新しいものを表示

As far as I remember this is the first paper of mine on small large cardinals --- there is no fixed definition of a large cardinal to be small but a reasonable definition is that a large cardinal is said to be small if its existence is compatible with V=L.

twitter.com/SakaeFuchino/statu

今まで住んでいた instance https://mathstodon.xyz/@sakaefuchino で日本語の toots を書くのが多分僕だけだったので,ちょっと申し訳なくなって,日本語の toots の一部はこちらに移すことにしてみた.更なる人格分裂が起こってしまっている. 

でも最近はまた,もときた
に戻りがちである.これは,向こうでは \(\LaTeX\) が使えることと,toots の再編集ができることが 大きな理由である.また,あちらでは,translate というボタンが toots につくようになったので,このボタンを押した時に起動する翻訳エンジンの deepL でそれほど言っていることと食い違わない翻訳がされるような日本語の文章を調節すれば,日本語が母語でない audience にも対応できる,という事情もある.

ちなみに,僕の toots には という tug をつけることがあるが,それは,ここで言っているような意味である: fedibird.com/@sakaefchn/109588 [参照]

というタグは,僕の用語では,multiversal な状況を示唆する,すごく一般的なキーワードです.@avillavecesn が mastodon の instances を,sheaf の global sections に例えたこと (この場合 underlying topology は mastodon のプログラムに対応することになるのだろうか) ,に答えたものでもあります.

ただし,もっと狭義に,物理学的な意味での multiverse を指していることもあるし,set-theoretic な multiverse を指していることもあります.

コンピュータやタブレットを多用していると,コンピュータやタブレットが,それぞれ自分の分裂した人格の一部のような気がしてくることがありますが,次の post に という hashtag を付与しようとしているのは,そういった意味からです:

mathstodon.xyz/@sakaefuchino/1
[参照]

年をとることのいいことの一つは,大昔に書いたことを忘れてしまっていて,昔の仕事が出てきてそれを読みなおしてみたときに,「このころの僕,なかなかいいこと言ってるじゃない」と思えることがあることである.シューベルトは年をとるより前になくなってしまったが,山のように書いた自分の作品を全部は憶えていなくて,昔に書いた自分の曲を聞いて自分の作曲だと気づかず,「この作曲家なかなかいいじゃん」と言ったとか言わなかったとか,という逸話が残っているのだが,そういう感じである.

実は今日

「集合論は矛盾する?!」

という,昔『数学セミナー』に載せてもらった記事 fuchino.ddo.jp/misc/set-theory
を読み直したら,これが起こった.もう10年以上前に書いた作文である.

この

『無限のスーパーレッスン』 の hyper-critique

と題した作文は,2014の暮れに書き始めたのだが,少しづつ書き足していった結果,結構長いものになってしまった.
文章の性質上,どこかに発表することは,これからもないと思うが,数学的内容は,他で発表したものと関連のあるものになっていることも,ある.
fuchino.ddo.jp/misc/superlesso

今日,数理研の講究録に投稿した論説
fuchino.ddo.jp/papers/RIMS2022

の introduction の最後に書いたことの,一般向けの説明になっているような内容を,この作文の第1節の最後に付け加えてみた:
mathstodon.xyz/@sakaefuchino/1

#数学 [参照]

この小説の中で言及されている雨月物語についても同じように整形して読んでみたいところなのだが, ではもうちょっとで公開しそうなところで止まっているので,もう少し待ってみるしかない. というラベルをつけてみているが,この場合の,江戸時代初期の日本語は,僕にとってオランダ語やスペイン語と同じくらいの距離のある言語なので実際に他言語である.

「オランダ語やスペイン語と同じくらいの距離のある」というのは,かなり異言語感があるという意味で言ったのだが,これは我慢して読んでみると結構読める,という意味でもある.小学校の頃,日本語がまだ完璧に分からなかった時に難しい本を推測しながら読んでいた時のデジャヴを見ているような心持ちがしてくるが,今はその頃にはなかった,タブレット上の辞書類の支援がある.

スレッドを表示
Sakaé Fuchino さんがブースト

ではちょっと前から toots に "translate" というボタンがつくようになったんだけど,僕が英語を default language に設定しているおかげで,僕自身の書いた日本語やドイツ語での toots にも,このボタンが現れる.

翻訳のエンジンは deepL で,幸いなことに,日本語も (もちろん,deepL の出身地の言語のドイツ語も), deepL の扱える範囲に入っているので,機械翻訳したときにへんな誤解を生むような文章になっていないかどうかが,すぐチェックできて,とても便利である.

まあ,これがなくても,チェックするのは数クリックの違いでできるんだけど,目の前のボタンを押せばそれで o.k. ということの心理的負担の少なさは,あなどれない.

しかし,逆に,ボタンがあるとつい押してしまいがちである,というのは,実は結構あぶないことかもしれないんだが.

deepL は結構パーフェクトに近い翻訳を出力してくれることが多いので,これでチェックすると,deepL が本当にパーフェクトな訳文を出力する原文を作る,という遊びにのめり込んでしまいそうで,面白い遊びとしても,時間の無駄が過ぎる.書き連ねていると,文字制限がきてしまい,toot 長歌も成立してしまう.

skk を使っているのは主に日本語の話者だと思うので,こちらにも link しておきます. 

