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『家族と国家は共謀する サバイバルからレジスタンスへ』
著/信田さよ子

家族内でおこる暴力行為がいかに国家の思惑と結びついているかを説く。比較的さくっと読めた。別の本も読みたい。

家庭内での出来事に関して国家は不可侵であるべきである、という戦後日本の原則は、裏返せば、国家は家庭内における家長=男性のふるまいを黙認することだった、という指摘にぞくっとした。人類皆平等という建前のもと、家の中に発生する男/女、親/子の不均衡は『あえて』見過ごされた。不均衡を黙認する国家と利益を甘受する家長。家の内部で虐げられる者は犠牲者にすらなれなかった。名前が与えられたことで(DV、依存、虐待...)ようやく被害者は被害者として、加害者に責任追及できるようになる。

でも、自分がどれだけ相手を害しているか理解しない加害者は多い。加害者に責任を取らせることの難しさは、以前『言葉を失ったあとで』(著/信田さよ子・上間陽子)を読んだときにも語られていた。それでも暴力を振るう者が振るわなくなることで「家族」の形をギリギリ維持できる。

崩壊寸前の「家族」を見て見ぬふりして、うちの国家は『古き良き日本の家族』的なものを再生させるべくせっせと広報に励む。夫婦別姓とか同性婚とか夢のまた夢じゃないの、などとおもった。

『デ・トゥーシュの騎士』
著/バルベー・ドールヴィイ
訳/中条省平

19世紀のフランスが舞台。幽閉された騎士を助けるために派遣された12人の戦士の闘いを描いた小説。

作者も19世紀の小説家のためか、文体がすごく回りくどいというか、聞き馴染みのない比喩表現が大量に出てきて面白かった。読んでいるとしばしば眠くなったけれど。

塔に幽閉されているのが女性と見紛うほど美人の男性騎士で、語り部はかつての12人の戦士のうちひとりにして若いころから男性に混じって剣を振るってきた女性、という、ちょっと変わった構成だった。一応騎士物語だと思うので普通は逆なんじゃないだろうか。三人称の小説だったはずなのに語り部がいきなり自我を出してきたりと、色々と不思議な小説だな~と思いながら読んでいた。分からないことはありつつ、筋自体は、騎士奪還に至るまでの回想、という感じなので迷子にならず読めたけれど。

性別をひっくりかえしたような登場人物がたくさん出てきたので、ちゃんと分析して読めたらめっちゃ面白いんじゃないだろうか。翻訳者の本で『最後のロマン主義者―バルベー・ドールヴィイの小説宇宙』があるのでこちらも読んでみたい。

『誓願』

著/マーガレット・アトウッド
訳/鴻巣友季子

『侍女の物語』の続編、独裁国家・ギレアデ共和国滅亡の物語。前作は最初から最後までずっと息が詰まりそうな閉塞感を感じて、読むのが本当につらく、全然読み進められなかったのだけれど、続編の本作は爽快な冒険活劇、失われた過去を憐れみ懐かしみながら書き記す回顧録、ユーモアの中に復讐心渦巻く策謀の書、といった感じでとても楽しく一気に読んでしまった。虐げられた女性たちの勇気と連帯で国家転覆の野望を成し遂げる様は痛快だったし、希望にあふれていた。

が。

アメリカでは中絶が禁止され、日本でも代理母法制化がささやかれる昨今、私達はもう「ギレアデ」の内部に足を突っ込んでいる。保守的な意見は根強くはびこり、「女」の扱いは昔と変わらないどころか逆行しているところもある。そんななな、この希望の書に描かれていたような勇気と連帯を、今を生きる我々は示すことができるのだろうか。私はとても難しい気がする。

でも、それでも。

訳者あとがきによると、原題の「The Testaments」は「神と人との契約」「裁きの場での誓言」「遺言」という意味があるらしい。願いが無ければ叶わない。ならば私も祈りたい。私の選び取る道が私の娘に少しでも善い未来をもたらすように。

