[意識の双対性]

この1~12までの意識構造は、自己と他者の2つが双対的につながりあって構成されている。ホロスコープ図で示されているのはあくまで自分(自己側)だけのものにすぎないということ。本当は1~12までのホロスコープが2つ重なって存在している(しかも反対向きに)。

それを表したのが以下の図。

自己側の構造が1→12へと上向きに構成されているのに対し、それにつながる他者側の構造が12→1へと下向きに構成されている(※正確には少し違うが)。

これはDNAの2重らせん構造に似ていて、2本のポリヌクレオチド鎖が逆平行につながってDNA構造を形成しているように、2つのホロスコープ構造(自己側と他者側)が反対向きにつながって構成されているということ。

●DNAの基本構造 〜二重らせん〜
nsgene-lab.jp/dna_structure/do

この自他双対のホロスコープ構造を、先の「負荷→反映→等化→中和のシステム」に重ねると、まるで2つの鎖が90度回転しながら上昇しているように見える。

おそらく、私たちが持つ遺伝子情報のシステムはこういう意識の本質的な構造性が反映されているものだと思われる。

そして、この意識構造は90度の回転的な動きを持ちながら、より上位の意識へ成長していく。それを表すと以下のようになる。スピリチュアルでよく言われる「意識のらせん上昇」はここからきている。

【ホロスコープ構造論の基礎】

いままで何度か書いているが、ヌーソロジーを参考にして考えた「ホロスコープの基本構造」は以下の3つ。

① 負荷→反映→等化→中和のシステム
② 意識の流動性・重畳性
③ 意識の双対性

今回は①と③を取り上げる。

[負荷→反映→等化→中和のシステム]

意識は最初の1となる動きに対して、その反映となる2の意識が生まれる。そして、次にその1と2を対称的に見つめ、統合する3の意識が生まれる。これは1と2を「前後」に例えれば、「横(90度)」から眺める客観的なものになる。そして、その3の意識に対して、これまたその反映となる4の意識が生まれる。

そして、3と4を前後と例えるなら、それを横(90度)から眺め、統合する5の意識が生まれる。その5の意識はまた反映となる6の意識を生み…と、この前後左右の意識運動が連綿とつづくことになる。

占星学において、

牡羊座(1)と牡牛座(2)
双子座(3)と蟹座(4)
獅子座(5)と乙女座(6)
天秤座(7)と蠍座(8)
射手座(9)と山羊座(10)
水瓶座(11)と魚座(12)

がお互い相容れないものを持ちながら、でも、お互い無視できない深いつながり(関係性)を持つのはここから来ている。

・天秤座(7)が他者に強い興味を持つこと
・蠍座(8)が他者と強い一体化を望むこと

一見、それは「別の主体(*5 *6)」のことだと思っていても、その本質は「主体を外側から外在的に捉えよう・観察しようとする意識」のことだと。そうやって”他者”というのを意識すればするほど、人は己のアイデンティティを構成することになる。

では、セックスとはなにか?

おそらく、獅子座(5)乙女座(6)レベルの主体客体意識と、天秤座(7)蠍座(8)レベルの個体構成意識との統合に、その本質があると思われる。しかも、それだけで終わらず、実際の別の主体(*5 *6)との連結も、ここに含ませている。

※おそらく、これにはホロスコープ構造の基本「意識の流動性・重畳性」と「意識の双対性」が関わっていると思われるが、そこはまだ考え中。

他者(自分とは違う別の主体)を意識することが、そのまま自分を大きく作る(アイデンティティ化)ことにつながる―他者認識は自己認識(構成)と切っても切れない仕組みであり、それは同レベルではないということ。

