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三宅 芳夫 さんがブースト
三宅 芳夫 さんがブースト

BT

リコー、大幅な首切りするみたいですね。

ZEN大学提携企業としていち早く名乗りもあげたし、
以前から「ノースゲイト」にも関わっていたし

今後は「社会との接点がうまくもてなかった若者の受け皿」みたいな「社会的事業」をやっている外観で、
安い労働力をさがす方向にシフトしていくのでしょうか。

ノースゲイト、ノースガイア事件については、こちらの〔参照〕から過去投稿を読んで下さい。→ [参照]

 「重要な訂正」

 「偽善は遥かに露悪に勝る」です。「偽悪」では意味が通りません。失礼しました。

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 私は、今度の米大統領選までで「テイラー・スフィフト」という人を知らなかったのだが、英米ではえらい人気があるようだ。

 トランプが偽造画像で、スフィフト氏が自分を支持しているかのような発信をしたかと思えば、今度はスフィフト自身がハリス支持を表明というニュースが米のみならず、BBCやガーディアンで一面トップ扱いで報道されていた。 
 しかし、何故BBCやガーディアンのニュースでスフィフト氏が水着を装着しているのか、と思ったけれども、これはコンサートの画像らしい。

 しかし、大統領選のハリス支持表明の際に、このコンサートの画像が使われるというのは、英米人にとっては、スフィフト氏は今よっぽど「セックス・アピール」がある人、ということなのだろう。

 大陸欧州ではそれほどではない気がするのだがー勿論私の「ポップス」認知力は当てにならないー日本ではどうなのだろうか?

 それにしても、昨日のTV討論も含めてトランプ陣営、副大統領候補バンスも含めて、これはもう「ナチスばり」の確信犯デマキャンペーンという他ない。

 ハリスにもそう大きな期待は持てないが、しかし政治においては「偽善ははるかに偽悪に勝る」ことは言うまでもない。

 あとは、パレスティナ問題の収束に向けてどういう展望を示せるかに掛かっている。

ヘーゲルの影響力はマルクス、ブルーノ・バウアーなど次の世代に大きな影響を及ぼし、青年ヘーゲル派が形成されます。

 しかし、マルクスをはじめヘーゲル左派が1848年革命に積極的に参加したために、革命の敗北後青年ヘーゲル派は大学から追われることになる。

 これが20世紀のWWI後ヘーゲル復興が起こるまで、ヘーゲルがドイツ思想界でも圧倒的に周辺化された第一の理由(ヘーゲル右派は残存したものの、これは思想的にはとるに足らない)。

 もう一つヘーゲル哲学が退潮した理由としては、19世紀半ばからの数学、科学の発展にヘーゲル派が対応できなかったことにある。

 代わってカント派が、数学、熱力学、電磁気学、相対性理論、最後に量子論に対応する科学哲学を引き受けた。H.コーエンやE.カッシーラーがその代表。彼らの多くがユダヤ人であったこともあり、政治哲学としては、カント的な普遍主義を選択。「民族Volk」の哲学を唱えるハイデガーとカッシラーの対決は有名である。

 日本のマルクス主義は主にヘーゲルに依拠したが、哲学は低調。従って科学の妥当性の「根拠と範囲」を批判的に吟味する作業は等閑にされた感がある。

例外は京都学派左派の三木清と戸坂潤である。戸坂はリーマン幾何学とミンコフスキー空間を踏まえた相対論を展開した。

三宅 芳夫 さんがブースト

UN AUTRE 11 SEPTEMBRE : 1973, LE COUP D'ÉTAT AU CHILI

Aujourd'hui, alors que le monde est focalisé sur le sinistre anniversaire des attentats du 11 septembre 2001, souvenons-nous d’un autre 11 septembre : celui du coup d’État militaire d’extrême droite au Chili, et ce qu'il dit de la férocité capitaliste.

Notre article à lire ici : contre-attaque.net/2024/09/11/

 ヘーゲルの有名な言葉に「主人は下僕の下僕である」というものがあります。

 つまり主人は「労働」をしない、下僕、召使、小作人が「労働」をすることで、「主人」足り得ている。

 また承認論に焦点を合わせれば、主人は「下僕」が「下僕」としての役割を果たすことで、はじめて「主人」という「アイデンティティ」を得ることができる。

 つまり、労働への依存と承認の双方で「主人」は「主人」であるために「下僕」に依存している、ということになる。

 『精神現象学』では、「労働」に関する記述と「承認」に関する記述が重ね合わせられており、このあたり一読してわかりやすいとは言えない。

 1930年代仏でのA.コジェーブによる『精神現象学講義』は圧倒的に承認論に焦点を絞るものだった。出席者はメルロー=ポンティ、ラカン、バタイユ、イポリット(ENSのサルトルの同級生)など。J.バトラーの学術的研究の対象である。バトラーにとって「アンティゴネー論」に見られるよう、ヘーゲルは重要な参照枠であり続ける。

