天竺徳兵衛が父親から受け継いだ日本への敵意は、当時の国際情勢に対する南北の認識にもとづくとするより、芸能その他の表現活動を抑圧する政府・警察への南北自身の叛心に裏打ちされたものと見たい。
《歌舞伎の歴史をながめるとき、私はいつも奇異の感にうたれます。
出雲の阿国が京都の四条河原で歌舞伎躍(かぶきおどり)の興行に成功したのは、慶長八年(一六〇三)のことで、これが歌舞伎のはじまりとされていますが、その同じ年の二月に、徳川家康は征夷大将軍になり、江戸幕府の基を開いているのです。
歌舞伎と徳川幕府、言い換えれば民族演劇と封建政治権力との、二つの相いれない宿敵同士が、同じ年にその出発点を持ったということは、歌舞伎の運命を象徴する出来事であるかのように私には思えてくるのです。》――武智鉄二「〈かぶき〉はどんな演劇か」
この「相いれない宿敵同士」の抗争を南北は引き継いだ。四条河原の歌舞伎躍から200年。