この個体性意識は、自己を物語り、アイデンティティ化するために、外在的な視空間認識を与える。自己を客観視することがそれには必須の要件だから。自分を1つの個体として外側から観察し、理解し、まとめあげるような意識。小説やドラマではそれを作者の視点=神の視点と呼ぶ。

この外在視点こそが3人称的な視点を発生させる。

つまり、3人称視点こそが人間という、1つの物語性を持った、自己同一化したアイデンティティ性を与えると。この自己同一性・物語的自己というのは、他の個体との差異によって意味づけされるものなので、この3人称視点には自己も他者もみな「人間」という個体物として存在可能になる。

この個体という原型的な人間イメージが、意識の流動性・重畳性により、下位に降ろされ、乙女座(6)の客体として出現する空間に流れる。人間という姿かたちをしたモノ、話し・聞き・触り・見ることができるモノ、わたしが「あなた(他者)」として認識することができるモノ。

そういう客体物として。

※以前少しふれた映画「最後の決闘」をもとに、これを図にすると以下のようになる。

主体としてのわたしが(この場合はジャン・ド・カルージュ)、他の客体との接触によって、様々な思考・感情を得て、それをもとに個体(ジャン・ド・カルージュの物語性)としての自己同一性を形成する。

だが、このよく見る1人称視点(主観ショット)には大きな誤解があって、そこに映る他者像(人間の姿)を当たり前のように捉えているが、この元となる原型イメージはまた別の次元で発生していると思われること。

知覚正面としての客体空間(乙女座:6)とは、「そこに客体として、モノとして、認識可能物として顕現させる」ということであって、その本体(原型)は様々なレベルで別々に発生しているのだと思われる。

人間という原型イメージは、獅子座(5)乙女座(6)を統合した天秤座(7)蠍座(8)レベルで発生していると思われ、それは天秤座(7)が獅子座(5)と乙女座(6)と統合した意識として存在するから。

それは図で表すと以下のようになる。

認識する主体と認識される客体を1つのものとして統合して捉える意識。そのとき生まれるのは「主体が客体との相互作用によって生み出す、思考・感情の認識によって得た感覚を、まとまりのある個体としてアイデンティティ化する意識。自己同一性とも言える意識。

ある一定のまとまりのある存在として、そこに物語性を与える意識。

私たちが「人間」と呼ぶものは、皆そういった自分だけのアイデンティティ=物語性を持った存在といえる。

【人間という原型イメージ】

今まで考察してきたことを視野空間認識からまとめてみる。

私たちが普段意識している(知覚している)視野空間は、POV的な1人称視点だ。エルンスト・マッハの自画像に表されるような、自分の姿は見えず、目の前に映るモノの景色(客体が集まった世界)を見ている=認識している世界。

わたしはこう思った
わたしはこう感じた
わたしはこう考えた

そういった主体としての主観認識(獅子座:5)は、この1人称視点のあり方と深く関わっている。そこには主体としての認識する意識(獅子座:5)と客体としての認識される意識(乙女座:6)が存在している。

私たちはこれらを別のものとして理解することによって、主体(わたし)と客体(モノ)を別々に捉えることができている。

自己(自)=獅子座・太陽というのは、「”絶対的な今”という瞬間において、この場所において、意識の焦点をあわせている場」という意味であり、それ以外の焦点(場)はすべて「別の主体」あるいは「別の個体」といった存在になるのではないか。

一人称視点(POV)というのは、この”絶対的な今ここ・今この瞬間”を表す視野認識のことだと。3人称視点(客観視点)というのは、この”絶対的な今ここ・この瞬間”から離れ、すべての今ここを1つにまとめて捉える意識のことだと。

それは自分の内部でも存在していて(ホロニック構造)、分かりやすい例では年代別の自己プロフィール画像を見るといい。個体としての姿形は皆違っている(個体性)。10代の自分、20代の自分、30代の自分、40代の自分、50代の自分、60代の自分。どの自分も、その時々で生きていた自分の主観世界(一人称視点=POV世界)があって、それらは皆違っているのにも関わらず、すべてまとめて「わたし(の物語=人生)」だと認識している。この全体認識が3人称的な客観視点といえる。

どこに焦点を合わせるかで「自(自己)」は代わり、その自は他の個体(別の年代のわたし=他)との差異によって意味付けが行われる。

piximus.net/celebrities/age-ca

[意識の双対性 -例①-]

