鶴見俊輔と網野善彦
鶴見さんと網野さんは、それぞれ1922生、28年生だから現在の感覚では同世代。
しかし、十代半ばで渡米、都留重人の下で批判的マルクス主義を学び、捕虜交換船で帰国後も「反ファシズム」の内心を持ち続けた鶴見さんと軍国少年であった網野さんの「戦争」経験はかなり異なる。
とは言え、ともに「民衆」を語る二人が、「対談」したのは1993
年がはじめて、というのは意外でもある。
これを読むと、網野さんにとって1950年代の「国民的歴史学」と石母田正が如何に大きな存在であったかがよくわかる。
他方、鶴見さんは認識論としてはカルナップ的論理時実証主義の脱構築としての「プラグマティズム」だから、戦後マルクス主義の「真理」論は、ほとんど意に介さず、石母田の当時の論文なども「おやおや」という印象だった。
この辺り、戦後歴史学と戦後思想の錯綜した関係を示すエピソードではある。
また近代日本は結局金時鐘など「在日」の詩人以外は「長詩」を書けなかった、という鶴見さんの指摘は鋭い。「明治以降、何故日本人が長詩が書けなくて、在日朝鮮人がかけたか・・在日日本人の場合、息が短い」。これは研究に値すること。
その他、気軽に読めながらも、知的刺激も満載の1冊です。
『陽の末裔』
私が読んだのは、単行本になってからだが、連載は1985年から。
「陽の末裔」とは平塚雷鳥の「原始女性は太陽であった」から来ている。
東北北部から紡績工場に出された二人の少女の人生を軸にした大河ドラマでもある。
一人はジャーナリストとして労働運動、女性解放運動に取り組んでいく。その中で社会主義運動の中にもある「女性差別」にも気づいていく。
とは言え、幸徳秋水の子である男(創作)と別れて、元特高刑事と結ばれるのは、プロットとして無理があると思うが。尚、前夫は別にDV夫ではない。
今一人は、子爵夫人として社交界の中心となり、実業にも乗り出す。
しかし、両者とも30年代の軍国主義には批判的。
家族内部の葛藤に関しては竹宮恵子、山岸涼子の方が詳細・リアルだが、大正・昭和の女性視点の大河ドラマとしては一読に値するのではないだろうか。
いずれにせよ、タイトル「陽の末裔」はうまい。
(承前)
このインドネシアの1965年の虐殺の「マニュアル」は60年代半ばから70年代にかけてのラテンアメリカの軍事クーデターに転用されていきます。
典型的な例が、73年のチリのアジェンデ政権をCIAとピノチェト、そして民間右翼が連携して打倒したクーデターです(当時民社党幹部は「天の声」と讃えた)。クーデター直前にはサンチャゴ(首都)の至る所に「ジャカルタが来る」というグラフィティが突如現れ、住民たちをパニックに陥れました。
このクーデターの指揮棒を振ったニクソン=キッシンジャーはベトナムに見切りをつけて、すでに大きな亀裂の入っていた中ソの間に楔を打ち込む、という戦略を採用していく。
ちなみに「全体主義」と「権威主義的独裁」という対比は、米国にとってアジェンデ(全体主義)とピノチェト(権威主義的独裁)を比較して、後者が「まし」という(屁)理屈として多用されます。
選挙で選出されたアジェンデをどう定義すれば「全体主義」になるのか不明ながらも、この語用は東アジア・東南アジアにも適用されます。
つまり韓国の軍事政権や日本の自民党は「権威主義的独裁」ではあるが、「左派」=「全体主義」に政権を奪われるよりはまし、という発想。
インドネシアをはじめ、タイやシンガポールなども同様の位置付けで米国は支援。
「アクト・オブ・キリング」と「Look of silence」(上)
1965年ーベトナムへの北爆が始まった年ーインドネシア、スハルト派軍部とCIAの連携、民兵集団の動員により、数百万ともよばれるインドネシア共産党員及び関係者が虐殺されました。
ジョシア・オッペンハイマー(ユダヤ系)監督による、この二つのドキュメンタリーは、加害者(とくに民兵集団)にインタビューを進める過程を映像化しています。
後者には被害者の関係者も登場します。
