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諸羽社の境内で二人の男――瀧夜叉と源家の家臣――が争っている。
源家が神前に納めておいた宝剣・蜘蛛切丸を瀧夜叉が盗み出し、それを家臣が奪い返そうとしていることが、二人の台詞でわかる。瀧夜叉は当て身をくらわして花道を逃げ、家臣も息を吹き返してあとを追う。

端役以外のほとんど全員が正体を偽っている『戻橋背御摂』の、これが幕開け。
この冒頭ですでに偽りが仕込まれていて、まず、この蜘蛛切丸は本物ではない。本物は神殿の奥深くに隠されていて無事。
また瀧夜叉は、盗賊・袴垂保輔の手下を自称するが、じつは源家側の一員。

この場における宝剣の争奪自体が、源家が仕組んだ疑似イベント。
ある事情で、源家は蜘蛛切丸を髭黒ノ左大将道包に差し出さなければならないが、本物は渡したくない。このイベントは偽物を本物に見せかけるための工作で、ほどなく別の源家の家臣が瀧夜叉を捕らえ、(偽の)宝剣とともに戻ってきて、これを本物であるかのように人びとの前で披露することになる。

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鶴屋南北の『戻橋背御摂』は、文化10年(1813)に初演された顔見世狂言。
ジャンルは通俗史書の『前太平記』から材料をとった前太平記物。
このジャンルの基本型は平将門残党と源頼光ひきいる源氏方の戦いだが、この芝居の前半では、これに加えて帝位を僭称する髭黒左大将の一派、さらに盗賊として資金を稼いで天下を握ろうとする袴垂一味の四勢力が入り乱れて争う。
arc.ritsumei.ac.jp/artwiki/ind

この戯曲の「じつは」な人物設定を、前半の実質的大詰め「一番目六建目 摂津介頼光館の場」で見てきたが、同様の設定はじつはこの戯曲全体を通じてのもの。いちおうの台詞と見せ場を与えられているような人物は、ほぼ全員が身分・身元を偽っている。

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訂正
[誤] 原稿台本
[正] 現行台本

現在おもに利用されている台本は、「音菊天竺徳兵衛(おとにきくてんじくとくべえ)」の外題でも上演される『名作歌舞伎全集』第九巻所収版という。上の人間関係もこれに拠った。

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じつにじつはな『戻橋背御摂』の人物たち

上使A、じつは市原野の乞食頭・つづれの次郎で、これより先に煙草売りのふりをして館に入り込んでいた女乞食の仲間だが、それも仮の姿でじつは盗賊の首魁・袴垂保輔。
上使B、じつは平将門の遺児・将軍太郎良門。
頼光の北の方・園生の前、じつは用心のため頼光側が立てた代役で、武家のむすめ三崎。
頼光の弟・美女丸、じつは頼光家臣のむすめ小式部。
まとめて言えば、この頼光館の場で相愛関係を結んだ全員が偽物。

上手の部屋でできてしまった袴垂と三崎は、じつはいいなずけ同士であったことが判明して婚礼の式がはじまるが、そこにかつて袴垂と情をかわしたことのある田舎娘・お岩が乱入して、
「ほんにマア、なんの因果で都へのぼり、つらい憂き目に逢うぞいな。やっぱり在所で麦畑の霜ふみつけがましじゃもの。情けない身になったわいナア」
と嘆くが、このお岩がじつは平将門のむすめ七綾姫で、将軍太郎良門の異母姉。

二人の上使に先立って頼光館を訪れ、やはり難題を持ちかけていた尊国君が頼光の子を刺し殺すが、じつは殺されたのは七綾姫と袴垂の子。
その尊国君、皇位簒奪の一派に与すと見せかけて、じつは源氏の武士・秦の次郎正文。

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二人の上使の真偽がつかないまま場面が変わって、接待の場になる。上使たちはそれぞれの好みでくつろいでいる。
上手の部屋では最初の上使Aが、長裃のまま鉢巻をしてあぐらをかき、茶碗酒を飲みながら、火鉢にかけた小鍋で料理をしている。