自己認識<他者認識

そういう力関係があるからこそ、人は他者を意識せずにいられないのだろう。他者に振り回され、他者に助けられ、他者に教えられ、人は自分を成長させていく。

自分自身がPOV視点のように、その物語の内部に入ってしまったら、それは不可能になる。だから、自分自身を「何か他の別存在」のように外側から客観的に捉えさせる。

ここから導き出される真実は、「個体を1つの物語を持った存在=アイデンティティとして構成する意識は、他者として認識・観察させる意識」であるということ。

・自分(主体)を外側から観察する視点
・主体と客体における相互作用を、物語的自己として構成する視点
・アイデンティティとして、存在の基礎を与える視点

これらはすべて「他者」としての認識作用(外在作用)を生み出すということ。

私たちは自分のことを自己(主体)、それ以外の人を他者(別の主体)として理解しているが、これは本質ではない。他者という存在認識は起源がもっと上位で、それは天秤座(7)・蠍座(8)の個体を構成する意識から出現していると。

そう考えると、占星術が7ハウス(天秤座)8ハウス(蠍座)を「他者のハウス」と呼んでいるのはまったく正しい。このハウスには自己は存在しない。ただ他者意識(個体を構成する意識)だけがあるのだ。

【他者認識の起源2 -メモ-】

獅子座(5)としての主体認識、乙女座(6)としての客体作用。それはそのまま「わたし(自己)としての主観認識」と「目の前に現れるモノ・出来事としての客体認識」に当たる。目の前に現れる様々な出来事(6)を見て、知って、聞いて、触れて、感じて、それに対する自分自身の反応(意志・感覚・思考・感情=ぜんぶまとめて5)として受けとめる=認識。

その時の意識は自分が主人公(5)としてその場に没入しているので、POV視点=一人称視点のように、自分の姿が見えなくなる。

天秤座(7)の意識は、この獅子座(5)と乙女座(6)の意識を統合したものとして現れる。それは認識するものと認識されるものの統合、わたしと目の前に現れる出来事の統合、つまり、「わたしが様々な体験を経験し、それらを集め、わたしの物語として全体的にまとめる意識=アイデンティティを構成する意識」として。

だが、ここで1つポイントがあって、この「主体が客体を通して経験(認識)する物語」は、視点を外部に移すことによって、それを観察する視点を得て可能になるということ。それはつまり、わたしというものを「客観的な、外部的な、他の存在」として捉える意識を生み出す。

【追記】

昔から、日本人の感情表現(愛情表現)を見るたびに、「なんでこんなに幼い表現しかできないのだろう?」と不思議だった。好きであることを、大切な存在であることを、素直に表現できない。自分の心のうちを、正直に相手に伝えることができない。怖がる。

対等関係の究極の形はセックスだ。自分をすべて無防備にし、相手の前にさらけ出す。相手もすべてを無防備にし、自分の前にさらけ出す。そうやって身も心も裸になってお互い触れ合い、受け入れあい、「対等の関係」になれる。

自分に自信のない人間は裸になれない。
相手を対等と認められない人間は、自分を無防備にできない。

人はみな「自分が1番」だから、自分の存在を脅かすものを恐れる。「相手が自分と対等である」というのは、「自分が1番ではなくなる」ことを意味する。だから、怖くて仕方ないのだ。プライドでがちがちに防御しなくては不安なのだ。

母が台所で静かに涙を流しながら、「情けない…本当に情けない」と、夫のどうしようもなさを嘆いていた姿が忘れられない。私もその頃の母と同じ年齢になった。母が他界した今、父は依存するターゲットを私に変え、母親にしていたように寄りかかるようになった。

「あぁ、こうやって母は父親のネガティブさに飲み込まれ、体を蝕まれていったんだな…」と実感するようになった。たった1年寄りかかられただけで、私は毎日腹痛を感じるようになり(大腸あたり)、痔(肛門)にもなった。

蠍座周辺が侵されてる―というのが嫌でもわかる。

母の世代の女性は、みんなこういう苦痛を背負わせられながら、その中で必死に頑張って生きたのだと思う。私は蠍座だから、その母の想い(苦しみ)は遺産として継承する。そして、私のところで断ち切ってみせる。

