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【世界の変換(入れ替え) 水瓶座の精神】

映画「軽い男じゃないのよ」を見た。とても素晴らしい作品だった。最初は「なんだ、よくある女性の男性性化(悪い意味での男性性化)か…」と思ったが、そうではなく、男性に女性の社会的立場を実感させる見事な演出だった。映像だけで、女性の社会的立場を男性に実感させてしまうことが可能なんだ…と、ただただ脱帽した。

最初はコメディーっぽい雰囲気だったのが、だんだんと女性が味わっている理不尽な思いを、見ている視聴者に植え付けていく。「あぁ、女性ってこんな思いをしていたんだ…」と、男性なら誰しもが実感させられるのではないだろうか。

映画のラストシーンのシニカルさも見事だった。男性優位→女性優位→男性優位と、世界そのもの(価値観そのもの)を変換させることによって、見ている人は自分のそれまで抱いていた常識がぐちゃぐちゃにされてしまう。

映画を見終わったあとには、自分の価値観がまったく新しいものへ変えられているのに気づくだろう。

【映画:ザ・ディスカバリー】

最近時間を持て余すようになり、ふと思い立ってNetflixに加入した。話題になっているNetflixがどういうものか、試しにみてみようと。映画一覧を見ていると、確かに今までにない面白そうな作品がけっこうある。

そんな中で見た作品。「ザ・ディスカバリー」。

死後世界もの、タイムループものといったジャンルだろうが、結末にとても惹かれた。こういう終わり方(解釈の仕方)はいろいろ想像の羽を広げてくれて、思わず考え込んでしまった。

私はスピリチュアルを長年やってきたので死後世界はあると普通に思っている。ただ、それはよくあるようなイメージではなく、もうちょっと違った形を想像している。

それは「意識とは何か?」に関わる問題で、この作品ではエンディングを見る限り、「記憶とつながる創造行為をする主体」といった捉え方をしているようだが、私もそれと同じようなイメージを持っている。

この世と思っている現実世界はあくまで「意識(主体)の創造行為」によって経験されている(作り出している)ものにすぎず、それぞれ個々の人間が自分の意識内でそれぞれのテーマを作り出し、それを経験している体験世界だと。

【木星の視点意識】

先日用があって、久しぶりに電車に乗った。窓から見える景色を眺めながら、ふと20代の頃を思い出した。毎朝満員電車に揺られながら、遠くに見える都心のビル群を眺める。「社会という大海原で、自分の人生を生きるんだ!冒険の旅に出るんだ!」。心は意気揚々としていた。

遠くに見える家々の連なりが、ビルの密集が、そこに行けばきっと未知の冒険が待っている予感を駆り立てる。「あの大きな場所へ行けば、あの大きな都会へ行けば…」。

だが、東京へ行こうが、大手町のビル街へ行こうが、期待していた冒険などどこにもなかった。あるのは単調な毎日だけ。行って、作業して、疲れて、帰って。目の前の景色には、個々の家や1つ1つのビルなど、ごく日常的な街並みだけだった。

電車の窓から見える、あの大きな景色(そこに期待していた何か)はどこを探しても見つからない。その幻滅とともに私の20代は終わった。

※画像はお借りしたもの

【木星のネガティブ性の例】

ちょうどいいテーマなので、次は木星のネガティブ性をホロスコープ構造論的に考えてみる。木星・土星ともに、「個体的なものを1つの集合としてまとめる際に必要な意識作用」と考える。集合として働くちから、集団を形成するちから。

そういうちからを具体的に考えた時、浮かんでくるのが「一般性・抽象性」といったもの。以前書いた記事では、それを内包と外延の意識としてまとめた。

内包=抽象化:1つ1つの個々のものを集め、それらに共通する一般的・普遍的な概念を見出す(帰納的思考)

外延=具体化:すべてのものに共通する一般的・普遍的概念から、個々の具体的なものを見出す(演繹的思考)

※土星の意識作用を外延的な意識と考えるが、それは個々の具体的なものを見出す=まとめる際に必要な意識が「規則・ルール・規範・倫理」といった精神的束縛のものとして現れると思われるから。支配という意識のもここから生まれる。

カテゴリー的に考えれば、1つ1つの要素を「より上位の概念」としてまとめる部分集合的な概念(国籍:日本人・アメリカ人など)―になる。

そうやってたどり着いたのが「ホロスコープの構造論」。桐吉先生が書かれた今回のテーマにおいても、それを心理占星学の視点ではなく、ホロスコープ構造論の視点で見るとどうなるのか―?

