ギリシア・ローマの政治共同体では、建前上構成員は自由・平等、とされていました。勿論、実際、特にローマは寡頭制であったわけですが。
従って、古典古代ではポリスについての学、「政治学」が発達。他方、経済については「家 オイコス (economieの語源)」が担当するものとされた。これが家政学。
「自由かつ平等な」政治社会の構成員は、この「家」の長に限定される。ただし、この場合の「家」は近代家族的な核家族ではなく、一種の「一族」のようなもの。
この古典古代の原則は、近世・初期近代の政治学にも受け継がれる。ロック、あるいは大陸のプーフェンドルフ、ヴォルフ、さらにはカントに至るまで、社会契約の主体は家長なのです。
これと関連して、H.アレント『人間の条件』でざっくり述べているように「労働 labor」は政治空間から排除される。
他方、「所有権」は自由の保障として古典古代の言説からきめ細かく規定される。ローマ法継受のポイントの一つはこの所有権。
ロックは労働を重視したとされるが、それは所有権に回収される。従って下僕の労働は家長の所有権の下に立つ。カントでもそうです。
これに対して、主人(Herr)に対する奴隷・下僕(Knecht)の労働にはじめて(法)哲学的意味を見出したのがヘーゲルです。
しかしヘーゲルも又、1802-1802年までは、未だ古典的な「政治=社会論」の枠内にいました。
ところが、1803-4年、1804-5年のイエナ講義において、「相互的承認」を求める闘争、つまり主人(Herr)と下僕(Knecht)を共に「自己意識」という点では対等な両者の闘争が、倫理性一般すなわち「法」を生み出す、とするに至ります。
この急激な変化は、勿論フランス革命とその後の展開を背景にしたものです。
そして1806年アウステルリッツ、1807年イエナ・アウエルシュタットでナポレオンが、オーストリア、ロシアそしてプロイセンを連破する状況で、この相互的承認を巡る闘争において「労働」が決定的な契機を占めると考えられるようになり、これが『精神現象学』(1807年)の「自己意識の自立性と非自立性 主人Herrと下僕Knecht」へと結実していく。
この「労働」への着目からヘーゲルはA.スミスの政治経済学をも視野に入れた体系の構築に突き進むことになる。
ちなみにヘーゲルは生年はナポレオン(1769)と一年違いの1770年であり、生涯フランス革命とナポレオン賞賛者であり続けた。
この文脈において、ウィーン体制においてもヘーゲルはドイツに均等相続を規定した仏民法典の導入を主張したのである。