恐ろしいのは、この大虐殺は未だインドネシアでは公的に批判の対象になっておらず、関係者の処罰も行われていないこと。むしろ被害者側のサバイバーが、身を潜めて生きていかなければならない。
スハルト政権自体は倒れたとは言え、インドネシアのエスタブリッシュメントが、「虐殺」に加担した側との連続性が強いことが根本的な原因でしょう。
本来、インドネシアを研究フィールドにしていたB.アンダーソンはこの事件に関してスハルト政権を強く批判したため、長く入国を拒否され、結果として広く東南アジア全体を研究対象としたため、「比較の亡霊」という名著も生まれました。
日本ではどうも「想像の共同体」を文脈抜きに使いまわす時期が長すぎた。誤訳もかなり多い。
「米ソの宇宙開発競争と映画」
A.タルコフスキー「惑星ソラリス」、ゲルマン「神々の黄昏」、A.ゲルマンJr「宇宙飛行士の医者」。個人的にはA.ゲルマンが初期のものを含めて好きなのですが、
趣味とは関係なく、ソ連時代の米国との宇宙開発競争を背景とした枠の映画が多いです。
ロシア時代に入ると現実では「宇宙開発」というよりは、「宇宙戦争」テクノロジーを競い合っています。映画でもゲルマンJrが枠としては「宇宙開発」(この場合はスプートニク時代を背景にしている)を使っているのを見て、やはりつづいているのだなぁと。
ちなみに一時代話題になった火星の地球化(プロジェクト「テラ・フォーミング」)は、米国でも当面無理だと判断されたようです。
私も、素人ながら、重力、気象などからして数十億年かけて地球の条件で進化した脆弱な「ヒト」が移住するのは不可能だと思います。
その前に地球の生態系が破壊されてしまう可能性の方が高いので、そちらの方が直近の問題でしょう。
こうした流れを反映してか、SF本場のハリウッドでもF..K.ディック原作の「トータル・リコール」第一作は火星を舞台にしていましたが、リメイクバージョンは近未来地球の超階級社会を舞台にしていました。
シモーヌ・ド・ボーヴォワール『第二の性』改訳版
『第二の性』、生島遼一訳を1994年に改訳、さらに加筆修正の上、この3月河出書房新社から出版されました。
訳者あとがきによれば、1988年に「第二の性を原文で読み直す会」に参加した際には、日本でもボーボォワールに対する評価は芳しくなく、その背景の一つに「ポストモダン思想の流行」があったとある。
1988年であれば、おそらく訳者の実感は正しいだろう。
評価が芳しくなかったもう一つの理由は明らかに戦略的なもので「ボーヴォワール」が「男性的主体」を目指す「近代主義」というものだった。
この後者の批判、上野千鶴子さんもいつもしていた。私は上野さんのゼミでこの点を巡って―険悪ではなくー論争したのをよく覚えている。
ところが機を見るに敏な上野さんは、最近すっかりボーヴォワール派になったようだ。これは仏本国のクリステヴァでも同じだが。
フランスでも女性に参政権が与えられたのはWWII以後であり、1949年出版の『第二の性』が影響力をもつのは70年代を待たねばならなかった。
『第二の性』、サルトルの「実存的精神分析」と深い関係があり、現在の英語圏でのクィアーセオリーとも交差する(同じではない)。初読・再読・三読されるに値するテクストです。
著者の酒井隆史さんからご恵贈いただきました。ありがとうございます。
「賢人と奴隷とバカ」、なかなかに挑発的なタイトル。
ただ、中身を読むと、「賢人」=左右の対立を「ない」とする中道学者。事実上サントリー・笹川・上廣財団の提灯学者。
「奴隷」=「賢人」たちの文化ヘゲモニーの下、破滅へと自らひた走るレミングの群れ。
「バカ」は頑固なまでに、「賢人」という指揮者の振る狂騒曲に加わらないリア王のような狂人。
いつもながら刺激的な問題提起。レイシズムを考える上ではサルトルの『ユダヤ人』を再読すべし、と序文で長く引用している。
これは別に私へのエールではない。実際サルトルの『ユダヤ人』にはレイシストの心理が類のない鋭利さで分析されている。
「歴史学研究会」について
どうも最近またまた私が全方位に砲撃しているような誤った印象を与えているような気がします。
マスメディアに関しては「致し方ない」とマストドンの読者の方もご納得いただける筈。