例えば、今回の「男性性の過剰表現」というテーマは、心理学的には防衛機制の中の「補償・反動形成の複合」のような例に当たると思われる(※過剰表現している男性性は自身の隠れた得意分野でもあるので、正確にはこれとは少し違うと思うが)。

人間のネガティブ性は、こういう心理的な防衛機制となって現れるが、では「それがホロスコープの構造とどう関係しているのか?」についての説明がない。ここが分からないと、いくらその人のバースチャートを作って心理占星学的な解釈をしようが、事の本質にたどり着けない。

構造論的には、「意識の他者化」に本質があると解釈する。それは本来、

・ 意識は「奇数→偶数」へと進む
・ 意識は「下位→上位」へと進む

という流れがあるのに、それと反対の流れ、

・ 「奇数←偶数」
・ 「下位←上位」

へと意識の方向が逆を向いてしまうことによって起こる。

この秘密は何なのか?―を考えたとき、「人間の認識(能力)」に鍵があるのではないかと思っている。以前この動画を見た時、のもとさんが「時間の矢は人間が作り出している=人間のぼやけた視界」と説明されていた。

●【エントロピー】時間の矢は人間がつくり出している!?
youtube.com/watch?si=GfVhcpLmq

人間が作り出している―それは人間の「認知のちから」が作り出しているということではないかと。人間が物事・出来事をマクロ的な視点で捉えようとする意識。瞬間瞬間の出来事では、私たちは喜怒哀楽の突発的な感情(あるいは思考)しか抱かない。だが、それをいくつか並びたて、差異を取って関連づけ、大きなまとまりとして意味づけ・テーマづけを与えて練り上げる。

物語には必ずこうした「個々の出来事のつなぎあい」「それを1つに収めるテーマ性」などが含まれる。逆にいえば、そういうマクロ的な視点でまとめあげるものがなければ、物語は物語として成り立たない。

【時間の方向性と人間の認知作用】

私たちは「時間の流れ」を意識しているが、これほど不思議なものもない。物理学では時間反転対称性というのがあって、ニュートンの運動方程式のように「時間の流れを正と負どちらに向けても数式は成り立つ」が、私たち人間にとっては、時間の流れを負に変えたら生活が成りたたない。

だが、物理学においても視点をマクロにすると、この時間反転対称性が破れる。典型的なのがエントロピー増大の法則で、「物事は乱雑・無秩序・複雑な方向に向かい、自発的に元に戻ることはない」。

私の場合その構造性のテーマが射手座(9)的というより、天秤座(7)蠍座(8)にターゲットが向いていたが、ここの抽象的構造性と取り組むことによって、他の星座のイメージ(双子座(3)蟹座(4)など)も詳しく見えだしてきた。

そういう意味でシンクロというのは正しいのかもしれない。

ここから先、自分が取り組むべきホロスコープの構造性ははっきり理解できたし、それには10年くらいかかるだろう。そしてそれを表すかのように、次はJUICE探査機とエウロパ・クリッパーがガリレオ衛星を探査する。

「JUICE探査機」
2029年~ カリスト、エウロパ、フライバイ
2032年~ ガニメデ周回軌道投入

「エウロパ・クリッパー」
2030年~ 木星到着、エウロパ探査

2030年代から、私が取り組んでいる「ホロスコープの抽象的構造性」というのが、占星学的にも注目され始めるのではないだろうか。かつてリズ・グリーンらが取り組んでいた「占星学の心理学的解釈」というのが大きな注目を浴びた。だが、それ以降しりつぼみになり、伝統的占星術が流行りだした。