これからの時代は男性と女性が対等の関係で愛し合えるようになること。この「対等関係」というのは思っているほど簡単じゃない。男性も、女性も、自分だけの世界にとどまっている限り、絶対到達できない。自分の世界(性)を抜け、相手側の世界(性)を体験してこそ、可能になる。

そういう新しい景色を見出すこと。

私はずっと母の愚痴を聞いて育った。「お父さんは◯◯で本当嫌だわ。一緒にいるのも嫌っ。一緒のお墓に入るのも、来世でまた夫婦になるのも絶対嫌っ」。

ならば離婚すればいいのにと思ったが、この世代の価値観では離婚というのはとても抵抗のあること。「しょうがない」という諦めの気持ちで、ひたすら我慢していた。だが、その我慢は母の体をじわじわ蝕んでいた。そして、あるとき突然「末期の癌です。もう手遅れです」と宣告され、1年たたずに他界した。

母はどんな気持ちだったのだろう。少なくとも上沼恵美子さんのような気持ちとは違っていたと思う。「今の人はいいよね。離婚できるんだから…」。母が何気なくいった言葉。きっとそれが本心だったのではないかと思っている。

上沼恵美子さんは「金星が魚座」にある方だから、夫がどんなに甲斐性なくても、「育つのを待ってあげよう」とする慈愛を持っているのかもしれない。だが、そんな崇高な愛は一対一の対等関係では虚しい。

夫婦とはまず何より「一対一の人間と人間の対等関係」。慈愛というのは親が子供に向けるような「上下関係の愛」であって、その前に対等の関係を築くのが先だと思っている。

【団塊世代の夫婦】

上沼恵美子さんのインタビュー記事を読みながら、母のことをいろいろ考えてしまった。

●上沼恵美子「イタリア旅行で離婚を切り出して8年、別居6年でも別れない理由。私が買ったマンションで暮らす夫への気待ち」
fujinkoron.jp/articles/-/11564

同じ男として見ても、あるいは同じ大人として見ても、「どうして団塊世代の男はこんなにも幼稚なんだろう?」と思わずにいられない。「男とはっ!」と偉そうなことばかり言うくせに、いざとなったら自分が一番に逃げ出す。プライドというのは実力が伴って初めて表現できるものなのに、その実力を磨く努力をしない。

組織に寄りかかり、権威に寄りかかり、強者に寄りかかり、母親に寄りかかる。そのどれもが自分自身で築いたものではない―というのに。

私の父も典型的な団塊世代の男。その偉そうに振る舞う姿と、ぜんぜん実力のない姿を見ていると、10代の若者を見ているような気分になる。そういう「甲斐性のない石原裕次郎(上沼さんの言葉に倣えば)」を、団塊世代の女性たちは懸命に支えていたのだろうか…。

【認識される客体意識(6) -メモ-】

獅子座(5)を認識する主体意識、乙女座(6)を認識される客体意識―としてまとめてきたが、その具体的な内容を「視覚(見る・見られる)」に制限して考えてしまっていた。構造的に考えれば、獅子座(5)は下位の牡羊座(1)~蟹座(4)まですべてを含むものだから、認識する対象は当然「行動・感覚・思考・感情」すべてを含むはずだ。

つまり、獅子座(5)の反映としての乙女座(6)が表す客体とは、動くもの(行動)・感じ捉えるもの(感覚)・言葉(思考)・感じるもの(感情)―すべてが含まれるはず。それは相手の言動・態度振る舞い・醸し出す雰囲気・そばにいて感じる情緒など。

視野空間としてのPOV視点(視覚)ばかり考えていたから、この点がすっぽり抜け落ちていた。

そう考えると、乙女座(6)の「認識される客体世界」というのが、モノとしての対象物だけでなく、人の「態度・行動・振る舞い・雰囲気」など、すべての感覚で捉えられる情報を含む世界だと理解できる。

※五感だけでなく、直感・心の動きなど第六感的なものまでも含む

同じ空間・同じ出来事・同じ体験を共有していても、主体世界(自己としての主観意識)というのが自他でまったく異なることがわかるだろう。

本当の意味で相手(他者)を理解したかったら、相手が心の中で感じている主体認識(相手の考え・相手の想い)を、相手自身の言葉(一人語り)で語ってもらうしかない。

では、このそれぞれ自分の一人称語りをお互い見せあい(語り合い)、1つに統合するとどうなるのか?どういった表現形式になるのか?それは可能なのか?