下手の部屋ではあとから来た上使Bが、やはり長裃のまま花盆に山茶花を生けている。上使Bの部屋に腰元たちが世話をしにやってくると、Bは「女は嫌いだ、近寄るな」といって追い払う。
かわりに頼光の弟美女丸があらわれると、上使Bはごきげんになって美女丸に寄り添う。Bが美女丸のふところに手を入れると乳房が触れて、じつは美女丸は女とわかる。「女でもいいか」とBの気持がかわって、二人はその場でできてしまう。

上使Aの部屋では園生の前がみずから相手をする。酒を飲むうちに、園生の前は窮屈だといって緋の袴を脱ぎ、上使Aも裃を脱ぎ捨てて、この部屋でも二人はできてしまう。

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鶴屋南北の戯曲の一場面。

都の守護をになう源頼光の館に上使がやってくる。
頼光は病気で臥せっているため、かわりに奥方の園生の前が応対する。
上使は三田源太広綱と名乗り、頼光が所持する名剣「蜘蛛切り」と「鬼切り」の二刀を差し出すよう求める。刀は何者かに盗まれて館にはないのだが、園生の前は「後刻さしあげまする」とこたえて引き伸ばしをはかる。
あれこれあるうちに別の上使がやってきて、はじめの上使と同じ三田源太広綱を名乗り、同じ二振りの刀を求める。

二人の上使が同じ用件でやってくる。
同様の場面は、このところ見てきた『天竺徳兵衛韓噺』にもあり、そこでは二人のうち一人は徳兵衛の扮する偽物だったが、これから見る『戻橋背御摂』では、二人の三田源太広綱はどちらも偽物。

『戻橋背御摂(もどりばしせなにごひいき)』の粗筋が立命館大学のサイトにある。このうち問題の場面は「一番目六建目 摂津介頼光館の場」。
arc.ritsumei.ac.jp/artwiki/ind

天竺徳兵衛が父親から受け継いだ日本への敵意は、当時の国際情勢に対する南北の認識にもとづくとするより、芸能その他の表現活動を抑圧する政府・警察への南北自身の叛心に裏打ちされたものと見たい。

《歌舞伎の歴史をながめるとき、私はいつも奇異の感にうたれます。
 出雲の阿国が京都の四条河原で歌舞伎躍(かぶきおどり)の興行に成功したのは、慶長八年(一六〇三)のことで、これが歌舞伎のはじまりとされていますが、その同じ年の二月に、徳川家康は征夷大将軍になり、江戸幕府の基を開いているのです。
 歌舞伎と徳川幕府、言い換えれば民族演劇と封建政治権力との、二つの相いれない宿敵同士が、同じ年にその出発点を持ったということは、歌舞伎の運命を象徴する出来事であるかのように私には思えてくるのです。》――武智鉄二「〈かぶき〉はどんな演劇か」

この「相いれない宿敵同士」の抗争を南北は引き継いだ。四条河原の歌舞伎躍から200年。

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七草四郎から、天竺徳兵衛、自来也へ

《蝦蟇仙人を日本の文芸に取り込んだもっとも早い例は、享保4年(1719年)に初演された近松門左衛門作の浄瑠璃『傾城島原蛙合戦』である。この作品は島原の乱を題材にした「天草軍記もの」に連なる作品で、天草四郎を下敷きにした「七草四郎」というキャラクターが初めて登場した。七草四郎は蝦蟇の妖術を用いて反乱を試みる。歌舞伎における「天竺徳兵衛」の、「蝦蟇の妖術」「異国」「謀反人」の要素の組み合わせは、七草四郎から受け継がれたものである。
(……)『天竺徳兵衛韓噺』で「天竺徳兵衛」の物語が一つの確立を見たあと、「蝦蟇の妖術使い」の物語は「自来也(児雷也)もの」に継承されていくことになる。「自来也」の初出は文化3年(1806年)刊行の感和亭鬼武の『自来也説話』で、この作品の自来也は義賊であった。》――「天竺徳兵衛 - Wikipedia」
ja.wikipedia.org/wiki/天竺徳兵衛#ci