 またヘーゲルの承認論はP.ギルロイの『ブラックアトランティック』にも応用されている。

 ところで、私は日本のヘーゲル研究者の入門書、権左さん以外読んだことないのだが、ここで書いたことくらいは紹介してあるのかな? [参照]

 今月の「文芸春秋」、でかでかと「驕るな、自民党!」という東浩紀と御厨貴の対談を出している。

 御厨貴は東大名誉教授、サントリー文化財団理事、サントリー(株)取締役でもある。

 専門は日本政治史だが、伊藤隆、佐藤誠三郎の薫陶を受けただけあって、「オーラル・ヒストリー」と称して、権力者の自慢話を聞き、それを業績と称する古典的な御用学者である。

 学者でありながら同時に各種メディアに登場、小沢一郎の「日本改造計画」の政治部門を担当したと言われている。御厨は読売のナベツネと親しく、2000年頃のインタビューの記録に責任者的に関わった。学者というよりも政治部記者、という感じの男である。

 さて、同じくサントリー学芸賞を貰い乍ら、今や維新のイデオローグになり下がった東浩紀、これは他言を要しないだろう。

 文芸春秋の対談は、決して「驕る」自民党政権を打倒しろ、という趣旨ではなく、政権政党は自民党と決めつけた上で、選挙の時だけ「聞く力を示せ」という東の生まれる前から反復されているパフォーマンスである。

 今、維新が兵庫県知事の醜態で支持率を急激に下げているので、自公政権は、あるいは現状を維持できるのでは、と期待が高まっているのだろう。

 しかしあの「驕慢」の塊の東が「驕るな」と説教とはちょっと笑った。

三宅 芳夫 さんがブースト

BT

ヘーゲル以前は、法的な主体は「家長」だけだったけど、
ヘーゲルが、「下僕がいないと主人もいない」という自身の有名な論から、
「家長に従っているひとたちも法的な主体に含める」という考え方を導き出した、ということかな? [参照]

 しかしヘーゲルも又、1802-1802年までは、未だ古典的な「政治=社会論」の枠内にいました。

 ところが、1803-4年、1804-5年のイエナ講義において、「相互的承認」を求める闘争、つまり主人(Herr)と下僕(Knecht)を共に「自己意識」という点では対等な両者の闘争が、倫理性一般すなわち「法」を生み出す、とするに至ります。

 この急激な変化は、勿論フランス革命とその後の展開を背景にしたものです。

 そして1806年アウステルリッツ、1807年イエナ・アウエルシュタットでナポレオンが、オーストリア、ロシアそしてプロイセンを連破する状況で、この相互的承認を巡る闘争において「労働」が決定的な契機を占めると考えられるようになり、これが『精神現象学』(1807年)の「自己意識の自立性と非自立性 主人Herrと下僕Knecht」へと結実していく。

 この「労働」への着目からヘーゲルはA.スミスの政治経済学をも視野に入れた体系の構築に突き進むことになる。

 ちなみにヘーゲルは生年はナポレオン(1769)と一年違いの1770年であり、生涯フランス革命とナポレオン賞賛者であり続けた。

 この文脈において、ウィーン体制においてもヘーゲルはドイツに均等相続を規定した仏民法典の導入を主張したのである。

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ここで言う、「21世紀の社会主義」とは20世紀の共産主義とは全く別物です。

 詳しくは、今年上梓された拙著『世界史の中の戦後思想』(地平社)、序章「自由主義・民主主義・社会主義」及び第一章「自由主義ー民主主義の体制の終焉?」をご参照下されば幸いです。

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  であるから、自民内部の「派閥」による疑似政権交代や、立憲と維新の野合などは問題外の「外」。

 メディアは頻りに「キャンペーン」を打ち、自民、立憲双方も一応女性候補を出して「多様性」を装っていみせるが、目下の物価高と生活水準の悪化に苦しむ一般庶民には全く響かないだろう。

 要するに、仮に突破口があるとしたら、「21世紀の社会主義」を長期目標とした、リベラル左派の結集、この道にしかない。

 それ以外の方向は、仮に世界の他の地域の文明が続くとしても、日本社会の崩壊にしか繋がらないだろう。

 緊喫の焦点は、漠然と渦巻いている「世直し願望」、これがどのように政治的回路に接続してくか、これである。

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 新自由主義的再編が世界的に開始されて、およそ50年である。