『シェイクスピア劇を楽しんだ女性たち 近世の観劇と読書』
著/北村紗衣

シェイクスピア劇が今に残る古典となるまでには、大勢の無名の人々が劇を鑑賞し、脚本を読み、感想を述べ、二次創作(!)し、コスプレしてフェスに参加(!!)した。当然女性も。残された資料から、16~18世紀頃の女性達がどのようにシェイクスピアを楽しんできたのかを検証した本。

想像していたよりも10倍ぐらい「お堅い」専門書だったので読み通せるか不安だったものの、中盤位からノッてきて最後まで読めた。索引と参考資料で本の1/4程を占めていたのが凄かった。

シェイクスピアをどう解釈するかで自らの言論の正当性を主張しようとした女性達の試みが興味深かった。例えば、シェイクスピアの学歴は高くなく、作品も英語で執筆されていることから、英語でも戯曲は書けるのだからラテン語の教養はなくてもいいのだという主張は、女性は教育をうけられなかったためラテン語の教養がなかったことに由来する、とか。今も昔も女性の発言や作品の受容の仕方は「正当ではない」と言われるものなんだなあと思った。

どんなやり方であれ、作品を愛するファンがいた。いまもいる。その中には私も含まれている。16世紀の女性達に、なんだか少し勇気を貰った気がする。

『布団の中から蜂起せよ アナーカ・フェミニズムのための断章』
著/高島鈴

”生き延び、抗い、何度でも会おう。”
私がこの本を手に取って序章を読んでいた2023年7月12日、芸能人の自殺報道があった。今こそ読むべき本だと思った。

この本の文章は、なんかすごくぐちゃぐちゃしていて血がだくだく流れている。読んでいると血の生暖かさを感じてゾクゾクする。熱くなる。生きている。なんかこれはすごくいいな。好きだ。いや、でもできれば血とかは流れないほうがいいし、私は誰かや自分が痛い目に遭うのは嫌いなので、やっぱり血を流させるこの社会がクソなんだけど。

世界、明日爆発しないかな。昔の私はずっとそう願っていた。地震とか疾病とか、色々と無茶苦茶なことが起こって、いろんなものがマジで「爆発」したけれど、世界はどうにもならなかった。

生き延びよう、と何度も何度も呼び掛ける本のラストには、死者たちについての章が収められている。生と死の境界線の向こう側にいる、いまはもう見えなくなった人たち。絶対に会えない「死者=他者」の声を聞き、血を流しながらこのクソみたいな社会に居続けること。

生き延びること。それこそが抵抗であり革命だ。だったら、私でもその革命になら参加できそうだよ。皆、一緒に生きようね。

『社会契約論ーーホッブズ、ヒューム、ルソー、ロールズ』
著/重田園江

『社会契約論』を、その原初である450年前の思想家から現代の哲学者にわたって解説した本。読み始める前は人名も単語も具体的にどういうものかはまったく理解していなかったのだけれど、お〜〜〜もしろかった〜〜〜!巻末の読書案内もふくめて、手元に置いて道しるべにしたくなる一冊。

ルソーの章ででてきた6の字の歴史認識がおもしろかった。ルソーとロールズめっちゃ好きになったのでもう少し何か読みたい。

小さくて無力な個人が、生きている間には絶対に関わり合えない、想像すらもできない圧倒的な他者と、おなじ社会で生きる者としてどうあるべきか、なにができるのか、これからどうすればいいのかを考えるための思想。いまこそちゃんと考えなくちゃいけないことが詰まっていた。

人間は自分自身の身分や地位を知らない状況では、自分が不利にならないよう、結果的に「みんなに公平で有あるような」ルールを制定する…という解説には納得なのだけれど、それでも、読みながら私は「自分が働けなくなったら生活保護を受けるかもしれないのに、なぜ生活保護受給者が糾弾されるのか?」みたいなことを考えていた。でもおそらく、それにはまた別の解説が必要なのだとおもう。

