あきれたというか、笑ったというか。
『あたしのビートルズ』を読み直そうと本を開いたら、鄭と桂は6畳ほどの安アパートに暮らす若い夫婦という関係だった。いったい自分は先の初読で何を読んだのか。夫が妻を強姦して殺害?
とりあえずの設定では、鄭は演出家か何からしい。彼の書いた脚本の中で桂は本を読む役を与えられていて、目下の『あたしのビートルズ』中で彼女は本を読むふりを続けている。
やがて日本人(という名の男)が登場して、鄭を爆殺するつもりであることが明かされる。
鄭、桂、日本人の3人の会話から、鄭による桂の殺害は明日おこなわれ、日本人による鄭の爆殺は晴れた日曜日の白昼、その条件にあえば明後日おこなわれることがわかる。爆殺の動機もわかって、それは朝鮮人である鄭が日本人である桂を強姦・絞殺したことにたいする日本人(という名の男)の復讐である。
以上、ほとんど憶えがなかった。
何をしてるのだ、俺。理解できないものばかり追いかけて、そのせいで記憶にも残らない。
鄭という朝鮮人が桂という日本人を犯して殺す。
佐藤信の戯曲『あたしのビートルズ』は、この二人を演じる役者の演技をめぐって進行する。
劇はなかなか進展しない。そこで、レノン、マッカートニー、ハリスン、星子、日本人(これも役名)を演じる5人が、鄭と桂の演技を助ける。このうちはじめの4人は運送屋として現れるが、じつはビートルズだと名乗る。5人目の日本人は所持していた拳銃をハリスンに奪われるが、なお爆弾を所持している。
レノンら5人は、鄭と桂の演技をけなしたり、励ましたり、二人の代わりに台詞をしゃべったり、劇中歌を歌ったりする。桂は5人の手出しを受け入れ、鄭の意思を無視して劇が進みはじめる。
そのうちに鄭と桂のアイデンティティが逆転する。じつは鄭は日本人で、桂の両親は朝鮮人なのだという。
最後に結末らしい出来事があり、登場人物全員がビートルズの A Hard Day's Night に乗って踊りだす。
作者の付記によると、この戯曲は1958年に起きた「小松川女高生殺し事件」にヒントを得ている。「上演の際には、劇の始まりか終りに、スライド等適当な方法で、なるべく詳しい事件のドキュメントが、観客に示される」と。
新しい町へ行くだろう。映画館を探すことにしてるんだ。それもなるべく小さくて汚れたやつ――どういうもんかなあ。俺、昔から映画はそういう小屋で観ないと気分がでないのさ。時間みはからってまず小便済ましてさ、それからピーナッツ買って、客席の半分壊れたような椅子に腰を下す。前の席の背もたれに足を投げ出すとな、ベルが鳴るんだ。ぞくっとくるね。……
佐藤信『キネマと怪人』から、ジミーことジェームス・ディーンの台詞。
映画館がそのような場でもあることが許された時代。
ところで、「ジェームズ」か「ジェームス」か。ネットで検索すると、映画のポスターでも「ジェームス」になってるから、昔は濁らなかったのかもしれない。
『ブランキ殺し上海の春』の「ブランキ版」と「上海版」、それに『鼠小僧次郎吉』物を2本、佐藤信の戯曲を読んでみたが、まるでわからない。
これはわかりそうと感じつつ読みはじめた『キネマと怪人』だが、どういうことになるか。
《ダダがつかんだものは、あれかこれかというありふれた思考の図式では、解釈も説明もされえない。わたしたちに自然な、イエスかノーかの思考を、ダダはまさに爆破しようとした。二元論的思考を仮借なく投げすてるところに、この運動の性質が示される。思考は拡大され、感情をもつ思考、思考をともなった感情、その両者が詩や絵や音のうちに統合されなければならなかった。「悟性は感情の一部であり、感情は悟性の一部だ」(アルプ)新しい、拡大しつつある思考の、このような前提がうけいれられさえすれば、ダダの矛盾はおのずから消えて、ひとつの世界像が生れる。そこでは因果的経験のほかに、これまでみえず、きこえなかったもうひとつの経験が明らかにされ、無法則なものをふくむ合法則性が明らかにされる。》――同じく『ダダ』