最近の『天竺徳兵衛韓噺』の上演は、昨年10月、歌舞伎座で。
以下はその劇評から引用。この説には同意できないが、いろいろ考えさせられて興味深い。

《この芝居は朝鮮、キリスト教国と日本の国際的な政治闘争と、その中での国際結婚が問題なのである。この芝居の初演の時には、あまり早替わりやけれんの仕掛けが鮮やかなためにキリシタンバテレンの魔法が使われているという評判が立って町奉行所が手入れをしたという。今まで私は、これが南北や劇場側の宣伝だったとする通説を信じて来た。しかし今日この芝居を見ていて私は、南北は案外本気で朝鮮やキリスト教国の脅威を感じていたのではないだろうかと思った。少なくとも国際間の国民感情の齟齬を指摘したかったのではないか。》――「2023年10月歌舞伎座 - 渡辺保の歌舞伎劇評」
watanabetamotsu.com/2023年10月歌舞

父親の宗観が徳兵衛に伝えた巨大ガマを出現させる呪文

  南無さったるまグンダリギャ
  守護聖天、守護聖天
  はらいそ、はらいそ

キリシタンのオラショ(祈祷文)めかして適当に作ったものだろう。
このような劇中でのキリシタン臭に加え、南北は宣伝でも同様の空気を匂わせ、早替りの場面でキリシタンの妖術が使われているとの風聞を流したとのこと。そのため奉行所の役人が検分に来るなどして、さらに評判が拡大したと伝えられている。

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『天竺徳兵衛韓噺』の時代設定が足利義満の頃だったり義政だったりするので、朝鮮のための復讐というのがわかりにくいが、実際は豊臣秀吉の朝鮮侵攻を示唆しており、秀吉に荒らされた恨みいうことになる。
親の宗観の素性を、「もと朝鮮王の臣」のかわりに「大明国の遺臣」とする版もあるが、明も朝鮮を支援して秀吉の派遣した日本軍と戦っているから、宗観の日本に対する敵意の根拠としてはどちらでも同じ。

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『天竺徳兵衛韓噺(てんじくとくべえいこくばなし)』は四世鶴屋南北の出世作と言われるもの。遅咲きの南北は当時50歳。
ja.wikipedia.org/wiki/天竺徳兵衛#ci

播州高砂の船頭・徳兵衛は風に吹き流されたあげく唐・天竺まで経巡って5年ぶりに帰国するが、故郷を前にした九州で事情聴取のため佐々木家の家老・吉岡宗観の屋敷に留め置かれる。
宗観の顔を見た徳兵衛が、「死相がある、今日中にあなたは剣難で死ぬ」と指摘する。
その日のうちの死を覚悟していた宗観は、予言の内容には驚かないが、徳兵衛がその予言をしたことに驚く。というのは、宗観には3歳のおりに手放した子があり、その子が成人して困らないよう、観相術を学ぶ機会を講じておいたからである。
やがて父子であることを確認した徳兵衛に対し、宗観はさらに驚くべきことを打ち明ける。
じつは自分は日本人ではない。もと朝鮮国王の臣であり、国の仇に復讐するするため日本に渡ってきた。お前も我が志をついで日本を滅ぼせ。そのように言って、宗観は徳兵衛にガマの妖術を授ける。

『天竺徳兵衛韓噺』には多くの異版があり、人名、地名、ストーリーに出入りがあるが、原稿台本で軸となるのは上のような人間関係。

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自来也という名は中国の我来也(がらいや)に由来する、と岡本綺堂のエッセイ「自来也の話」にある。いったんは本人として捉えられた我来也が、名奉行とされた人物を策略にかけ、こそ泥として杖罪で解き放たれる話。

「自来也の話」は青空文庫で読める。
aozora.gr.jp/cards/000082/file

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《日本の物語作品に自来也が初めて登場するのは、感和亭鬼武(かんわてい おにたけ)による読本『自来也説話』(文化3年<1806年>刊)である。自来也は義賊で、その正体は三好家の浪士・尾形周馬寛行(おがた しゅうま ひろゆき)。蝦蟇の妖術を使って活躍する。
「自来也」は、宋代の中国に実在し、盗みに入った家の壁に「我、来たるなり」と書き記したという盗賊「我来也」(沈俶『諧史』所載)を元にしたとされる。自来也の物語は歌舞伎や浄瑠璃に翻案された。》
ja.wikipedia.org/wiki/自来也