まだよく分からない。

マンガ「こちら、あたためますか?」を参考にこのことを考えてみる。この作品は1つの出来事(コンビニでのふれあい)を、男性側の視点と女性側の視点の両方から描いている。

コンビニで店員さん(男性)とお客さん(女性)がふれあった―その1つの出来事の中に、実は2つの世界が存在していると。獅子座(5)としての主体認識(自分の考え・想い)を意識しながら読むと、その内容はそれぞれ「男性の心の声(一人語り)」&「女性の心の声(一人語り)」として表現されている部分にあたる。

●男性側の世界(心の声=一人語り)
「単調な生活。刺激もなく、心ときめくようなこともなく、つまらない俺の毎日。これが俺の人生なのかな…。いや、何か良いことがあってもいいじゃないか。希望を持てるような何かがあったって…」

manga.line.me/book/viewer?id=B

●女性側の世界(心の声=一人語り)
「女だからってナメないでよ。一生懸命頑張ってるのよ。憐れみなんてやめてよ…。心が荒んでいく自分さえも嫌いになっちゃいそう。ふぅ…。いや、頑張れ私。前向きに生きよう!」

manga.line.me/book/viewer?id=B

私たちが自分(獅子座:5)というのを意識するとき、必ず一人称的な語りが生まれる。

・私は~と感じた
・私は~と思った
・僕は~と考えた

アニメ「涼宮ハルヒの憂鬱」で主人公のキョンが一人語りするように、アニメ「エヴァンゲリオン」で主人公のシンジが心の葛藤を叫ぶように、それはどこまでも個人的な内容(世界)で、他人がそれを知ることはできない。

2人の人間(わたしとあなた)が相対しているときでさえ、それぞれの心の内面(主観世界)はまったく異なっている。

前回の記事では、父親から見た視点(POV)と娘から見た視点(POV)を取り上げたが、そこで感じているそれぞれの主観世界(思考・感情といった心の声)は表現されていない。それは映像化と相性が悪く(※1)、あくまで「言葉(一人称の語り)」として語られて初めて表現される。

※ 獅子座(5)の主観世界は目には見えないということ。

【認識する主体(獅子座:5)と一人称語り】

私たちが普段見ている世界はPOV的な一人称視点の世界だ―このことをもう少し詳しく説明してみたい。POV的な視野空間を目にした時、その目の前に広がる世界だけを思ってしまうかもしれない。しかし、実際にはここには2つの世界(意識)が存在している。

・客体として目の前に広がる世界(乙女座:6)
※テレビ・映画・PC画面のようなスクリーンみたいなもの

・主体としてそれを思考・感情として認識している意識(獅子座:5)

客体世界(意識)はモノとして現れるので捉えやすいが、主体世界(意識)は自分の思考・感情として現れるので目には見えない。目には見えないが、自分が考える内容・感じる内容として実感される。この実感のことを自己認識と呼んでいる。

この主体認識は、小説の技法としては「一人称語り(心の声)」として表現される。「わたしは~と思っている」、「わたしは~と考えた」など。

つまり、獅子座(5)乙女座(6)のレベルにおいては、目の前に現れる客体世界と、それを自分がどう感じたか、どう考えたかという主観世界の2つだけがある。それを視野空間として表されたのが一人称的なPOV視点だということ。

