先日、堀田善衞『広場の孤独』のことを投稿しました。
そういえば、斎藤真理子さんも『広場の孤独』によく言及されてるなぁと思いだしました。
あらためて、斎藤さんの『韓国文学の中心にあるもの』をめくると、崔仁勲『広場』と対照させるかたちで紹介されていました。
斎藤さんのこの本、
『82年生まれ、キム・ジヨン』から始まり、セウォル号事件・ろうそくデモ、IMF、光州事件、とさかのぼって、朝鮮戦争、1945年まで文学作品とともに現代史をたどっていきます。
単なるブックガイドではなく、文学作品を通じて、その時代に朝鮮半島(そして日本)に生きた人々がどのような現実を生きていたのか、そしてそれは現在進行形の私たち自身の現実とどう繋がっているのかを知るための現代史のガイドブックだと感じます。
この本を開くたび、今自分が生きている現実の背後にある膨大な歴史の重なりを、私はなにもわかっていなかったのだ、と思い知るのです。
(フロントランナー)斎藤真理子さん 「韓国と日本は似ていて、違う」
https://www.asahi.com/articles/DA3S16026781.html
「 近年、日本と韓国は生活水準がほぼ同じになり、生活感覚は似てきたと思います。でも歴史感覚が違う。韓国では、歴史が人々のど真ん中を直撃している。とくに作家たちは歴史に真剣に向き合っている。どの土地にも無念の死はありますが、とりわけ韓国の現代史は過酷で厳しいものです。死者が400万とも500万ともいわれる朝鮮戦争は朝鮮半島全土で地上戦が行われた。この戦争が韓国文学の背骨なのです。
91年から1年半、韓国に留学した時、どんな地方にも戦争の傷痕が残っているのを知り、驚きました。今も南北は分断され、休戦状態です。しかも済州島4・3事件であったような大虐殺は語ることも許されず、なかったことにされた。それが植民地時代から光州事件まで続いている。作家たちがセウォル号事故に思いを傾けるのもこの歴史の延長と見るからでしょう。
韓国文学を追うと、いかに無念な死の堆積(たいせき)の上で人々が懸命に生きてきたかがわかります。その歴史に日本が大きく関わっているのに、日本では朝鮮戦争が知られていない。「韓国文学の中心にあるもの」を書いた理由はそこにあります」
#斎藤真理子 #韓国文学
QT: https://fedibird.com/@chaton14/113091696594408314 [参照]