問題は研究者です。確かにここまで私は人文社会科学のほぼあらゆる分野に砲撃を加えてきたように映るでしょう。
しかし現在はほとんどの分野において権力に距離を取りながら社会、思想、哲学を分析する、というスタイルはほぼ崩れ去りました。勿論、例外的に優秀な方は数多くいらっしゃいます。ただ、それは個人であって、「学会」としての「コンセンサス」があるわけではない。
しかし、ここに一つ例外があります。「歴史学研究会」です。通称「歴研」、この研究会は「プロ」の研究者だけでなく、「アクチュアリティ」と歴史記述との関係を常に問いただし、アマチュアの方とも交流するスタイルを保持している唯一の「学会」と言えるでしょう。
ここで急いで付け加えると、私は歴研メンバーでもなければ歴研大会にも行ったことがなく、決して歴研の「回し者」でないことは保証します。
21世紀現在、我々が大分岐点に立たされていること、これは間違いない。ここから未来を構想するためにこそ「過去」から学ぶこと、つまり「歴史」を学ぶことが不可欠になるのです。(続く
アキ・カウリスマキ、27歳のデビュー作「罪と罰 白夜のラスコーリニコフ」
ヌーヴェルバーグと小津安二郎の影響がきわめて強く、まだ後年のカウリスマキの作風ではないとは言え、映像的完成度は非常に高いです
。
ただ、最後は微妙な流れながら、結局ラスコーリニコフが自首(懲役8年)する点は、ブレッソンの「罪と罰」ではイギリスに亡命して、恋人ものち合流、そのまま逮捕もされず、「暮らしました」という落ちとは異なりました。
ブレッソン(これもヌーヴェルバーク的映像)の方はいかにもフランス的ですが・・・
とは言え、カウリスマキ・バージョンでも「大地に接吻して許しを請う」という流れではなく、監獄でもあくまで「反社会的」な姿勢を崩さず、というラストです。
カウリスマキやドストエフスキー、あるいは小津安二郎がお好きな人にはお勧めです。
先日、BBCとガーディアンが岸田ウクライナ訪問を小躍りして報道していることを投稿しました。
他方、仏の月刊誌「Le Monde diplomatique」3月号では1面トップ、計3面使って「軍事費倍増」を「平和主義の終焉へ」と批判的に報道・分析しています。
ここではロシア・北朝鮮を「敵」と見做し中国を「戦略的競争国」と区分していることまで紹介されています。
下に貼り付けた地図は現在の東アジアの地政関係。「米国の保護下にある海軍大国」という皮肉なタイトルつき(たしかに経費では世界2位)。
星印は米軍基地。首都圏以外には沖縄に集中していることが一目でわかります。在日米軍53973、在韓米軍25372、と一桁まで記してある。これに日本・韓国には戦略核を配備(原潜)している訳だから、核を実戦配備していない中国との非対称は明らかです。
ちなみにLe Monde diplomatiqueは日刊紙のLe Monde とは全く別。近年ネオリベラル化著しいLe Mondeと対照的な「左派」の雑誌。
Mediapartは右傾化するル・モンドと袂を分かった記者たちが2008年に創刊したメディア。こちらは新自由主義に批判的な記事を多く掲載。
ただ国際的な記事・論説はDiploが有益です(尚両誌とも英語版あり)。
「人文学と社会科学の架橋」
何度か、人文学と社会科学の架橋の必要性について投稿してきました。
2000年代に「ディアスポラ」と「新自由主義グローバリズム」双方について、この視点から思想史、文学、歴史学、政治学、経済学など専門を異とする人々と共同研究を行いました。
「ディアスポラ」研究は、ポストコロニアル研究の延長線上でもあり、当時の日本としては先駆的なものであったと思います。ただ、栗田禎子先生の「伝説の締め切り破り」のために発刊1年半は遅れましたけれども。
こちらの研究に参加、ご寄稿いただいた多くの方が「歴史学研究会」編の「歴史学のアクチュアリティ」に参加していらっしゃいます。
人文学の細分化と社会科学の体制化の中、現在直面している新自由主義グローバリズムと近代世界システムの危機を長期・中期・短期それぞれの次元において、分析・叙述する中で、新しい学問、批判理論を練り上げることが求められている、と思われます。