【訂正】

それはこの2つ並べた映像が、私たちがドラマや映画などで見る「客観視点の映像」によく似ていることだ。

それはこの2つ並べた映像が、私たちがドラマや映画などで見る「客観視点の映像(3人称視点の映像)」によく似ていることだ。

そうすることによって、客観世界(客観的視点・客観的意識・メタ視点)というものが発生するのではないだろうか。

自己側の客体世界(乙女座:6)+他者側の客体世界(乙女座:6)= 自他一体化した客観世界(蠍座:8)

※ では、自己側と他者側の主体世界(獅子座としての認識する主体)が統合されるとどうなるのか?については、まだ考え中。

自己側の主体世界(獅子座:5)+他者側の主体世界(獅子座:5)=????な世界(天秤座:7)

それが以下の動画。この動画では父親の一人称視点と娘の一人称視点を時間軸をあわせて並べている。自己と他者の一人称視点の統合(あくまで目の前に映る客体としての映像)をイメージしたものだが、単純に客体世界だけを並べて見ると、ある特徴に気づく。

●一人称視点の統合
drive.google.com/file/d/1OSyjp

それはこの2つ並べた映像が、私たちがドラマや映画などで見る「客観視点の映像」によく似ていることだ。父親・娘という登場人物がどちらも客体としての姿として現れ、しかもお互いの映像が相手の足りない情報(主観視点では表現しきれていない部分)を補っている。

客観視点というものは、視点を外部に持っていくことでイメージされる「神の視点(外在視点)」なわけだが、それを作り出す原初となるものが「自己側の一人称視点」と「他者の一人称視点」の統合にある―ということ。

これは意識作用としては、父親が自分の客体世界(乙女座:6)を理解し、そこからさらに娘の客体世界(乙女座:6)を理解しようとすること。娘が自分の客体世界(乙女座:6)を理解し、そこからさらに父親の客体世界(乙女座:6)を理解しようとすること。そして、お互いに「自分と相手の客体世界を1つに統合してみよう」とすることを意味している。

●娘の一人称視点
drive.google.com/file/d/1FPRw5

目の前に映るのは(客体としての)父親の姿なのに、そこから感じれるのは娘の様々な想いだということ。

自分自身の姿は見えなくても(存在しなくても)、自分自身が感じている想い・考えはしっかりそこに存在している。自己意識として現れる主体認識(獅子座:5)はそういう姿なきものだということ。

獅子座(5)乙女座(6)レベルにおいては、自己と他者は別領域に独立して存在している。だから、お互い相手の主観世界(そこで相手が感じている想い・考え)が理解できず、誤解する。

天秤座(7)蠍座(8)レベルに移ると、この自己と他者の別領域を統合しようという意識が生まれてくる。ここではまず、自己側と他者側の客体世界(乙女座としての認識される客体)が統合されるとどうなるか?について考えてみる。

【客観視点の原初】

私たちが普段見ている世界はエルンスト・マッハの自画像に示されるような、POV視点の世界だ。一人称視点と呼ばれるこの世界には、自分の姿は存在しない。あるのは「考え・想い」といった主観的な心。この主観的な心は(獅子座としての認識する主体)、前の前に映る(現れる)客体(乙女座としての認識される客体)を通して、それに対する反応として現れる。

どちらも非常に個人的なもので、その内容は人それぞれみな違っている。恋人同士で同じ景色を見ても、それに対する印象はそれぞれ違っているように。

以前あったトヨタのCMを使って説明してみよう。この動画は父と娘のそれぞれの視点をPOV的手法を使って表現している。一人称視点なので、自分の姿は見えない。客体として目の前に映る景色にはそれぞれ相手の姿がある。

父は娘の姿を見て、娘は父親の姿を見る。動画をじっくり見ていて感じるのは、相手の姿(その言動)を通して、自分自身の心情がじわじわにじみ出てくること。

●父親の一人称視点
drive.google.com/file/d/1Ji4y9

目の前に映るのは(客体としての)娘の姿なのに、そこから感じられるのは父親の様々な想いだということ。

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