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ちなみに、エンディング曲を涼宮ハルヒの憂鬱の長門有希役、茅原実里さんに歌わせるのは「ずるい!」と思った(笑)。アニメ好きならそこにある意図が嫌でも分かる。

人間ではない対有機生命体コンタクト用ヒューマノイド・インターフェースである彼女なら、同じく感情を失ったバイオレットと共鳴しあうだろうと。エンディングで茅原さんの歌声が流れてきた瞬間、「涼宮ハルヒの消失」でのラストシーン、「長門有希ちゃんの消失」での愛を知るシーンが、脳内にばーっと浮かんできてしまった。

とっても心憎い演出だった。

自分の正直な想いを、素直に、相手に伝える。
相手の正直な想いを、素直に、自分で受けとめる。

なぜかその時、人はポジティブな方向へ変容する。これは誰もが実体験として知っている真実だろう。それはなぜなのか?そこにどんな構造的仕組みがあるのか?

私はそれ(自我・他我の変容の仕組み)を執拗に追っている。ここにこそ、人が他者を求める本質、愛を求める本質、セックスを求める本質があると思っているから。

・「わたし(自己)」と「あなた(他者)」に分かれている理由
・「あなた(他者)とつながりたい」と欲する理由
・性欲・愛という形で無意識的本能として与えられている理由

人は愛(他者を想うこと・他者に自分を想ってもらうこと)なしに生きられない。食欲や睡眠欲と同じくらい、根源的な欲求と言える。その謎をどうしても解きたいのだ―。

6話では、母の失踪によって女性不信・生きる勇気を失ったリオンが、ヴァイオレットとの真摯な対話を通して、新たな希望を見出す。

「私にとってあの方の存在はまるで世界そのもので、それがなくなるくらいなら、私が死んだ方がいいのです」

「それじゃあまるで、まるで…、そうか!お前そいつのことを愛して…」

「でも、今決めた。俺もおまえと同じように大陸中を回る。危険な目にあうかもしれない、命を落とすかもしれない。でも、俺はその道を選ぼうと思う。

閉じ込められていた扉のむこうに、歩き出す勇気を、彼女がくれたのだから…」

drive.google.com/file/d/1jFmxD

4話では、過去の失恋の傷を無神経に逆撫でる母親に対して、怒りをぶつけるアイリスが、ヴァイオレットとの真摯な対話を通して考えを改める。

「愛してるは、とても勇気のいる言葉なのですね…。受け入れられないとそこにいたくなくなるくらいに。あの時の少佐も、そうだったのでしょうか…」

「この子のいう少佐が、軍隊しか知らないこの子に愛を与えたのだと。そして、この子はそれが何かを一生懸命探している。この子なりに…」

愛という気持ちの大切さに改めて気づき、母親に対してしっかり向き合おうと手紙を書く。素直な、正直な気持ちで。それによって母と娘は理解しあい、思いやりあい、その絆を強くする。

drive.google.com/file/d/1Qi-XI

【他者との真なる対話とその結果】

アニメ「ヴァイオレット・エヴァーガーデン」を見た。まだ途中までだが、とても素晴らしい作品だと思った。

このアニメは、幼い頃から戦場に置かれ、感情を育むことを忘れた少女がそれを取り戻すまでの物語―といったものだろう。ただ、その描き方が「他者との真なる対話を通して」としているところが素晴らしい。ドールという仕事を通して、相手の本当の気持ちを理解しようとする。しかもそれだけではなく、ヴァイオレット自身の本当の気持ちをも相手に伝える。

・ 自己から他者へ
・ 他者から自己へ

真なる対話とは、それぞれの「本当の自分」を嘘偽りなく、正直に、真摯に、相手に伝えること。そして、お互いを受け入れあうこと。

そこにはひねくれもなく、天邪鬼もなく、ただただ素直にすべてを裸にして、お互いをさらけ出しあう。受け入れあう。

そういう真なる対話(他者と真摯に向き合うこと)をするとどうなるか―?このアニメはその結果を上手に描いている。

「自我の変容(ポジティブな変容)」という形で。

ドラマでは、この「客観的記録映像」を持ち出して、「自分が正しい!お前が間違っている!」などと言い争うが、それで本当に相手のこと(相手の記憶=印象)を理解できたのか?自分のこと(自分の記憶=印象)を理解してもらえたのか?