《因果関係をはなれた、新しい無法則性というテーゼをたてて、反-芸術を宣言するのは、たしかに非常にいいことではあったが、それは全的人間、さらに秩序づける意識が創造過程の内部に入りこみ、あらゆる反-芸術論争にもかかわらず、芸術作品が生れることをさまたげなかった。偶然とならんで、いずれにしろ避けがたく、まさに秩序づける、意識的な人間が存在していた。それはツァラの新聞の切れはしの詩や、アルプのちぎられ、ばらまかれた紙切れに劣らず、何といってもわたしたちがはたらきかけた真の状況であった。ひとつの葛藤にみちた状況!》――ハンス・リヒター『ダダ――芸術と反芸術』(針生一郎訳)
著者は偶然と反-偶然の相反する手法を、排他的関係にあるとは見ず、止揚すべき対立とも見ない。
両者はそのままで、ひとつの全体すなわちダダの部分を形作っていた、と。
《こうした貧民は結局零落してしまう者が多かった。すると流れ者の仲間入りをして各地を放浪するのであるが、フランスの浮動人口は、一七八〇年代までに数百万もの自暴自棄の人びとを含んでいる。修行の旅にある職人、旅役者の一座、いんちき医師や薬売りといった少数の幸福な人間を除き、放浪の生活は文字通りはきだめに食物を漁るに等しかった。浮浪者たちは鶏小屋を襲い、番人のいない牝牛から勝手に乳をしぼり、生け垣の洗濯物を盗み、馬の尻尾を切り落とし(馬の尻尾は家具職人が買ってくれた)、施しが行われている場所にくると、自分の身体を切り裂いては病人になりすました。また、軍隊に入っては脱走することも、度々繰り返した。彼らは密輸者、追い剥ぎ、掏摸、娼婦になった。そして最後には施療院で死ぬか、茂みか干し草置き場に這って行き、そこで息をひきとった。乞食の生涯が終わったのである。》――ロバート・ダーントン『猫の大虐殺』(海保眞夫・鷲見洋一訳)
マルクスの「ボエーム=ルンペンプロレタリア」、折口信夫の「無頼=ごろつき」
https://fedibird.com/@mataji/112356959565285086
既存の詩や文から章句を切り出し、もとの文脈を無視して再利用することを「断章取義(だんしょうしゅぎ)」という。
『列子』にある列子の故事を、弓の名人・紀昌のこととして「名人伝」に取り入れた中島敦の方法も断章取義と言える。他にも「名人伝」では、『列子』中の章句をさかんに流用、元のシチュエーションから切り離して使っている。
ネガティブな面を強調して断章取義を言い換えれば、盗用あるいは故意の誤用ということになるが、ポジティブには、断章取義こそすべての創作活動の基本ではないか。
創作物の中身がすべて創作者の内部から発しているなどとは言えない。すべてが作者のオリジナルだとしたら、それらは遺伝子で伝えられてきたものとでも考えないと説明できない。逆に、すべては借用、流用、盗用と言ったほうが事実に近いだろう。
「凡才は模倣し、天才は盗む」とピカソは言った。
「盗め、どうして盗まないのだ」とウィリアム・バロウズも言っている。
名人伝 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/名人伝
名人伝 - 青空文庫
https://www.aozora.gr.jp/cards/000119/files/621_14498.html
中島敦の短編「名人伝」の登場人物、紀昌、飛衛、甘蠅の名は、『列子』湯問篇に弓の名手として出てくる。
射術を飛衛に学んだ紀昌が、飛衛を倒して第一人者になろうと図ったこと、野中で出会った二人が矢を撃ち合ったくだりなども主として湯問篇に拠り、一部の表現をを仲尼篇から借りている。
「名人伝」に紀昌の上達を表現して、「一杯の水をたたえた盃を右肘の上に載せて強弓を引くに、狙いに狂いの無いのはもとより、盃中の水も微動だにしない」とあるのは、『列子』黄帝篇に列子の故事として書かれていることの流用。
名人・紀昌の晩年の述懐「既に、我と彼との別、是と非との分を知らぬ。眼は耳の如く、耳は鼻の如く、鼻は口の如く思われる」も、同様の表現が列子の言として黄帝篇に出てくる。
これらの他、「名人伝」は『列子』から多くの出来事やフレーズを借りている。
Google Lens による英訳
That's why you don't give up.