これからの占星学に必要なのは、それらを超えた、認識のあり方自体を変える(射手座=木星)新しい視点を伴った占星学だと思っている。

【探査機ジュノーとガリレオ衛星】

以前の記事でも書いたが、木星探査機ジュノーの追加ミッション「ガリレオ衛星フライバイ」がいよいよ最終局面に近づいてきた。

2021/06/07 ガニメデ・フライバイ
2022/09/29 エウロパ・フライバイ
2023/12/30 イオ・フライバイ
2024/02/03 イオ・フライバイ(2回目)

●火星探査と木星探査
astrologia89.blog.fc2.com/blog

フライバイのたびにガリレオ衛星の鮮明な画像を送ってきてくれたわけだが、それは「人間の意識がガリレオ衛星(木星)が表す意識を表現(顕在化)しようとしている現れ」だと思っている。探査とは「そのことを意識化するプロセス」と同意であり、惑星の発見と同じような意味を持つと。

木星が射手座(9)の意識とつながりがあるとすれば、昨今話題になっているAI(chatGTP、生成AIなど)も、射手座(9)のキーワード「認識化・抽象化・概念化」の具体的表現物だとも考えられる。

私自身においても、ジュノー探査機が木星に到着した2016年以降、「ホロスコープの抽象的構造性」というのを考えはじめた頃だったし、ガリレオ衛星にフライバイを行った2021年からは、その構造性の具体的イメージをしっかり頭の中で描きはじめた頃だった。

このCMにおける男性はとても素晴らしい。自分を犠牲にしてでも、他人に愛を与えようとする。

だが、それと同じくらい、この母親も素晴らしい。自分のプライドを捨ててでも、子供のために他人に頭をさげ、お金を恵んでもらおうとする。自分1人のためだったら、こんな屈辱的なことはしないだろう。でも大切な娘のためにここまでできる愛の深さ。そして、愛をくれた男性に感謝できる心の豊かさ。

与えること、与えられること
それは贈ること、受け取ること

心の成長にはこの2つが必要だということ。

【感動】 タイのCM 主人公の人がいいね
youtube.com/watch?v=9MXmyxVlse

獅子座(5)としての「認識する主体」は太陽なので、それはどこまでいってもなくならない。主体あるいは太陽を消すのではなく、それを2つ並び合わせて、1つの連星とするような、そういうあり方が「蠍座の目指す一体化」なのではないだろうか。

恒星(太陽)としてのあり方はお互いなくならない。だが、連星となることでそれぞれの中心がずれ、共通重心を生み出して、その周りをお互いが回るようになる。

これは意識としては、「わたしがあなたを意識している状態」であると同時に、「あなたもわたしを意識している状態」。お互いがお互いに向かって意識を向けあっている状態。

それを構造的に表したのが以下の図なわけだが、詳しく見ると「4つの意識」が動いていることがわかる。

・自己→他者へ向かう気持ち(能動性)
・自己←他者へ向かう気持ち(受動性)
・他者→自己へ向かう気持ち(能動性)
・他者←自己へ向かう気持ち(受動性)

それが先にあげた、様々な思想・概念とつながるようになり、いよいよまとめが見えてきたかな…というところ。

来年は2024年。位置の変換の最後の年(※)。天秤座(7)の構造性が一応の形を見出すのに良い区切りになるかもしれない。

※ ヌースでは占星学の12サイクルとは違って14サイクルの重なりで考えているので、正確には2026年。

そして、2025年以降から、天秤座(7)蠍座(8)の構造性として見えてきたものを、実際の体験として(おそらくそれに見合った人が私の前に現れ、関係性を持つと思われる)現れるのではないかと予想している。

私自身の私生活でも、ここ2~3年で(特にこの1年で)大きなサイクルの終わりと言えるような出来事がつづいた。今はその後片付け(心の整理)をしているところ。今後1~2年で新しい生活を始めるのではないかと予想している。

私にとって、ブログ「占星学と心の探求」は私が生きてきた歩みそのもの、その現在現在で歩んでいる道そのものの記録だと言える。自分の人生の実況中継をしているようなものだが、だからこそ、本質の流れに沿っているのかもしれない。

