ヘーゲルの影響力はマルクス、ブルーノ・バウアーなど次の世代に大きな影響を及ぼし、青年ヘーゲル派が形成されます。
しかし、マルクスをはじめヘーゲル左派が1848年革命に積極的に参加したために、革命の敗北後青年ヘーゲル派は大学から追われることになる。
これが20世紀のWWI後ヘーゲル復興が起こるまで、ヘーゲルがドイツ思想界でも圧倒的に周辺化された第一の理由(ヘーゲル右派は残存したものの、これは思想的にはとるに足らない)。
もう一つヘーゲル哲学が退潮した理由としては、19世紀半ばからの数学、科学の発展にヘーゲル派が対応できなかったことにある。
代わってカント派が、数学、熱力学、電磁気学、相対性理論、最後に量子論に対応する科学哲学を引き受けた。H.コーエンやE.カッシーラーがその代表。彼らの多くがユダヤ人であったこともあり、政治哲学としては、カント的な普遍主義を選択。「民族Volk」の哲学を唱えるハイデガーとカッシラーの対決は有名である。
日本のマルクス主義は主にヘーゲルに依拠したが、哲学は低調。従って科学の妥当性の「根拠と範囲」を批判的に吟味する作業は等閑にされた感がある。
例外は京都学派左派の三木清と戸坂潤である。戸坂はリーマン幾何学とミンコフスキー空間を踏まえた相対論を展開した。