シェイクスピア史劇「嘆きの王冠」(下)
逆に、若き日のヘンリー5世(ハル王子)を描いた「ヘンリー4世 第二部」は20歳くらいの時から、オーソン・ウェルズのものも含めて4回くらい見ているのですが、年をとるにつれて、「王族・貴族」の傲慢さへの嫌悪が募るのは不思議です。
このシリーズでリチャード3世を演じたB.カンバーバッチ、実際にリチャード3世の遠縁にあたるらしい。
1485年のボズワースの戦いで斬死したと伝えられていたリチャード3世、それらしい遺体をDNA解析したところ、本人だと確定した。こういうこともあるのだなー。
リチャード3世に代わり、王位についたヘンリー・チューダーが「小ブリテン主義」を採用、ここに英仏政治権力は最終的に分離していくことになります。
ちなみにシェイクスピアはチューダー朝ルネサンスの芝居なので、基本チューダー家の人間に好意的、逆にリチャード3世を可能な限り「悪」に描く必要あり、それが現代にも通じる「悪」の結晶の造形の成功に繋がったとも言えます。
日本では「リチャード3世」、あまり上演されないようだが、英語圏では実はシェイクスピア劇の中で最多の上演だとか。
いずれにせよ、英国のシェイクスピア俳優にとっては「ハムレット」より「リチャード3世」が栄誉です。
シェイクスピア史劇「嘆きの王冠」(上)
リチャード2世から、ヘンリー4,5,6世、エドワード6世リチャード3世まで、百年戦争末期から薔薇戦争までを舞台にしている。
ここでも、先日とりあげたハリウッドとはやはり次元は違うが、部分的に「女性」の戦士化の演出が見られる。
右中央の写真はランカスター派を指揮するヘンリー6世の王妃マーガレット・オブ・アンジュー(マルグリット・ダンジュー)。黒人俳優であることは現代的演出と言えるのでしょう。(かつてピーター・ブルックは「ハムレット」で黒人俳優を主役ハムレットに起用した)。
ただし、王妃マーガレットは史実上も、ランカスター派の軍事的指揮を執ったとされている。
とは言え、王妃マーガレットがみずから前線で剣を振るい、血まみれになるところなどは現代的演出と言えるでしょう。
しかし、このシリーズでは総じて暴力による権力闘争の空しさを強調する演出となっています。
シェイクスピア史劇の映像化としては、総じて成功していると思います。
私個人としては、マーガレット、それに最後の「リチャード3世」はとくに演技も含めてよかったと思います。
著者の森政稔先生からご恵投いただきました。
森先生は、17-18世紀、「リベラリズムー保守主義」中心の従来の政治思想史の枠を超えて、19世紀における「政治」と「社会」の分離、そこでの「社会」的なもの役割、について先駆的に研究してこられました。
またマルクスが「ドイツ・イデロギー」で一方で批判したM.シュティルナー、「哲学の貧困」でこれまた一方的に批判されたプルードンを、両者のテクストから再構成して論じています。
またメアリー・シェリーの父、メアリ・ウルンストンクラフトの夫W.ゴドウィンについて論じた貴重な論文が収録されています。
ゴドウィンは、フランス革命時のイングランド急進派の思想家、同時に近代アナーキズムの出発点ともされます。
私は、W.ブレイク、P.シェリーと並んで、この時期のイングランド急進主義の思想家としてゴドウィンに長年注目はしているのですが、日本では、主著『政治的正義』の訳もまだありません。
それにしても駒場の教官としては、群を抜いた「奇人」であった森先生、ゼミの途中で「心の友」の「猫」に餌をやりに行く、という習慣はまだ続いているのだろう。
森先生は「無駄な学会」にも関係せず、研究室と自宅と往復する毎日を続ける「学問の鬼」。「ヒト」にはあまり期待せず、友は「猫」数匹だった。
「アドルフに告ぐ」
手塚治虫晩年の「青年」向き(大人向き)の作品の中で、唯一完成したもの。
「ネオ・ファウスト」、「ルードヴィヒ・B」、「グリンゴ」など同時に進行させていた他の作品は未完、となった。