この意識の双対性を、獅子座(5)乙女座(6)レベルでまとめてみよう。

獅子座(5)は認識する主体としての自己意識を与える。わたしが想っている・私が考えている・私が感じている―主体としての「(認識している)自己感覚」。視野空間としては、それはPOV的な一人称視点になる。この一人称視点には自分は映らない。なぜなら客体としての姿がなくても認識は可能だから。むしろ、客体としての姿は別の意識作用を与えるものとして、次の乙女座(6)で生まれる。

意識が乙女座(6)の段階に達すると、客体としての身体を持った自己身体感覚が生まれる。それは認識される客体としての自己感覚。手があり、目があり、足があり、歩くことができ、話すことができ、触ることができるわたし。

この客体感覚には「意識の双対性構造」によって、他者側の認識する主体意識―他者側の獅子座(*5)―が重なっている。

自己側     他者側
乙女座(6)  獅子座(*5)

[意識の双対性]

この1~12までの意識構造は、自己と他者の2つが双対的につながりあって構成されている。ホロスコープ図で示されているのはあくまで自分(自己側)だけのものにすぎないということ。本当は1~12までのホロスコープが2つ重なって存在している(しかも反対向きに)。

それを表したのが以下の図。

自己側の構造が1→12へと上向きに構成されているのに対し、それにつながる他者側の構造が12→1へと下向きに構成されている(※正確には少し違うが)。

これはDNAの2重らせん構造に似ていて、2本のポリヌクレオチド鎖が逆平行につながってDNA構造を形成しているように、2つのホロスコープ構造(自己側と他者側)が反対向きにつながって構成されているということ。

●DNAの基本構造 〜二重らせん〜
nsgene-lab.jp/dna_structure/do

この自他双対のホロスコープ構造を、先の「負荷→反映→等化→中和のシステム」に重ねると、まるで2つの鎖が90度回転しながら上昇しているように見える。

おそらく、私たちが持つ遺伝子情報のシステムはこういう意識の本質的な構造性が反映されているものだと思われる。

そして、この意識構造は90度の回転的な動きを持ちながら、より上位の意識へ成長していく。それを表すと以下のようになる。スピリチュアルでよく言われる「意識のらせん上昇」はここからきている。

【ホロスコープ構造論の基礎】

いままで何度か書いているが、ヌーソロジーを参考にして考えた「ホロスコープの基本構造」は以下の3つ。

① 負荷→反映→等化→中和のシステム
② 意識の流動性・重畳性
③ 意識の双対性

今回は①と③を取り上げる。

[負荷→反映→等化→中和のシステム]

意識は最初の1となる動きに対して、その反映となる2の意識が生まれる。そして、次にその1と2を対称的に見つめ、統合する3の意識が生まれる。これは1と2を「前後」に例えれば、「横(90度)」から眺める客観的なものになる。そして、その3の意識に対して、これまたその反映となる4の意識が生まれる。

そして、3と4を前後と例えるなら、それを横(90度)から眺め、統合する5の意識が生まれる。その5の意識はまた反映となる6の意識を生み…と、この前後左右の意識運動が連綿とつづくことになる。

占星学において、

牡羊座(1)と牡牛座(2)
双子座(3)と蟹座(4)
獅子座(5)と乙女座(6)
天秤座(7)と蠍座(8)
射手座(9)と山羊座(10)
水瓶座(11)と魚座(12)

がお互い相容れないものを持ちながら、でも、お互い無視できない深いつながり(関係性)を持つのはここから来ている。

【認識される客体意識(6) -メモ-】

獅子座(5)を認識する主体意識、乙女座(6)を認識される客体意識―としてまとめてきたが、その具体的な内容を「視覚(見る・見られる)」に制限して考えてしまっていた。構造的に考えれば、獅子座(5)は下位の牡羊座(1)~蟹座(4)まですべてを含むものだから、認識する対象は当然「行動・感覚・思考・感情」すべてを含むはずだ。

つまり、獅子座(5)の反映としての乙女座(6)が表す客体とは、動くもの(行動)・感じ捉えるもの(感覚)・言葉(思考)・感じるもの(感情)―すべてが含まれるはず。それは相手の言動・態度振る舞い・醸し出す雰囲気・そばにいて感じる情緒など。

視野空間としてのPOV視点(視覚)ばかり考えていたから、この点がすっぽり抜け落ちていた。

そう考えると、乙女座(6)の「認識される客体世界」というのが、モノとしての対象物だけでなく、人の「態度・行動・振る舞い・雰囲気」など、すべての感覚で捉えられる情報を含む世界だと理解できる。