で toots の表示に自動翻訳のボタンがつくようになった.しかも,エンジンは である.

前の toot で佐藤春夫の「田園の憂鬱」について言及したので,ちょっと読み直してみたくなって,青空文庫から plain text をとってきて で整形してみた.

Federico Mompou について書いたのは,僕にとって2度目のバルセロナ滞在の,ちょっと前のことでした.この文章を書いたのが,もう10年以上前だというのは何か信じられない気がします.今みてみたら,ちょっと misleading な記述があったので,修正してみました.修正点は, html ファイルのソースコードを見るとわかります.fuchino.ddo.jp/barcelona0.html
--- URL を % encode し忘れたので,一度削除して書き直しました.

修正のついでに書くと,この文章で「郊外の憂鬱」と書いているのは,もちろん,Mompou の組曲「郊外」と佐藤春夫の小説の連想ですが,この間に美学的な関連がある,と主張しているわけではありません.

「郊外の憂鬱」ということについては,「Suburbis (II) 」と題した,上の作文より少し後でかいた文章にも書いたことがありました:fuchino.ddo.jp/kasugai.html#09

今度は注意して,最初から % encode したアドレスを post しています.

The sample of the book cover of my new linear algebra book arrived right now. 

本の装丁の見本が送られてきた.これは,装丁の具合を見るだけのサンプルなので,ページは印刷してなくて偽札の札束のような状態になっているだが.

この本は,これまでに出版された僕の本の中で一番デザインの凝った本になると思う.

やはり toots の訂正ができない,というのはあまりにも使いずらい, 古い version の mastodon を base にしていて,toots のデータタイプの拡張がなされていないinstance で,訂正の list の root になっているもとの投稿しか表示されない可能性がある,という危険をおかしても, のアカウントはたたんで,ものと世界 (.xyz) に一本化すべきかもしれないと考え始めている.

hashed tags の検索表示など,feibird には色々便利な機能もあってちょっと捨て難いのではあるが.

昨日は「我が家」という韓国語の単語 우리집 とフランス語の老人ホームという単語EHPAD (établissement d'hébergement pour personnes âgées dépendantes) を覚えた.
Es ist zweifelhaft, ob diese art langsames Lernen dazu führen wird, dass ich eines Tages diese Sprachen fließend sprechen werde.

この記事では,Koi と書いてあるが,多分,日本でドイツ語を勉強した人の多くが,このドイツ語の単語が,鯉でなく錦鯉を指すものだということに気づかないのではないだろうか.

ちなみに,魚 (Fisch) が男性形なので Koi も男性で複数 (英語と違って魚も複数形がある) は Kois

スレッドを表示

破裂した (と日本語では言うのだろうか) ベルリンのホテルのアクアリウムの事件では,630匹ほどの魚が助けられて,その中には3匹の錦鯉も含まれていたようだ.記事で,特に取り上げられている,ということは普通でない値段の人たちなのだろう.

さんの漫画に出てきそうな話だ.

と書いてからもう少し詳しく読んでみたらベルリン動物園の話として「海水魚がまだ何匹かこちらに搬送されてくることになる」と書いてある.おかしいなと思ってよく読んでみたら,救助された魚たちは,破裂したアクアリウムとは別の水槽にいたものと書いてあって,しかも,この水槽は複数形だった.

日本の新聞だったら,こうはちゃんと書いてなくて,クエッションマークが消えないでいたところだったろう.そして,そうだったら,それは,日本語に複数形がないことだけの問題ではない,と思う.

tagesspiegel.de/berlin/geplatz

ホモサピエンスの社会は,男根の表徴の隠されたデザインで溢れている,というのは,既に色々なところで表明されてきた主張だが,今度の戦争で,戦車の砲身が男根の表徴となっていること,あるいは,戦車の砲身が男根の表徴とみなせる形をとらざるを得ないという技術的な必然が,この時代遅れの武器が未だに殺人兵器の重要な位置に置き留められていることの,本当の理由となっていること,について,改めて認識させられた.この戦車中心の軍隊が近代戦争で如何に効率が悪く,戦車というものが如何に脅しのための武器以外の何物でもない,ということも,今回の戦争でよく分かったことの一つといえる.

冷戦時代のソ連の戦車が東欧諸国のどこかの都市に入ってきて民衆を制圧する,という脳裏に焼き付いてしまっている映像のパターンも,この phallus としての砲身という見方で意味解釈が進むのではないか.

いずれにしても,戦争をすることのホモサピエンスの本能が性的な征服/服従の本能の延長線上に組み立てられている,という解釈は,戦車に関する事例だけをとっても,ひどく自然に思える.

戦争行動をする動物としては,蟻などの昆虫も思い浮かぶが,彼らの戦争をする本能のメカニズムは,これとはちょっと違うのではないだろうか?
fuchino.ddo.jp/obanoyama.html#

古いものを表示
Fedibird

様々な目的に使える、日本の汎用マストドンサーバーです。安定した利用環境と、多数の独自機能を提供しています。