ルードヴィヒ・B(べートーヴェンのこと)におけるバッハの平均律クラヴィーアの視覚化の部分などは素晴らしかったと思うが「アドルフ」は手塚の個人史とも関わり、またテーマとの相性も良く、もっとも完成度が高い作品だと思う。
1936年のベルリンオリンピックの際、ゲシュタポに殺された弟のを行方を追ううちに、峠草平は戦時下の日本の反ファシズムグループにも関わり、特高に拷問を受ける。
神戸のパン屋の息子、アドルフ・カミル(ユダヤ人)と神戸生れでゲシュタポ入りするアドルフ・カフウマン。
少年時の親友が成長して、宿敵となるという設定も手塚がよく用いるものだが、これも全体の設定とうまく組み合わさっている。
それにしても、今回読み返して見て、自分も生れ育った神戸の細かい地名などに妙に反応して驚いた。
神戸の高校生だった頃はじめて読んだが、そこはまったく気にならなかった。
これって、やはり年をとったということなのかなー
しかし手塚治虫、S.ツヴァイクの言う「デモーニッシュ」なものに取り憑かれた天才だったと思う。
BT「サッコ・ヴァンセッティ」事件
イタリア系移民でアナーキストであったサッコ・ヴァンゼッティに対する「冤罪」事件。両名は死刑に処せられますが、行政側は後に冤罪であることを認めました。
この当時、ニューヨークにはイタリア系移民が多く、その中ではアナーキストの労働者たちもいた。
二人も「アナーキスト」であることから米国での徴兵を拒否している。
映画「死刑台のメロディ」、もちろんお勧めです。音楽のエンニオ・モリコーネ、当時のマカロニ・ウェスタンの多くの映画音楽を担当、この映画でも音楽はかなり生きています。
他方、ニューヨークのイタリア移民を背景にした「マフィア」ものが「ゴッド・ファーザー」です。
ただし、アナーキストを中心とした社会主義者はトリノ、ミラノなど北イタリア出身者が多く、マフィアはシチリア出身者が多かったのは事実です。
WWIIの連合軍のシチリア侵攻に協力したラッキー・ルチアーノはその典型。ルチアーノは「ゴッドファーザー」のヴィトー・コルレオーネのモデルとされています。
ハリウッドにおける「レッド・パージ」
これまでの投稿で何度かWWII直後のレッド・パージについて書いてきました。
国際冷戦レジームによる地球空間の再編とともに、「西側」地域では、ほぼ例外なく「赤狩り」が行われます。
レッド・パージ後の「世界」がいわゆる「戦後」第一期、となります。
この「赤狩り」について読み易い・手に入りやすい漫画として山本おさむのものがあります。
歴史的な叙述・視点には誤りや不十分な点もあるのですが、E.カザン、E.ドミトリク、そしてDトランボなど「追い詰められる」側の心理はよく描けていると思います。
また「新日本文学」の編集者、劇団「黒テント」の演出家、演劇評論家の津野海太郎の「ジェローム・ロビンズは死んだ」は、エッセイですが、ミュージカル「ウェストサイド・ストーリー」の演出家、J.ロビンズがゲイであることとも関係して「赤狩り」にどう対応したか、をハリウッドの動きと絡
めて読み易く書いています。
この際、このミュージカルの音楽を担当したR.バーンスタインもゲイであることをFBIに摑まれて「協力」を余儀なくされました。
カザン、ロビンズ、バーンスタイン、日本でも著名な三人の直面した問題。今や単なる「歴史」ではなくなっています。
哲学・思想史・批判理論/国際関係史
著書
『世界史の中の戦後思想ー自由主義・民主主義・社会主義』(地平社)2024年
『ファシズムと冷戦のはざまで 戦後思想の胎動と形成 1930-1960』(東京大学出版会)2019年
『知識人と社会 J=P.サルトルの政治と実存』岩波書店(2000年)
編著『近代世界システムと新自由主義グローバリズム 資本主義は持続可能か?』(作品社)2014年
編著『移動と革命 ディアスポラたちの世界史』(論創社)2012年
論文「戦争と奴隷制のサピエンス史」(2022年)『世界』10月号
「戦後思想の胎動と誕生1930-1948」(2022年)『世界』11月号
翻訳F.ジェイムソン『サルトルー回帰する唯物論』(論創社)1999年