※五感だけでなく、直感・心の動きなど第六感的なものまでも含む

マンガ「こちら、あたためますか?」を参考にこのことを考えてみる。この作品は1つの出来事(コンビニでのふれあい)を、男性側の視点と女性側の視点の両方から描いている。

コンビニで店員さん(男性)とお客さん(女性)がふれあった―その1つの出来事の中に、実は2つの世界が存在していると。獅子座(5)としての主体認識(自分の考え・想い)を意識しながら読むと、その内容はそれぞれ「男性の心の声(一人語り)」&「女性の心の声(一人語り)」として表現されている部分にあたる。

●男性側の世界(心の声=一人語り)
「単調な生活。刺激もなく、心ときめくようなこともなく、つまらない俺の毎日。これが俺の人生なのかな…。いや、何か良いことがあってもいいじゃないか。希望を持てるような何かがあったって…」

manga.line.me/book/viewer?id=B

●女性側の世界(心の声=一人語り)
「女だからってナメないでよ。一生懸命頑張ってるのよ。憐れみなんてやめてよ…。心が荒んでいく自分さえも嫌いになっちゃいそう。ふぅ…。いや、頑張れ私。前向きに生きよう!」

manga.line.me/book/viewer?id=B

【認識する主体(獅子座:5)と一人称語り】

私たちが普段見ている世界はPOV的な一人称視点の世界だ―このことをもう少し詳しく説明してみたい。POV的な視野空間を目にした時、その目の前に広がる世界だけを思ってしまうかもしれない。しかし、実際にはここには2つの世界(意識)が存在している。

・客体として目の前に広がる世界(乙女座:6)
※テレビ・映画・PC画面のようなスクリーンみたいなもの

・主体としてそれを思考・感情として認識している意識(獅子座:5)

客体世界(意識)はモノとして現れるので捉えやすいが、主体世界(意識)は自分の思考・感情として現れるので目には見えない。目には見えないが、自分が考える内容・感じる内容として実感される。この実感のことを自己認識と呼んでいる。

この主体認識は、小説の技法としては「一人称語り(心の声)」として表現される。「わたしは~と思っている」、「わたしは~と考えた」など。

つまり、獅子座(5)乙女座(6)のレベルにおいては、目の前に現れる客体世界と、それを自分がどう感じたか、どう考えたかという主観世界の2つだけがある。それを視野空間として表されたのが一人称的なPOV視点だということ。

●娘の一人称視点
drive.google.com/file/d/1FPRw5

目の前に映るのは(客体としての)父親の姿なのに、そこから感じれるのは娘の様々な想いだということ。

自分自身の姿は見えなくても(存在しなくても)、自分自身が感じている想い・考えはしっかりそこに存在している。自己意識として現れる主体認識(獅子座:5)はそういう姿なきものだということ。

獅子座(5)乙女座(6)レベルにおいては、自己と他者は別領域に独立して存在している。だから、お互い相手の主観世界(そこで相手が感じている想い・考え)が理解できず、誤解する。

天秤座(7)蠍座(8)レベルに移ると、この自己と他者の別領域を統合しようという意識が生まれてくる。ここではまず、自己側と他者側の客体世界(乙女座としての認識される客体)が統合されるとどうなるか?について考えてみる。

【他者との真なる対話とその結果】

アニメ「ヴァイオレット・エヴァーガーデン」を見た。まだ途中までだが、とても素晴らしい作品だと思った。

このアニメは、幼い頃から戦場に置かれ、感情を育むことを忘れた少女がそれを取り戻すまでの物語―といったものだろう。ただ、その描き方が「他者との真なる対話を通して」としているところが素晴らしい。ドールという仕事を通して、相手の本当の気持ちを理解しようとする。しかもそれだけではなく、ヴァイオレット自身の本当の気持ちをも相手に伝える。

・ 自己から他者へ
・ 他者から自己へ

真なる対話とは、それぞれの「本当の自分」を嘘偽りなく、正直に、真摯に、相手に伝えること。そして、お互いを受け入れあうこと。

そこにはひねくれもなく、天邪鬼もなく、ただただ素直にすべてを裸にして、お互いをさらけ出しあう。受け入れあう。

そういう真なる対話(他者と真摯に向き合うこと)をするとどうなるか―?このアニメはその結果を上手に描いている。

「自我の変容(ポジティブな変容)」という形で。

【映画:母性 -記憶の改ざんと主観世界-】

戸田恵梨香さん主演の映画「母性」を見た。この映画は「母と娘の主観世界の違い」を描いていると知って、ブログ記事に良いと思って鑑賞したのだが、ちょっと内容が重すぎて(見ていてあまり面白くない)取り上げづらいと思った。