【これまでの流れ】

この1年半ずっと同じテーマを考え続けている。最初は獅子座(5)乙女座(6)の構造性を統合するような、天秤座(7)蠍座(8)の形を模索することだった。

だが、やればやるほどどんどん深みにはまっていく。「自己と他者の関係性とはなんぞや?」から始まり、バフチンの対話思想、ガーゲンの社会構成主義、それらを心理療法的に発展させたナラティブ・セラピー、自己論における物語的自己。視野空間との関係性から考えついたメタ視点、それを認知心理として捉えたメタ認知、さらにアイデンティティー概念との関連性。

すべては「天秤座(7)と蠍座(8)の構造性」から生まれてくるものだと考えるようになった。今はエリクソンのアイデンティティ概念をもう1度しっかり考え直している。自己アイデンティティは他者(社会)との関係性から作り出されるものだ―というのを、天秤座(7)蠍座(8)の構造性に落とし込むこと。

そして、メタ認知の仕組みも天秤座(7)蠍座(8)の構造性に落とし込むこと。

それはなぜなのか?

客体としてのモノ(乙女座:6)を見るときに、私たちは無意識にそこに主体としての意識(獅子座:5)があるかどうかを捉えるからではないだろうか。どんなに精巧に作られた人形・マネキン・ロボットであっても、そこに主体としての意識を感じることがなければ、「人」として理解することはない。

逆に、vtuberのような客体としては雑であっても、そこに主体としての意識(中の人)を感じることができれば、「これは人だ」と理解する。

認識する主体として
認識される客体として

その両者が統合されてこそ、「存在」としての実体感を得る。存在とは個体としてのアイデンティティーを持つということであり、それは他者と関わり、その中で自己としての有り様を形成しているということ。

だからこそ、他者からの問いかけに応答できなかったり、他者に向けて呼びかけることのできないものは、人としての実体を得られないと思われる。マネキンであっても、ロボットであっても、vtuberであっても。

人の姿としてのイメージには、そういう自他間の応答が無意識に備わっている。

何度も言うが、この図はあくまで想像上のものであり、先に無意識の中でこういうイメージができるから、私たちは「人の姿」というものを理解することができるのではないだろうか。

乳幼児が他者(親)を見ることでこういうイメージができるのではなく、乳幼児の無意識の中で先に「(主体と客体が統合された)人としてのイメージ」ができるから、それを他者(親)に投影して、人の姿として理解されるのだと思われる。

この「(主体と客体が統合された)人の姿としてのイメージ」は、対象としてのモノ(表象)とは差異がある。人の姿(個体認識=天秤座:7)には「個体アイデンティティーとしての意識」が無意識に内包されていて、単なるモノ(対象認識=双子座:3)にはそれがない。

それを現しているのが以下の画像。

人間とマネキンが一緒に写った画像だが、私たちは何の違和感もなく、両者の違いを理解する。本物の人間と、ただのマネキン。どちらも頭があり、手があり、足があって、服も着ている。表象としてのイメージはまったく同じなのに、「この両者は違う」と私たちは理解する。

「命が生まれる」とはそういう存在としての姿を得るということであり、それは主体と客体の統合、それによる自己アイデンティティー化、さらにはそれを他者によって承認される―というプロセスが必要とされる。

私たちにはこの意識プロセスが自動的に内包されていて、それが成長とともに発現するから、「人の姿としてのイメージ」が発生するのではないだろうか。

これを視空間認識で現したのが以下の図。「エルンスト・マッハの自画像を横から見た」というイメージで捉えてほしいのだが、この絵には、認識する主体であるわたしが、身体という客体を持った姿で描かれている。

絵として見ればごく普通のものだが、実際にはこの絵のようなことはあり得ない。なぜなら「わたし」は自分の姿を見ることなどできないのだから。つまりこの図の元になっているイメージは、あくまで想像上のものだということ。

わたしという存在が(客体としての)身体を持っていて
いまベッドの上で寝そべっている
その姿を想像するとこんな感じになる―と

目には見えないが、イメージとして想像することで認識できる図。それが「人の姿としてのわたし」になる。

【人の姿としてのイメージ】

視空間認識を通して人間の心理発達を考えてみると、私たちが「人の姿」としてイメージされるものがかなり異質なものだと分かる。発達心理学では当たり前のように、乳幼児が他者(親)としての人間イメージを形成し、それを自分に投影して(鏡像)、自己としての人間イメージを形成すると説明しているが、考えてみればこれはおかしいのではないだろうか。

