『<公正(フェアネス)>を乗りこなす 正義の反対は別の正義か』
著/朱喜哲

正義、ポリティカル・コレクトネス、合理的配慮。なんとなく「そんなの人によって価値観変わるし、誰かの正義は誰かの不正義なのでは?」と思ってしまう言葉について、ロールズの『正義論』を土台に哲学者たちの言葉遣いを紐解き、言葉の用法から問い直していく本。

本文で何度も言われるように、「これ!」という回答をくれる本ではない。異なる利害をいだく『われわれ』が共に社会を営むにあたり「会話」をとめないためには何が必要かを考えるための本だった。近頃ネットで流行る「論破しぐさ」がいかに有害かがわかるし、会話を無理やりやめる技法があると知れたのは面白かった。

平易な言葉遣いなので中学生~高校生なら十分理解できそうな議論だとおもう。自分が高校生のときはかなりアホで「正義なんてどこにもないのサ…」的な中二病を引きずっていたので、この本で過去の自分をどついてやりたいと思った。

図書館で借りたところ、汚れ防止のカバーが貼られていた&表紙と本文用紙がちょっと硬めの素材ためか、ひじょうに開きにくくて気が散ったのが残念。ちくま文庫あたりに収録されれば買って本棚にそっと置いておきたいんだけどな。

『小さなことばたちの辞書』
著/ピップ・ウィリアムズ
訳/最所篤子

英語の全てを記録するという目標を掲げる『オックスフォード英語大辞典』の編纂に携わる人々と、辞書からこぼれおちたことばたちを拾い集める女性の百年にわたる物語。

幼い主人公がことばを探し求める時間が愛おしくて、読めば読むほど主人公は成長して物語の終焉に近づいてしまうのが悲しかった。本でも映画でも、そういう作品に出合えるとしあわせだなと思う。

この小説は冒頭からずっと不在の母親を求め続けていた。死んでしまった人の事を考えるというのは文字を読むことに似ているのかもしれない。文字になったことばは死んだことばだと誰かが言っていた(忘れた…)
誰かのいない空白を埋めるのも、不在の輪郭を強調するのも、ことばなんだな。

終盤、主人公が集めた辞書には乗らないことばたち=「迷子のことば」がしかるべき人の元に届き受け継がれたのが、切なくも嬉しかった。不在から始まった物語は、次の者に自らの不在を示すことで終わる。

うまいことまとまらないんだけど、母語話者が存在しない人工言語のエスペラント語で唱えられる「安心」が迷子のこどもに伝わるシーンがよかった。どんなことばも愛おしくなるようだった。

『女たちの沈黙』
著/パット・バーカー
訳/北村 みちよ

トロイア戦争の終盤を舞台に、戦争に翻弄される女性たちと戦いをやめない男たちの物語。

凄く静かな読後感で、全体の雰囲気は『ハムネット』に似ていた。ただ主人公の状況は『侍女の物語』だったので、読むのはしんどかった。

ギリシア神話もトロイア戦争も予備知識を持たない状態で読んだので、時代背景と人物名の整理に少し苦労した。ただ「どんな時代であれ戦争はクソ」という理解さえあれば読み進められる。戦争がどういった名目で起きて、誰が闘い、誰が殺されて、語り遺されるのはどういった存在かについて描かれている。言わずもがな、語られるのはいつも剣を持って前線に立つものだ。それは今でも変わらない。ゼロ戦に乗る男たちの物語は語られても、南方で餓死した男のエピソードは物語られないように。あるいは、住処や家族を奪われたうえに勝利の褒章として男たちにあてがわれる女性たちの物語が記録されていないように。

沈黙に潜む傷、喪失、慟哭、愛。伝説のなかにだってかならず存在していたけれど「ないもの」とされてきた物語を語りなおすための小説だったとおもう。

『英語の路地裏 オアシスからクイーン、シェイクスピアまで歩く』
著/北村紗衣

オアシス、クイーン、パディントン、スタートレック、ジョーズ、シェイクスピア等々、歌詞や映画や戯曲で使われる英文をとりあげて文化的な意味や使われ方や文法の基本を解説してくれる本。楽しくてスイスイ読めた。関係代名詞の非制限用法と制限用法はネイティブでも間違えることがあると聞いてひと安心。いや安心してる場合ではないが。