『忍夜恋曲者(しのびよるこいはくせもの)』で古御所の屋根に現れた滝夜叉姫はガマを従えている。ガマは火を吐く。

『天竺徳兵衛韓噺(てんじくとくべえいこくばなし)』の徳兵衛も崩壊した建物の屋根に現れて、こちらはガマに乗っている。ガマが火を吐くのは同じ。
bunka.go.jp/prmagazine/rensai/

どちらの演目も屋体崩しにガマが伴う。特別なわけでもあるのか。

自来也とのかかわりは?

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《世界に先駆けて発明された廻り舞台をはじめ、『楼門五三桐』の山門の迫り上げや『青砥稿花紅彩画』の大屋根の‹ガンドウ返し›、『忍夜恋曲者』の屋体崩しなどのように、巨大な大道具が俳優の演技と一体となって動き出す面白さは、大道具の大きな魅力である。もちろん、現代の歌舞伎は、近代化の苦闘を通じて作品のテーマや全体の統一性の大切さを知っている。それでもなお大道具大仕掛けや華麗な衣裳の誇示、宙乗りなどを温存してきたのは、これが歌舞伎の本質的魅力であり、かつ作品のテーマやモチーフにふさわしい使い方を選んでいるからである。『楼門五三桐』で五右衛門が迫り上がるのは天下を覆さんとする叛逆のヒーローの巨大な図像化であり、『忍夜恋曲者』の屋体崩しは叛逆の夢が挫折する表徴である、というように。》――日本俳優協会『歌舞伎の舞台技術と技術者たち』

屋体崩し、または屋台崩し。

歌舞伎用語。劇の山場で、建物を崩壊させるスペクタクル。
崩れ落ちた屋根の上に主要人物が現れ、見えを決める。
たとえば舞踊劇「将門――忍夜恋曲者」の場合、主要人物は平将門の遺児・滝夜叉姫と将門の残党狩りに都から下ってきた大宅太郎光圀。クライマックスで将門の古御所が崩壊する。

参考:
www2.ntj.jac.go.jp/dglib/modul

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寺山修司の戯曲『壁抜け男――レミング』の最終場面「死都」のト書き。

《車椅子の妹が、髪を逆立てて立ちあがり、「風だあ!」と叫ぶと、つむじ風がまき起こり、壁という壁が吹きとばされ、ビラがとび、夢は破片となって飛び散る。品川区五反田にある安下宿「幸荘」を仕切っていた壁だけではない。品川屠殺場のコンクリートの壁も、区役所の塀も――ありとあらゆる立体はかき消えるように失くなり、あとに残されるのは一望の荒野だけとなる。》

歌舞伎で言う屋体崩し(屋台崩し)。劇の山場で、大きな屋敷などを崩壊させるスペクタクル。

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深みにはまらないうちに、どう寺山を切り上げるか。
少なくとも『壁抜け男――レミング』を自分なりに理解してからと思っていたが――

《ラストシーンで、すべての硝子は割れ、書店中の書物は散乱し、スピノザの世界は崩壊している。一枚の鏡の破片にうつる、顔はスピノザだが、そのうしろ姿は別人のように見える。がっしりと肩幅のひろい中年男は、もはや、スピノザではない。
群衆の中へ、逃げこんでゆく、「顔がスピノザで、体が他人」の父親を、カメラは追いかける。
スピノザは、人ごみの中に、見え、かくれ、そしてとうとういなくなる。》――寺山修司「唯一の書物」(『夜想』16)

シナリオを手がかりに読み解いた映画『レゾートル――はみだした男』の評だが、『壁抜け男――レミング』の最後を思わせるものがある。寺山版『壁抜け男』の全体は消化できなくても、その末尾から抜け出せばいいのでは。

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