妻がどんな気持ちで浮気していたのかなんて、いっときの笑顔で理解できるものではない。そこに至る経緯、そこに至る葛藤、妻なりの複雑な想いを重ねて、それに至っている。

そういう妻が生きている世界観そのものを知らないと、結局はドラマで描かれたような結末になってしまう。

客観的記録ではなく、その人の主観的記憶を。

例えば、昨日のことを振り返ってみてほしい。朝起きてから、夜寝るまでのことを、目をつぶりながら思い出してみよう。そこで思い出されるのは、「このシーンとあのシーン、こんなところと、あんな出来事と…」と、場面場面の印象の集まりであることに気づくだろう。

※あくまで視覚に絞った話。本当はこれらに加えて、他の感覚器官でとらえた情報(印象)、自分で感じたストーリー性(出来事という物語性)などを組み合わせている。

つまり、このドラマで描かれているような録画映像は「記録」であって、「記憶」(その人個人の主観的印象を含むもの)ではないということ。

自分が感じた印象(記憶)は、こういう形では他者と共有できない。そのことをブログ記事の著者は「テキストとコンテキストの違い」として書かれている。

記憶というのは、自分が選択した(注意を向けた)部分の映像を、そこに自分が感じた印象を加えながら、部分部分として取り上げ、まとめあげたもの。だから、それらは人によってすべて異なる。

客観的映像なんていうものは、私たち個々人においては存在しておらず、それは別次元のあり方になる。

例えば、以下の動画は街を歩いている映像だが、こういう客観的映像は私たちが日常の中で見ているものとは違う。なぜなら、

・どこに注意を向けているのか?
・その注意を向けた視野にどんな印象を持っているのか?

について、何も語っていないからだ。

●Night Walk in Tokyo Shibuya (東京散歩)
youtube.com/watch?si=Y-FvpkcT0

本当はそこにこそ、それぞれの人の個性が現れるものなのに、それらがまったく伝えられない。そして、記憶というのは「このシーンとこのシーン、それからあのシーン…」と印象に残ったものの総合としてあるものだから、こういう連続的な、延長的なもの(映像)としては存在しない。

【視覚映像と記憶 -ドラマ「ブラックミラー 人生の軌跡のすべて-】

面白い記事を見つけたので、そこで取り上げられていたドラマを見た。

●NETFLIX ブラックミラー〜人生の奇跡の全て〜評論
note.com/kinajosouri/n/nee9aa5

近未来、人は体内にチップを埋め込むことにより、自分の網膜に映った映像をすべて記録するようになる。いわば「カメラやビデオの進化版」といったもの。それにより、その映像を客観的証拠(事実)として他者と共有するようになる。

このテーマ自体はとても奥が深く、いくつも考察の余地があるが、一旦脇において、ここでは「視覚映像と記憶との違い」について書いてみたい。

写真(カメラ)や動画(ビデオ)として撮った映像は、網膜に映った視覚映像を表しているが、私たちが実際に見ている映像(感じている映像)は実は同じではない。

感覚心理学・知覚心理学が示しているように、私たちは網膜(光の反射をとらえたもの)に映った映像のすべてを見ているわけではない。自分が注意を向けた部分(興味をひかれた部分)を選択し、そこを主に見ている。それ以外の情報は脳内でカットされている。

●見えているようで,見えていない?(選択的注意)
youtube.com/watch?si=eIzac8tpt

⑤ 母性の自立

変な表現になってしまったが、「母性」にも自立した表現というものがある。一般化と言ってもいい。自分が望む、特定の子供に、好きなやり方で母性を表現する―のではなく、誰に対しても、どんな人に対しても、受け入れられるような「母性(慈しみの心)」を表現すること。

映画では、このあたりを端折って表現してしまった。

あんなに身勝手で、横暴で、わがままだった義母が、最後は寝たきりになり、認知症になる。その義母が言うのだ―「ルミ子さんは私の大切な娘なの」と。

そこには、それまで散々義母に尽くしていた(大切にしていた)ルミ子の行動がある。例え、義母が私を嫌いでも、私が義母を好きではなくても、つながりのできた人を思いやっていこう。