『ハムネット』
著/マギー・オファーレル
訳/小竹由美子

息子を喪った父親は、息子の名前を戯曲に冠する。父親の名前はシェイクスピア、その戯曲とは『ハムレット』――という史実から着想を得た物語。なお主人公はシェイクスピアの妻。

森の草木や薬草に精通し、鷹を飼いならし、不思議な力で未来を予見する女性・アグネスの生き方が魅力的。浮世離れした彼女が自分の世界を保ったまま、同じく浮世離れしていてまだ何者でもないシェイクスピアと恋に落ちていくのがロマンチックに描かれていてとてもよかった。

題材から何が起こるかは予測していたものの、子供が辛い目に遭うのを読むのはしんどい。その後の主人公とその家族を襲う悲しみの嵐には何度もため息がでた。

それぞれの傷口はいつまでも癒えず、なぐさめあう方法もわからず、誰もがいつもどこかにいなくなったあの子の影を探している。それでも季節をやり過ごして、各々のやり方で折り合いをつけ、少しずつ生をとりもどしていく。それはある意味哀しいことでもあるけれど、他の誰かでお手軽に埋めてはいけないんだな、とおもった。血は今も滴るけれど、それでも生きていく。

ずっと淡々とした描写がなされている小説だったけれど、森や野花が色鮮やかで、草の葉が匂い立つような本だった。

『どれほど似ているか』
著/キム・ボヨン
訳/斎藤真理子

韓国SF短編集。不思議な読み心地。社会派なお話のほか、言語学や認知や宇宙を扱ったごりごりのSF的な話もたくさん入っていて読み応えがあった。特にジェンダーや年齢を扱ったものが読み応えがあって好きだった。

短い文章にすごく独特な味わいがあって、ずっと浸っていたくなるような本だった。

韓国女性作家のSFは『千個の青』や『わたしたちが光の速さで進めないなら』を読んだ。少し不思議で、少しで悲しくて、少し優しくて、愛おしい。どれも自分とは異なる存在にむかって少しだけ踏み出す話だったな、とおもう。

『どれほど似ているか』に収録の小説はハッピーなものばかりではなく、社会や政治を映し出したような苦い作品も多い。でも、どれも根っこには作者の希望があって、人間は愚かで非合理的だけどきっと明るい方に歩いていけるはずだという、希望というか、想像力への信頼が込められているような気がした。

日本の若手女性SF作家の本をあまり知らないんだけど、あるなら読み比べてみたいな。

『ヴィネガー・ガール』
著/アン・タイラー
訳/鈴木潤

シェイクスピアの『じゃじゃ馬ならし』翻案。面白くて一気読みしてしまった。登場人物たちの心情や行動がとても細やかで、ああいるよねこういう人、と思えて楽しかった。特に29歳の主人公には(当たり前だけど)一番共感した。私も酸っぱい系の《娘》だったので。

永住権獲得が目的の偽装結婚が、やがて相手と自分を少しだけ開放するための手段になって、本当の意味で愛しあうふたりになっていく過程がとてもよかった。本当に小さなことで揺れ動く心の描写は読んでいてキュンキュンした。いいラブコメだった。

個人的には妹ちゃんの最後の台詞もよかったな。あれはあれで正しいとおもう。登場人物たちが全員どこか滑稽で愛しくなった。あと台詞回しや仕草が映画のようで面白かったし役者が演じると映えるとおもうのでぜひ映画化してほしい。