なので、ここでのつぶやきでいいだろうと。以下思ったことを書き出してみる。

① 母の主観世界と娘の主観世界の違い

これは羅生門効果を使ってうまく表現していた。

・母が弁当箱を落とすシーン
・娘がひざまずいて「ごめんなさい」と謝る際に、抱きしめた(or 抱きしめなかった)シーン

母と娘でまったく異なるシーンとして描かれている。

客観的事実がどうだったかは別にして、これは母と娘それぞれの主観世界(記憶)を描いているのであり、母は「ショックを受けて弁当箱を落としてしまった」との印象を持ち、娘は「自分に対する怒りでわざと弁当箱を落とした」との印象を持ったということ。

最後の謝るシーンにしても、母は「愛しさから娘を強く抱きしめた」との印象を持ち、娘は「愛おしさはあっても私を抱きしめるのは躊躇した」との印象を持ったということ。

これは母と娘それぞれが持つ主観世界によって「意味づけられた記憶」であり、それぞれの価値観が反映されたものにすぎない。

【訂正画像】

※ まだこの画像も正確ではないと思われる。

そういう全体性(関連性)を作り上げるには、自分を客観的に捉え、これまで経験してきた出来事の1つ1つを、そこで味わってきた想いの1つ1つを、外在的な視点でまとめあげる(意味づける)ことが必要。

そういう意識作用のことを象徴的イメージで表したのが、あのキョンや岡部の外在的視点。そして、この外在視点は「自己を物語る意識」として作用する。自分自身のことを語るとは、それまでの出来事すべてを関連づけ、意味付けを与え、1つの構成物(作品)としてまとめること。この語りの作用がなかったら、自分が体験してきた出来事はすべてバラバラの脈絡のない断片物にすぎない。

この語り=ナラティブは、個体にとってはアイデンティティ化を促進する意識であると同時に、語られたもの(あるいは語りを聞くもの)という反映意識を作り出す。

これは自分が心の中で語ることを想像してみると分かると思うが、内言(外言でもいい)で、自分自身のことを語ろうとした瞬間、その語り(内言)を自分の耳で聞いていることに気づくはずだ。

・語り=語られたもの
・語ること(語り手)=聞くこと(聞き手)

●臨床心理学におけるナラティヴ分析
repository.dl.itc.u-tokyo.ac.j

このイメージは例えば、アニメ「涼宮ハルヒの消失」でのキョンがタイムリープをして過去の自分を見つめるシーン、あるいはアニメ「シュタインズ・ゲート」最終話で、岡部がクリスを救い出したあとに過去の自分を見つめるシーンにあたる。

キョンが過去の自分を客観的に(客体として)眺めているシーンにしても、岡部倫太郎が過去の自分を客観的に(客体として)眺めているシーンにしても、こんなことは実際にはありえない。つまりこれはあくまで象徴(イメージ)としてのものであり、この外在的な視点にこそ(それが表す意識にこそ)重要なポイントがある。

この意識とは何なのか?
自己を外部的な客観視点で捉えようとする意識とは何なのか?

それがその主体(キョンや岡部)をより大きなものとして構成しようとする意識=自己アイデンティティを構成する意識と言える。私たちは自分というのを考える時、そこにそれまで経験してきた想い・感情・考えといったものをすべて含めて”自分”だと思っているはずだ。その全体性こそが「わたしとしてのアイデンティティ=他の誰でもない”このわたし”」だと認識している。

【語りと語られたもの】

天秤座(7)と蠍座(8)の意識を、「個体としての構成と実体化を行う意識作用」と考えている。問題は「ここにどうやって他者が関わってくるのか?」だ。この他者問題(他者認識)について、ずっと考えを巡らせている。

以前まとめた視野空間の視点から考えると、獅子座(5)としての主体認識と乙女座(6)としての客体作用を統合したものが、天秤座(7)としての個体構成意識(自己アイデンティティを構成する意識)だと思われる。それはエルンスト・マッハの自画像的なPOV視点(一人称視点)だったものが、視点を外部に移すことによって(外在視点)、主体を客体化させた「人間(わたし)」というイメージを作り出す。

本来、私たちが持つPOV的な一人称視点では、「身体を持った客体化した人間」というものは生まれでてこない。この人間としての身体イメージ(そこには主体としてのイメージも含まれる)の元になるイメージがどこからやってくるのか?―それが天秤座(7)の個体意識を構成する意識だと。

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