おそらく、母性(父性も)の本質はこういう慈しみの心であり、ルミ子はこの境地にたどり着くために、これまでの苦難を味わってきたのだと思う。本当ならその軌跡こそ、しっかり描いてほしかった。

母性とはなにか?―その本質を探るなら。

⑥ 女優さんの演技力

最後に。戸田恵梨香さんと高畑淳子さんの演技が圧巻だった。

●映画『母性』 予告
youtube.com/watch?si=x4mfcZhid

・ あなた(娘)は私の望む通りの娘になりなさい
・ お母さんは私の望む通りの母になってちょうだい

それは息苦しいほどの自我の抑圧。母(ルミ子)は実母とそうなってしまったからこそ、健全な自我を形成できなくなってしまった。それは「実父の不在」という形で象徴的に表現されている。

※映画では母(ルミ子)の実父は一切登場しない

④ 親と子の相性

この映画では母が自分の娘を愛することをなかなかできない―その葛藤を描いていた。それは母が「下のものを慈しむ気持ち」がなかったからではなく、その気持ちが娘の求めるものと一致していなかったからと言える。

これはホロスコープにおける相性問題と同じで、「上の者が下の者を慈しむ気持ち」にもスタイルがある。火的であったり、地的であったり、風的であったり、水的であったり。その自分が表現しようとするスタイルが、子供の求めるスタイルと一致しないと、母は(娘も)葛藤することになる。

自分は風的に子供を慈しもうと思っているのに、子供は水的に慈しまれたいと思っている。そうなると、子供は親の思っているように行動(考え)してくれなくなり、不満・イライラを感じるようになる。

・ なんで…?どうしてなの?ねぇ、どうしてなのっ!!!!

これは親となった人が誰しも経験することではないだろうか。自分が思い描く理想的な親子関係にならない。

だが逆に、もしそういう理想的な親子関係だったら、人は健全な自我を形成できなくなる。母子一体化という執着的意識によって。

※ それは母(ルミ子)にとっての実母への想い=関係性に現れている。

③ 母性とは

この映画のテーマは「母性とは何か?」だと思うが、占星学的な観点で言えば、母性とは「上の者が下の者を意識すること」だと思う。母性というからややこしくなるのであって、上の者が下の者を意識するとは、父性も同じだし、母性も同じだし、祖父母が孫を想うのも同じ。

上次元意識と下次元意識の関係性。父性と母性なら「木星と土星」、祖父母性なら「天王星と海王星」といったところだろうか。

私たちは下の存在(子供・孫・後輩…etc)を見るとき、そこにかつての自分を見る。「あぁ、そうだよな、私も昔はこんなだったな…」。そこから長い道のりを経て、様々な経験をしてきたからこそ、そのかつての自分に「与えたいもの」がたくさんあると感じる。

・ あのとき、これを知っていたなら
・ あのとき、こういうことに気づけていたなら
・ この子には、あの頃の自分よりもっと幸せになってほしいな
・ この子には、あの頃の自分の経験をもっと活かしてほしいな

子供(孫)を慈しむ気持ちは、そういう上からの視点を伴う。能動的な視点(木星・天王星)もあれば、受動的な視点(土星・海王星)もあるが、それらすべてが「下のものを慈しむ気持ち」から生まれる。

だから、それをどう解釈するかという視点によって、記憶(出来事の意味付け)は変化する。

典型的なのが年齢による記憶の印象変化。

若い頃は「ひどく、辛い、苦しい出来事(記憶)」だったものが、歳を経て様々な経験をし、幸せをたくさん味わうようになると、その頃の記憶がとても優しく、温かいものになったりする。

例えば、殺したいほど憎んだ親に対して、自分が歳を取って振り返ると「確かに苦しかったけど、親も辛かったんだろうな」と思いやるようになり、甘酸っぱい記憶に変わったりする。