原作の『じゃじゃ馬ならし』のあらすじにざっと目を通したら、DV男が妻を暴力で従順にさせる話だったのでウゲ…となった。原作は読まなくてもいいかな…。

『決定版 快読シェイクスピア』
著/河合隼雄・松岡和子

お~~~~~~もしろかった!400年間も生きた物語は、人の心を鮮やかに映し出して、多彩に読み解くことができるんだな。

シェイクスピアは『リア王』の文庫本が自宅にあるのと、野田秀樹版の『真夏の夜の夢』を読んだのと、1968年の映画『ロミオとジュリエット』と、去年アトウッドの『獄中シェイクスピア劇団(テンペストのリブート)』を読んだくらいで、しかもどれも記憶がおぼろげなのだけれど、ちょっとちゃんと読みたくなった。

繰り返し語られる「シェイクスピアは女性嫌い」という説、後半のキリスト教的考え方でやっと多少理解はできたけれど、この本を読む限りはよく分からなかった。でも400年もそう言われているならそれが定説なんだろうな。

『同志少女よ、敵を撃て』
著/逢坂冬馬

圧倒的なスケールと検証で紡がれる、ソ連の女性狙撃兵たちの闘い。一応あらすじは知っていたけれど、戦場という極限状態のなかでうまれる物凄く濃密な女性たちの連帯《シスターフッド》の物語だった。戦うか、しからずば死か。主人公は戦うことを選んで生き延びる。終盤、選択の外にあったものに気づく展開が熱い。

登場人物ひとりひとりも個性豊かで魅力的、ラノベだったら速攻でアニメ化(豪華声優陣!美麗作画!迫力の戦闘シーン!)されただろうなとおもう。ていうかそのうちされるとおもう。

これはこの物語の良し悪しとは全く関係のない問題で、私はこの物語は女性と戦争についてかなり気をつけて書かれた話だとおもうけれど、誤読や曲解のリスクは常に発生するんだろうなと感じた。たとえば『この世界の片隅に』を見て「慎ましやかに暮らした戦時中の人は偉かった」という感想を抱く人が存在するように、『同志少女〜』を読んで「祖国のために銃を持って戦う女性たちの逞しさに感動」する人はいるわけで。だから、『火垂るの墓』みたいに嫌な気持ちになる作品って大事なんだなとおもった。

変な感想で申し訳ない。小説は本当に面白くて夢中で読み切った。でも私はその「面白さ」自体を危ういと感じているのかもしれない。

『歌え、葬られぬ者たちよ、歌え』
著/ ジェスミン・ウォード
訳/石川由美子

すごい本読んじゃった。ミシシッピ州の田舎に生きる家族の物語。中盤はロードノベル。あらすじを説明するのが野暮になる凄さなのでとにかく読んでほしいと思う。全編に満ち溢れる魂のようなものを肌でビリビリ感じる本だった。凄かった。なんか全然凄さが伝わる気がしないけど、トニ・モリスン『ビラヴド』みたいなかんじです。あれもすごかったなあ。

こどもが酷い目に遭う話がとことんだめになったので、最終章を飛ばし読みして生存確認だけしたあと本編に戻った。いろいろと事情があるうえでの描写だけど、こどもがひどい目にあうのは苦しい。

『心の傷を癒やすということ』
著/安克昌

阪神大震災のあと、被災地で「心のケア」に取り組んだ精神科医の本。この先生がいま生きてらっしゃったら、どんなことばが聞けたんだろうか。あまりにも早すぎる死が悲しくて泣けてきた。

名著、というのはこういう本にふさわしいのだとおもう。NHKでドラマ化されたときから気になっていた。読んで良かった。なにか気の利いたことを言いたいんだけど、貸出期限を意識しながら急いで読んだので全然味わい尽くせてない。手元に置いて何度でも読み返したくなるような本だった。

ただ側にいて話を聞く、というのは鷲田清一『「聴く」ことの力』にも登場した気がする。あちらもよかったな。また読み直そうとおもう。(元々は植田正治の写真に惹かれて買ったんだけど)

『本屋さんのダイアナ』
著/柚木麻子

ぱさぱさの金髪・母子家庭・若すぎる母・父親不明の女の子ダイアナと、ダイアナの友達の彩子、ふたりの女の子が自分の呪いを自分で解くまでの話。

ダイアナとティアラ(ダイアナの母の源氏名)の関係が最高で最高だった。マジカルグランマもそうだったけど、登場人物全員への視線が優しくてとてもまろやかな読み心地がする。もっと作中の世界に浸っていたいのにまた一日で読み終えてしまった…。くやしい…(?)