 50年というと、1945-1991年の冷戦期間より長い。

 この50年で世界の風景は劇的に変化した。米国では90年代にクリントン政権が新自由主義化・右傾化し、もはや中道右派と極右の2択となっている。

 そして、中東では78年にエジプトが米・イスラエルに屈服した後、もう50年もパレスティナ人は「テロリスト」として孤立した闘いを強いられている。現在の一方的な大虐殺は、ついにWWII以来の国際秩序の正当性を崩壊させるに至った。

 また新自由主義的再編に巻き込まれたラテン・アメリカ、アフリカなどの地域は、生態系的にも激変。政治的にもブラジルのブルゾナロのようにトランプの同盟者まで現れるに至った。

これらと比較すると、一見変化に乏しい日本だが、この50年で産業の空洞化、格差と貧困の拡大、レントへの依存によって、もはや社会は崩壊寸前である。

次期首相候補が「解雇自由化」を主張するようになっては、従来の「自民党型調整システム」もまた近々崩壊するだろう。

となると、代わりに「民主主義」の名に値する政治システムの構築がなされなければならない。

これに失敗すれば、操作された権威主義的ファシズムの危険性が増大する。これだけは避けなければならない。

三宅 芳夫 さんがブースト

"野太郎デジタル相は3日、必要な人に対象を絞って物資や補助金などを支給する「デジタルセーフティーネット」をつくる意向を示した。"
nikkei.com/article/DGXZQOUA033
"税や社会保険料など所得に関するデータを国が一元的に管理する。"

ここが重要。

解説と感想:
マイナンバー制度発足の頃に「日本の財政を救うため、徴税捕捉率を高める狙いだ」との話を聞いた。主婦パートや副業などを含め、庶民から漏れなく税を取る仕組みがマイナンバーです。

記事ではセーフティネットの話であるかのように書いていますが、国から見たマイナンバーは「お金を配る」仕組みである以前に「お金を取る仕組み」であることに注意が必要です。

これはエストニアの電子政府も同様。エストニアのように「確定申告が不要」なレベルまで効率化すれば国民にもメリットが出てくるかもしれませんが、日本ではどうなるでしょうか。

ギリシア・ローマの政治共同体では、建前上構成員は自由・平等、とされていました。勿論、実際、特にローマは寡頭制であったわけですが。

 従って、古典古代ではポリスについての学、「政治学」が発達。他方、経済については「家 オイコス (economieの語源)」が担当するものとされた。これが家政学。

 「自由かつ平等な」政治社会の構成員は、この「家」の長に限定される。ただし、この場合の「家」は近代家族的な核家族ではなく、一種の「一族」のようなもの。

 この古典古代の原則は、近世・初期近代の政治学にも受け継がれる。ロック、あるいは大陸のプーフェンドルフ、ヴォルフ、さらにはカントに至るまで、社会契約の主体は家長なのです。

 これと関連して、H.アレント『人間の条件』でざっくり述べているように「労働 labor」は政治空間から排除される。
 他方、「所有権」は自由の保障として古典古代の言説からきめ細かく規定される。ローマ法継受のポイントの一つはこの所有権。

 ロックは労働を重視したとされるが、それは所有権に回収される。従って下僕の労働は家長の所有権の下に立つ。カントでもそうです。

これに対して、主人(Herr)に対する奴隷・下僕(Knecht)の労働にはじめて(法)哲学的意味を見出したのがヘーゲルです。

自民党党員・党友内での支持、1位石破、2位小泉進次郎、3位高市早苗という。河野太郎は、「保険証」廃止の振る舞いで、数パーセント。衆院用の「石丸」か思われた「コバホーク」とやらも全く振るわない。この「コバホーク」、宏池会の林へのあてつけか「保険証廃止延期はあり得ず」とわざわざ表明している。

 ところで、選挙を担う党員として、選挙用には「安倍的なもの」を刷新したい、その点から言うと石破1位は合理的ではある。
 しかし、2位、3位の顔ぶれを見ると、もう自民党という政党には国政を担う人材そのものが払底していることがわかる。これは党の体質でもあり、安倍の手下でしかない高市が3位、というのはかなり「閉じた社会」である。

 しかし、ここのところの総裁選キャンペーンが功を奏して現時点では自民党第1党は動かないと云ふ。やれやれ。

 逆に長引く兵庫知事問題で維新の支持率は急落。これは少なくとも兵庫では議席を失うだろう。
 この状態で維新との連携を打ち出す立憲主流派の「センスの悪さ」には驚嘆する他ない。