客観的事実は変わらない。それに対する自分の印象(意味づけ)が変わる―。

主観世界とはそういう印象(意味づけ)で構成されていて、だからそれは人それぞれ皆違っているということ。

② 記憶の改ざん

こういう記憶の改ざんは私たちの生活でもごく普通に行われている。それは記憶の本質に関わるテーマであり、記憶とはあくまで「自分の主観世界を形作る意味付けの体系」にすぎないから。

・自白の研究(浜田寿美男著)
・自白が無実を証明する(浜田寿美男著)

母は「世界が美しくあること」が何よりも大事だった。母は娘のことを思い、娘は母のことを思う。そこに齟齬などあってはならず、一心同体の存在として、考えも感情も価値観もすべて一致していなければならないと。それが彼女にとっての「美」であり、そのためにすべてを捧げると。

娘は「世界が正しくあること」が何よりも大事だった。愛しあっていない父と母、自分(娘)よりも祖母を愛している母、母を裏切って浮気する父、精一杯尽くす母に感謝のかけらもない義理の祖母、娘なのに愛してくれない母。理不尽で、正しさのない世界に、強い義憤を感じていると。

そういうそれぞれの価値観を投影して世界(人・モノ・出来事)を見るから、そこで起こった出来事に対して、自分の色付けをしてしまう。

記憶とは起こった事実に対して、自分がそれをどう思ったか、どう感じたか、どう味わったか―という主観的な印象のこと。

【映画:母性 -記憶の改ざんと主観世界-】

戸田恵梨香さん主演の映画「母性」を見た。この映画は「母と娘の主観世界の違い」を描いていると知って、ブログ記事に良いと思って鑑賞したのだが、ちょっと内容が重すぎて(見ていてあまり面白くない)取り上げづらいと思った。

なので、ここでのつぶやきでいいだろうと。以下思ったことを書き出してみる。

① 母の主観世界と娘の主観世界の違い

これは羅生門効果を使ってうまく表現していた。

・母が弁当箱を落とすシーン
・娘がひざまずいて「ごめんなさい」と謝る際に、抱きしめた(or 抱きしめなかった)シーン

母と娘でまったく異なるシーンとして描かれている。

客観的事実がどうだったかは別にして、これは母と娘それぞれの主観世界(記憶)を描いているのであり、母は「ショックを受けて弁当箱を落としてしまった」との印象を持ち、娘は「自分に対する怒りでわざと弁当箱を落とした」との印象を持ったということ。

最後の謝るシーンにしても、母は「愛しさから娘を強く抱きしめた」との印象を持ち、娘は「愛おしさはあっても私を抱きしめるのは躊躇した」との印象を持ったということ。

これは母と娘それぞれが持つ主観世界によって「意味づけられた記憶」であり、それぞれの価値観が反映されたものにすぎない。

これなら蠍座の性質を見事に表現できることになる。

・愛、性愛(SEX)、他者との同一化、生命、妊娠…etc

【追記】

以前書いた記事でも同じテーマを考えていた。この頃はまだ深く考察できておらず、単純にナラティブ・アプローチの「語りと聞き」を構造論的に当てはめただけだった。ただ「自他の双対性」として捉えているところは参考になる。

●【語りと聞きの関係性】2022.06.07
lean-paste-7c0.notion.site/202

    [自己側]            [他者側]
天秤座(7)=語り手(語るもの) 蠍座(*8)=聞き手(語れれるもの)
蠍座(8)=聞き手(語られるもの) 天秤座(*7)=語り手(語るもの)

人は自分の内部でも自己語りする際に「語り手」と「聞き手」の両方を発生させる。と同時に、その関係性を他者との間にも発生させる。

個体構成(アイデンティティ化)には、こういう2重の仕組みがあるようで、自己としてのアイデンティティを実体化させる(自己内での語りと聞き)仕組みと、他者によってそのアイデンティティを承認される(他者に向けての語り)仕組みの2つがあるのではないかと。

そう考えると、蠍座(8)としての意識が「自己アイデンティティとしての実体化・生命化」であるのと同時に、「他者アイデンティティを承認(理解)・それによって自己内部に他者を存在化させる」作用を持つのかもしれない。

【訂正画像】

※ まだこの画像も正確ではないと思われる。

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