私たちが最初に形成する世界は、エルンスト・マッハが描いたようなPOV世界だ。主体としての自己認識(獅子座:5)があって、それが外にある様々なモノ(対象認識)を捉えている。わたしとして認識する意識はあっても、そのわたしが客体としての身体(乙女座:6)を持っているとは、さらにそれが手・足・頭など統合された身体イメージを持っているとは思っていない。

つまり、主体イメージと客体イメージは別物であって、それがどこかの時点で統合され1つになって、それによって「人の姿としてのイメージ」が発生すると考えるのが妥当だと思われる。

【特別感(special feeling)と主体認識】

話題になっていたアニメ「推しの子」を見た。その題名からアイドル系のものかと思ったら、予想の斜め上をいく素晴らしい作品だった。「推しの子ってそういう意味か…」と驚かされたし、そこから展開していくディープな内容にも引き込まれた。

特に第7話は演出が完璧で、このシーズン1のハイライトとも言えるような盛り上がりになっている。占星学的にも、獅子座の「特別感」をとても意識させるようなものになっていたので、少し取り上げてみたい。

キャラ的に地味でパッとした感がなく、主役とはなり得ない黒川あかね。でも真面目で一生懸命な性格、みんなの期待に応えたいという気持ちにあふれていて、そのせいで焦った行動を取ってしまう。

ストーリーではそのダメさ加減を存分に表現しながら、どんどん落ちていく様を見せる。どん底まで落ちた末に、みんなのサポートもあって、もう1度頑張ろうと自分を取り戻す。

リアリティーショー向けの素の自分を出す方法ではなく、本来の輝きである「演技」というやり方で。

若いときの人間関係が「好きな人をゲットする(結ばれる)こと」に主眼に置かれるのに対して、中年期の人間関係は「お互いを理解しあうこと」に主眼が置かれる。このテーマは地味なので、ドラマや映画でなかなか扱われることはない。

だが中年にもなると、このテーマこそが好きな人をゲットすることよりも遥かに難しいテーマだと思い知る。夫婦関係・親しい友人関係・親子関係・職場の人間関係。自分の勝手な思いを相手に突きつけるだけでは解決せず、ではどうやって相手の立場を考え、自分の立場も理解してもらい、お互い対等の目線で仲良くなれるか…と。

自分を抑え、相手を尊重し、気を使い、思いやり、相手からの優しさも怖がることなく受けとめ、感謝する。そして、お互い心を開いてしっかり向き合う。少しずつ、そっと、優しく、ときには力強く。

そういう対等の人間関係を扱う意識が天秤座(7)蠍座(8)の意識なわけだが、これは別に天秤座の人・蠍座の人だけがやるということではない。

以前ホロスコープの年齢意識で取り上げたが、人間誰しも40代~50代になれば、自然とこの天秤座(7)蠍座(8)が発達する。

【自己と他者が向き合う -中年期の意識-】

テレビ東京のYoutubeチャンネルで、期間限定で、ドラマ「きのう何食べた?」が配信されていた。この2週間ずっと見ていたが、本当に素敵なドラマだった。ゲイがテーマであってもそんなことまったく気にならず、単純に「人と人とがしっかり触れ合う優しいドラマ」だと思った。

中年の人間を主役にしたのもいい。若い人が主役だったら、こんな優しい触れ合いは無理だろうし、人生の良い部分も悪い部分もそれなりに味わった中年世代だからできる、良質の人間ドラマだと思った。

同性関係だろうが異性関係だろうが、人がそれなりに自己発達し、他者との対等関係を築こうとするとき、このドラマで描かれるような状況に直面する。若いときは「ただ自分の思いを要求するだけの人間関係」だが、中年にもなると相手の立場も分かるようになり、お互い対等の立場で、どうやって上手な関係を築くか―というのがテーマになる。

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