 一方共産はメディア広報のあおりをくって現在令和を少し上回る程度。

 これから自民、立憲の総裁選次第で状況は多少動くだろうが、「リベラル左派」にはなかなかに厳しい状況である。勿論中期的には可能性はあるけれども。

 欧米における「ローマ」の亡霊

 中世以降(10世紀以降)、商業の復活と国家機構の整備に伴ってローマ法が「再発見」、時代・地域に応じて加工・変形しながら現代に至ることは以前投稿しました。こと法特に民法典に関しては、日本は独・仏・米の「雑種」ですから、この系譜に無縁ではありません。

 ところで、ローマと一口に言っても歴史は長い。キケロが生きたBC1世紀とユスティニアヌス帝の6世紀では500年の差がある。

 ドイツにとってもローマとはユスティニアヌスのローマ法。

 対してフランスは北フランスは均等相続、世代間同居を禁止する慣習法が支配的。
 またフランス革命の際、革命の祝典をはじめ政治的にローマ共和政の再現が演出されますが、ナポレオン法典はむしろ慣習法と17,18世紀の自然法の混交である。

 さらに言うと、政治的公衆を説得するための「雄弁と修辞」が重視されたため、法技術よりもキケロ的雄弁術が圧倒的に発達した。

 法律家の代表が英国では裁判官、ドイツでは大学教授とされるのに対し、仏では弁護士の法廷における雄弁と修辞が前景化するのはそのためである。

 仏における「雄弁と修辞」、これは政治家にも要求される。イラク戦争の際の国連におけるド・ヴィルパンの演説などはその一端。ここは日本とあまりに対照的。

三宅 芳夫 さんがブースト

(フロントランナー)斎藤真理子さん 「韓国と日本は似ていて、違う」
asahi.com/articles/DA3S1602678

「 近年、日本と韓国は生活水準がほぼ同じになり、生活感覚は似てきたと思います。でも歴史感覚が違う。韓国では、歴史が人々のど真ん中を直撃している。とくに作家たちは歴史に真剣に向き合っている。どの土地にも無念の死はありますが、とりわけ韓国の現代史は過酷で厳しいものです。死者が400万とも500万ともいわれる朝鮮戦争は朝鮮半島全土で地上戦が行われた。この戦争が韓国文学の背骨なのです。

 91年から1年半、韓国に留学した時、どんな地方にも戦争の傷痕が残っているのを知り、驚きました。今も南北は分断され、休戦状態です。しかも済州島4・3事件であったような大虐殺は語ることも許されず、なかったことにされた。それが植民地時代から光州事件まで続いている。作家たちがセウォル号事故に思いを傾けるのもこの歴史の延長と見るからでしょう。

 韓国文学を追うと、いかに無念な死の堆積(たいせき)の上で人々が懸命に生きてきたかがわかります。その歴史に日本が大きく関わっているのに、日本では朝鮮戦争が知られていない。「韓国文学の中心にあるもの」を書いた理由はそこにあります」


QT: fedibird.com/@chaton14/1130916
[参照]

しゃとん  
先日、堀田善衞『広場の孤独』のことを投稿しました。 そういえば、斎藤真理子さんも『広場の孤独』によく言及されてるなぁと思いだしました。 あらためて、斎藤さんの『韓国文学の中心にあるもの』をめくると、崔仁勲『広場』と対照させるかたちで紹介されていました。 斎藤さんのこの本、 『82年生まれ、...

小泉進次郎が総裁選公約で「解雇規制の見直し」を出して来た。これは「ついに来たか」という感慨である。
 
 考えて見れば小泉父の際に始まった派遣労働規制の撤廃によって、現在日本の労働者の4割が非正規、20代、女性では5割を遥かに上回る。

 日本はドイツと異なり法律上の解雇規制はなく、判例と慣習によって「ある程度」経営側による一方的な解雇が規制されてきたに過ぎない。

 小泉は「大企業に限る」などと超テキトーなことを言っているが、一旦解雇規制の撤廃が始まれば、あれよあれよという間に中小企業にも広がり、米国並みになるだろう。
 「正社員」切りは30年前の「新時代の日本的経営」の立案者達の「真の意図」だった。その際は政治的力関係でそこまではやれなかったが。

 ただ、それでいて、軍需企業や日本製鉄、電力会社、三菱系、住友系、三井系などのごく一部の大企業だけが「終身雇用・年功序列」に守られた「労働貴族」として残ること、これは間違いない。

 そう考えて見ると、旧財閥と軍需産業という意味では、経済・雇用という点でも「戦前」に回帰することになる。

 異なる点では戦前には人口の多数を占めた農業、零細自営業の余地がほとんどないこと。

 しかし、正社員の解雇規制の撤廃となると政治的には完全にカオスだろう。

  [参照]

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