年をとることのいいことの一つは,大昔に書いたことを忘れてしまっていて,昔の仕事が出てきてそれを読みなおしてみたときに,「このころの僕,なかなかいいこと言ってるじゃない」と思えることがあることである.シューベルトは年をとるより前になくなってしまったが,山のように書いた自分の作品を全部は憶えていなくて,昔に書いた自分の曲を聞いて自分の作曲だと気づかず,「この作曲家なかなかいいじゃん」と言ったとか言わなかったとか,という逸話が残っているのだが,そういう感じである.

実は今日

「集合論は矛盾する?!」

という,昔『数学セミナー』に載せてもらった記事 fuchino.ddo.jp/misc/set-theory
を読み直したら,これが起こった.もう10年以上前に書いた作文である.

この

『無限のスーパーレッスン』 の hyper-critique

と題した作文は,2014の暮れに書き始めたのだが,少しづつ書き足していった結果,結構長いものになってしまった.
文章の性質上,どこかに発表することは,これからもないと思うが,数学的内容は,他で発表したものと関連のあるものになっていることも,ある.
fuchino.ddo.jp/misc/superlesso

今日,数理研の講究録に投稿した論説
fuchino.ddo.jp/papers/RIMS2022

の introduction の最後に書いたことの,一般向けの説明になっているような内容を,この作文の第1節の最後に付け加えてみた:
mathstodon.xyz/@sakaefuchino/1

#数学 [参照]

統計学を数学の一部と考えていいかどうかは,色々と微妙な点があるように思える.これは,物理学を数学の一部と考えていいかどうか,ということと同じような問題点を抱えているように思える.
 一方,数学は mathematical logic の一部と考えていいと思うのだが,逆はどうなのだろうか? 
 僕個人としては,数学を,人間の知的活動のすべてを包括する学問として解釈したいのだが,一般の認識はそうはなっていないようである.

「集合論では『すべての集合の集合』を考えてはいけないことになっているそうですが、なぜですか?」という Quora での質問に答えてみた.

jp.quora.com/集合論では-すべての集合の集合-を

きちんとした,誰にでもわかる説明を淡々とすることを心がけているつもりではあるのだが,質問の fromulation 何如では,ついお説教がましいコメントを書き足してしまうこともあり,それがこの作文の最初のところに出てしまっている,と言えるかもしれない.

今では で LaTeX code も書けるようになっているけれど,鳥類の世界では formulas が書けなくて苦しんだので,そのときに,mac や ipad の keyboard setting を調教して,例えば,

{ 𝑥 ∈ ℝ : 𝑥 は 𝖫 上の Cohen real }

などという utf-8 symbols だけの偽数式が,比較的少ない key strokes で,LaTeX の数式モードで書くような感覚で書けるようにしておいたのは,よかったと言える.
最初から mathstodon.xyz に住んでいたら,これは思いつかなかったかもしれない.

もっとも \(2^{\aleph_0}\) と書こうとするとこれはもう無理で,せいぜいが 2^{ℵ₀} とでも書くしかなくなってしまうのだが ...

現在のところ では LaTeX は使えないが,今のところ数学のコミュニケーションを日本語でするつもりもないので,これはこれでいいかもしれないと思っている.

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