慶齢もお気に入りだったという。
日本と中国が軍事衝突を繰り返した1930年代を通じ、日本と英・米の関係も悪化を続けた。
1940年、上海駐留イギリス軍が撤収を開始。
太平洋戦争勃発直前の1941年11月、上海駐留アメリカ軍も撤収。
ヘレン・フォスターも1940年12月、アメリカ人婦女子への退避勧告を受け、寒風に震えながら黄浦江を下っていった。
以上も榎本泰子『上海』による。
上海のイギリス租界は、中国でもなくイギリスでもなかった。
既存の国家に帰属しない、いわば「自由都市」。同所は1845年、自由貿易を行う商人の便宜のために設置された居留地であり、住民たちは国家の干渉を嫌った。
イギリス租界は1863年にアメリカ租界と合併して共同租界となり、さらに自由都市としての性格を強めた。
20世紀に入ると、上海は戦争や革命から逃れる難民の逃避先となった。第2次世界大戦中、ナチス・ドイツから逃れるユダヤ人が上海を目指したのも、世界で唯一、ビザ無しで受け入れられる地だったから。
参考: 榎本泰子『上海――多国籍都市の百年』
上海帰りのリル
https://www.youtube.com/watch?v=19n7uyalzmc
上海から帰ってきた。
それは一部の日本人の体験にすぎないが、体験はなくとも広く共有できた感覚ではないか、今が第2次大戦後10年20年ほどの間だとして。
1927年後半から文学者たちが上海にもどってくる。
蒋介石の4.12クーデター当時、広東の中山大学の教授をしていた魯迅は、同大を辞して10月はじめに上海についた。
郭沫若は8月の南昌蜂起に加わったのち、江西・福建一帯で転戦、敗れて山中をさまよったのち、福建省の漁港から香港に逃れ、10月下旬、香港から上海に来た。彼には2万元の懸賞がかけられていた。
武漢の茅盾も8月下旬、上海にもどった。船で上海に着くのは危険と判断して鎮江で列車に乗り換えたが、かえって怪しまれ、危うく逃れて上海入りした。
彼らが上海に集まったのは、文学活動に適していたから。国民党の治下より、いちおう西欧型デモクラシーをうたう租界のほうが安全だった。
――丸山昇『上海物語――国際都市上海と日中文化人』による
先の記事の続き。1938年(昭和13年)に東海林太郎の歌で発売された「上海の街角で」は、21世紀の今も「深情難捨」または「深情難忘」として歌い継がれている。ただし、日本でも上海でもなく、台湾で。
https://www.youtube.com/watch?v=MYaPRG_PZnY&t=6s
数年前になるが、アメリカで日本の80年代シティポップがはやっていると聞いたことがある。一般化して言えば、世界のあちこちのカルチャーの場には、時間を滞留させる遊水地か溜め池のようなものがあり、よそでは消えたトレンドがそこでは長くとどまっている――というのがあるのではないか。たとえば、シルクロードの彼方からやってきた文物が、日本で正倉院に残されていたり、雅楽として引き継がれているように。
YouTube で台湾版の日本歌謡をあさるのは心地よい。ド演歌に収斂してしまう前の昭和歌謡が、台湾の遊水地で保存されている。
ブランキ『天体による永遠』のエピローグ
《私は決して自分自身の楽しみを求めたのではなかった。私は真理を求めたのだ。ここにあるのは啓示でも予言でもない。単にスペクトル分析とラプラスの宇宙生成論から演繹された結論にすぎない。上記二つの発見が我々を永遠にしたのである。それは思わぬ授かり物だろうか? それなら、それを利用しようではないか。それはまやかしだろうか? それならあきらめるほかはない。》――浜本正文訳『天体による永遠』
それは授かり物か?
ブランキはこの書を、幽閉されたトーロー要塞の一室で綴った。
すでに老齢の60代半ば、イギリス海峡に望む岩礁に築かれた古い要塞で人生を終えることも覚悟しただろうブランキにとって、この書を仕上げたことは「思わぬ授かり物」であった。
ならば、それを利用しようではないか。ここに示したものは啓示でも予言でもない、私はついに真理を究めたのである。すなわちこれを我が思想の到達点とし、遺著としよう。ただし、現実のブランキはさらに10年ほど生き延びた。
それはまやかしか?
永遠は妄想の産物。ならば、あきらめるしかない。