《因果関係をはなれた、新しい無法則性というテーゼをたてて、反-芸術を宣言するのは、たしかに非常にいいことではあったが、それは全的人間、さらに秩序づける意識が創造過程の内部に入りこみ、あらゆる反-芸術論争にもかかわらず、芸術作品が生れることをさまたげなかった。偶然とならんで、いずれにしろ避けがたく、まさに秩序づける、意識的な人間が存在していた。それはツァラの新聞の切れはしの詩や、アルプのちぎられ、ばらまかれた紙切れに劣らず、何といってもわたしたちがはたらきかけた真の状況であった。ひとつの葛藤にみちた状況!》――ハンス・リヒター『ダダ――芸術と反芸術』(針生一郎訳)
著者は偶然と反-偶然の相反する手法を、排他的関係にあるとは見ず、止揚すべき対立とも見ない。
両者はそのままで、ひとつの全体すなわちダダの部分を形作っていた、と。
《ダダがつかんだものは、あれかこれかというありふれた思考の図式では、解釈も説明もされえない。わたしたちに自然な、イエスかノーかの思考を、ダダはまさに爆破しようとした。二元論的思考を仮借なく投げすてるところに、この運動の性質が示される。思考は拡大され、感情をもつ思考、思考をともなった感情、その両者が詩や絵や音のうちに統合されなければならなかった。「悟性は感情の一部であり、感情は悟性の一部だ」(アルプ)新しい、拡大しつつある思考の、このような前提がうけいれられさえすれば、ダダの矛盾はおのずから消えて、ひとつの世界像が生れる。そこでは因果的経験のほかに、これまでみえず、きこえなかったもうひとつの経験が明らかにされ、無法則なものをふくむ合法則性が明らかにされる。》――同じく『ダダ』