少女からだいぶ歳を食った私は、彼女らのように運命を切り開くことがどれほど難しいか知っている。知ってしまった。誰かのせいにしながら、自分の不甲斐なさに見て見ぬふりして、でもどこかで可能性を捨てきれず、みっともなくジタバタし続ける。登場人物たちのように屹然と顔を上げて生きていくのはどれほど困難なことか。

それでも、自分の人生の主人公は自分でしかない。アンの友達のダイアナ、この世のすべての決して何者にもなれない者たちに、あなたにもちゃんと力はあると小さな新しい地図を広げてくれる、そんな話だった。

中学生頃に読んでたら一生の宝物にしてたとおもう。私にとってその座は別の本にあるのだけど、この物語は娘氏にも読んでもらえるように本棚に置いておきたいな。

『ケアする惑星』
著/小川公代

誰かを傷つけることなく、時間的・空間的に遠く離れた他者を人間としてつながるための「ケア」の在り方を、文学・漫画・映画などの作品から探る。

「ケア」と聞くと、看病や介護や保育といった職業を思い浮かべる。この本で語られる「ケア」はもっと多角的だった。本来決して分かり会えない自分以外の他者と、分かり会えないままに手を取り合って共存するための方法、というニュアンスになるだろうか。そして、それは本来、性別や職業だけが担うものではなく惑星を形作る全員が参加するもののはずだ、ということが繰り返し語られる。そんなことも「ケア」なの?ケアと読んでもいいものなの?といくつも発見があった。

作品の海を少しずつ探りながら論を深めていくのが心地よかった。読んだことのある本や漫画がたくさん登場したので、新しい視点を見いだせたのも楽しかった。ヴァージニア・ウルフの作品を一つも読んだことがない。この本を読んで、とても読みたくなった。

『マジカルグランマ』
著/柚木麻子

「誰からも愛されるかわいいおばあちゃん」として役者で再ブレイクした75歳の主人公が、「理想のおばあちゃん役」から降りる話。

面白すぎて1日で読み切っちゃった。とても面白かった。出会えてよかった。

自分を束縛する「イエ」なるものから逃げたい一心で俳優に復帰し、オーディションを受け、稼げる「いい役」を狙っていたはずなのに、いつの間にか、あれほど逃げたくて燃えてもいいとすら思った古民家を中心に、新しいコミュニティを作っていく。集まるのは、夢みる上京娘に廃品回収のおじちゃんや、休職中のサラリーマン、会社を畳んだばかりの息子とその彼氏、痴呆症の友人…。「イエ」なるものを壊すのは難しくても、再構築してよりよい居場所にしていける。そんな希望を感じた。

中盤で主人公が自分が「いいおばあちゃん」を演じることで何に加担していたかを気づくシーンにぐっときた。社会の中で少しだけ居場所を見失ったひとたちに向けられる「どっちつかずでもいい」というメッセージが優しい。

これはマジカルでミラクルなおとぎ話だ。でも、主人公が巻き起こしたミラクルなおとぎ話を、きっと信じたくなる。信じてみたっていいじゃない。

『王とサーカス』著/米澤穂信

フリーの週刊誌記者が訪れたネパールで王族殺人事件が起こる。混乱する市街を取材する中、雑踏には新たな死体が現れて…という推理小説。

おもしろくて中盤くらいからぐいぐい一気に読んでしまった。推理小説というジャンルは作者の手の内で転がされるのを楽しむ分野と思ってるんだけど、とても楽しく転がされた。週刊誌がサーカスなら、推理小説も規模は違えどサーカスだな、とおもった。