Someone said. Dada was good because it wasn't bad
Dada is religion, Dada is poetry, Dada is esprit. Da is magic. i know dada
My colleagues, for better or for worse, religion.
Spry or skeptic, no matter how you define it, that's why you're all dead.
And I swear you're dead
The great mystery is the secret. but
be. they never
《エッゲリングはわたしに素描をみせた。それはまるで誰かがわたしに、魔法の書をひらいてみせたかのようだった。わたしは即座に、なぜそうなったのかを〈了解〉した。(……)
わたしたちの目標と道程が、おどろくほど一致しているのに感動した二人は、たちまち友人となり、いつまでも友人でありつづけた。かれにとっては、これまでまったく無視されてきたかれの仕事をみて、わたしが興奮して保証したことが、わたしにとって探し求めていた芸術的可能性を、突然認識したことと同様に、衝撃的であった。》――ハンス・リヒター『ダダ』(針生一郎訳)
ヴィキング・エッゲリング「絵画の基調低音のための材料」1918
https://fr.wikipedia.org/wiki/Viking_Eggeling#/media/Fichier:Viking_Eggeling_Generalbass_der_Malerei.jpg
深作欣二監督『上海バンスキング』(1984年)の予告編が YouTube にある。
https://www.youtube.com/watch?v=x_B7S043BxY
監督・深作、主演・松坂慶子、相手役に風間杜夫という組み合わせは、『蒲田行進曲』(1982年)と同じ。
こちらに深作版のあらすじ。
https://eiga.com/movie/37006/
原作(斎藤憐)にかなり書き足してあり、劇場版とはおもむきが異なる。
《一九一五年、第一次世界大戦のはじめに、飢えにやつれた、うすいあばたづらの、ひどくやせて背の高い作家兼演出家が、スイスにやってきた。それはフーゴー・バルで、唄をうたい、詩を朗読することのできる女友だち、エミィ・ヘニングスをつれていた。》――ハンス・リヒター『ダダ――芸術と反芸術』(針生一郎訳)
ダダ運動の最初の拠点であるキャバレー・ヴォルテールが、演出家であるフーゴー・バルとパフォーマーである女友だち(後に結婚)によって設けられたこと。
ダダの演芸的体質。ダダについては本や雑誌で知ったことばかりだから、つい文芸をベースとする思潮あるいは運動と思いがちだが、むしろ演芸的側面を見るべきではないか。
Dada and Cabaret Voltaire - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=fkl92oV1kMc
「自我を穴だらけのマント同様に脱ぎ捨てること」と、ダダ運動発祥の場とされるキャバレー・ヴォルテールの主人フーゴー・バルが書き残している。
https://johf.com/memo/046.html#2024.5.8
自我を捨てる。壁抜けの有力な解ではないか。
コートを脱ぎ捨てて壁に入り込んだオノレ・シュブラックのケースをどう考えるか。着ているものを脱ぎ捨てて、姿を壁に溶け込ませたものの、壁に撃ち込まれた銃弾で殺されてしまったらしいのだが。
バルの言におけるマントとは自我の喩えであって、自我そのものではないこと。
《Japan has fallen to Marxists》―― Pamphlets on X
https://twitter.com/PamphletsY/status/1787246181547901380
《独蘇戦の独側の回想録等で、独軍に包囲されたセバストポリ等で、最後の蘇の逆襲の際、その先頭に地区の女性共産党員が勇敢に突撃してくる事がしばしばあって、それを撃ち殺すストレスに触れるものがありますが、彼女達が何のために死んだのか、今の目で見ると複雑な心境になります。》――MUTI on X
https://twitter.com/MUTI39/status/1764605877133443538