どれだけ誠実に事象と向き合ったところで、物語になった瞬間から事実とは異なっていく。読者をサーカスに巻き込みながら、報道倫理や国外の貧困について真剣に(娯楽としてではなく)考えさせるようしむけるのは難しいな、というようなことを考えていた。ましてや国内で貧困が進行するいまは尚更。いや、別に推理小説がそれを担う必要もないのだけれど。

作中の時間は2001年でも、この本が出版されたのが2015年。2023年のいま、メディアは官邸主導のサーカスしか演じない。大刀洗さんはいま何を調査してるんだろうな。

『ノーマル・ピープル』著/サリー・ルーニー 訳/山﨑まどか 


離れようとしても離れられないふたりの男女の、高校から大学まで4年間を切れ切れに描く。スライス・オブ・ライフ、切れぎれのシーンを繋げた映画のような、独特の雰囲気をもつ小説だった。

傷つきやすく見栄っ張りで、誰かを必要としているけれどだれにも頼れない、孤独で普通な人たちが、繋がったり離れたりしながら、ちっちゃい痛みに満ちた毎日をなんとかやり過ごしていく。

マリアンは最初からずっと助けを求めているような女の子だったのに、コネルがちっともどうにかしようとしないので、読書中のメモには「コネルがクソ!クソ野郎!」と残されている。落ち着け。なお少なくともコネル以上のクソ野郎が複数名いるため作中クソ野郎ランキング的には下位だし、18歳かそこらの普通の男の子に誰かを助けることを求めるのは酷だ。

若者が主人公を読むと、私はどうしても昔の自分思い出してしまう。この小説は特にそうだった。今より若くて何も変えられず誰も助けられず、居場所を作る方法も知らない「普通の人」だった昔の自分(まぁ…今でも知らんけど…)が、ちょっとだけ慰められるような気がした。

『あなたの教室』著/レティシア・コロンバニ、訳/斎藤可津子 


これは本当に現代のはなし???
いまもまだ起こっているの???
まじで???

インド南方の海辺の街に旅行に来ていたフランス人女性が、街の貧しい子どもたちのために学校を作る話…と、あらすじはこれで終わっちゃうんだけど、少女たちが10歳やそこらで結婚させられたり、生理用品がなくて学校に通えなかったり、性暴力に対抗するため自警団を作ったり…半日あれば読み切れるような薄い本なのにどっとつかれた。

ところでインド映画『RRR』が熱いけど、『バーフバリ』では闘う女性を描いた監督がなぜ「男同士の結束」の物語にしたのか、女性の影がうっっっすいのか、理解できた気がした。あれってナショナリズムの映画だもんなあ。
ナショナリズムが男性の結束の映画になるのは、インドの女性たちは国の制度や法律から護られてないからだとおもった。女性は国から見捨てられ、強固な家父長制のもとで物品のように交換される。

だから女性は、時に途切れてしまうか細い繋がりで対抗するしかない。この本はそんな弱い団結を描いている。あまりに理想的すぎる気もする。でも、夢見ることからしか始まらない。そして人間の想像したものは必ず実現できる。すべての女の子はいつか凧みたいに舞いあがる。

『黒牢城』著/米澤穂信 


中盤の「城の頂点に立つ人間の心情を理解する者は地下牢に閉じ込められた者のみ」って展開にたぎった。でももしかしてだけど、著者がエモみの本領を発揮してるのは現代小説でじゃないかって気がずっとしてたので、別な現代小説も読んでみたい。

時代劇は好きだし『麒麟がくる』も観ていたのだけど、歴史上の人物の名前も史実も全然覚えてないもんだから、なにもかも新鮮な気持ちでオチまで読んでしまった。ただ松永弾正が「茶器抱いて爆死した人」ってことだけは覚えていたので、名前が登場するたびにずっと吉田鋼太郎の顔がチラチラしていた。

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