英語でお米は「rice」だけれど、日本語だと「白米」「玄米」「冷やご飯」「銀シャリ」「握り飯」等々、状態や温度や調理方法で様々な呼び方があるのは、それだけ「お米」にまつわる文化の深度が違うから、みたいな話を聞いたことがある。同じことがもちろん英語にもあるわけで、キリスト教やシェイクスピア作品への深度は日本と全然違う。言語を学ぶってただ喋れるようになるだけじゃないんだなあと改めて思った。

図書館で借りてきて急いでガーッと読んだので、実は面白さを全然味わいきれていない。でも「英文は楽しく読めたらまずはOK」「小説を読むのも全然アリ」的なことが書いてあったので私も小説を読んでみようかな。パディントンとか。

『環と周』
著/よしながふみ

いつかの時代のどこかの場所で、会って、話して、手が触れて、ほんのひと時共に過ごして、また別れる、かつてどこにでもいた/いまもどこにでもいるであろう「環」と「周」の関係を描く連作(?)短編集。

恋とも愛とも友情とも名状しがたい関係性というものが大好きなのですが、全話何度も読み返したくなる素晴らしさでした…。

偶々同じ時代、同じ場所にいて、つながることができたひとが、人生で忘れ得ない存在になる。わたしは今この時代を生きるすべての人とそうなりうる可能性があるわけで、誰かを憎んだり貶したりしている暇はないなぁ、などとおもいました。

『女ぎらい ニッポンのミソジニー』
著/上野千鶴子

社会学を多少かじって、フェミニズム関連の本も数冊よんでみたとはいえ、それでもうまく名前が付けられずにいたモヤモヤに、ぺぺぺっと名札を張って、痛快で明快な説明をしてくれる本。読むのも凄く楽しくて一日で一気に読んじゃった。刺激的な表現が多岐にわたってでてくるので電車の中で読むのは多少気を遣った。でもそこが好き。

ミソジニーの定義にはじまり「ホモソーシャル」についての解説、性の二重基準、児童虐待、皇室、春画、母と娘、女子高……と、盛りだくさんな内容だった。一家に一冊あったほうがいい。

2010年に刊行された単行本が2018年に文庫化されている。13年前の本だというのに、古いと感じるところはほとんどない。たとえ話とか出てくる本のタイトルが古いとかその程度。多分、あと10年20年は余裕で古びないとおもう。気が遠くなる。ちょっとは前進していればいいが、最近は反動的なうごきも強くなっているので、状況はむしろ悪化しているんじゃないかとすら思う。

好きなSFのタイトルは、

たった一つの冴えたやり方
ここがウィネトカなら、君はジュディ
鳥の歌、今は絶え
太陽の黄金の林檎
わたしたちが光の速さで進めないのなら
大きな鳥にさらわれないよう

未読だけど好きなのは「ガニメデの優しい巨人」です。SFは名タイトルが多いので選びきれないし全部読みたい。

『地図と拳』
著/ 小川哲

中国南部に構想された理想郷『満州』をめぐる55年間の物語。物凄い量の参考資料が物語るように、色々と史実に忠実に描写されている一方、天気や湿度をピタリと当てる万能計測器人間や、自筆の予言の書で50年先を予見する男、どこからともなく現れては予言めいた言葉を残し、国家存続のために多くの人を翻弄して暗躍するメフィストフェレス的な男など、いろいろと変な人がたくさんでてきて、史実を土台にした寓話めいた話だった。松尾スズキの戯曲っぽい。

ページを捲る手をとめさせない面白さで終盤は一気に読んだ。単行本600p超と見た目は京極ばりにゴツいけど、四六判1pにつき45文字×20行程度なので文字数的にはさほどでもなく、本に厚みを持たせて超大作感を出すためにあえて厚くしてるかんじがしたので、個人的にはいろいろもっとツッコんで欲しい箇所もあった。でもこれは史実を描いた本じゃないからその辺はお門違いかもしれない。

『家族と国家は共謀する サバイバルからレジスタンスへ』
著/信田さよ子

家族内でおこる暴力行為がいかに国家の思惑と結びついているかを説く。比較的さくっと読めた。別の本も読みたい。

家庭内での出来事に関して国家は不可侵であるべきである、という戦後日本の原則は、裏返せば、国家は家庭内における家長=男性のふるまいを黙認することだった、という指摘にぞくっとした。人類皆平等という建前のもと、家の中に発生する男/女、親/子の不均衡は『あえて』見過ごされた。不均衡を黙認する国家と利益を甘受する家長。家の内部で虐げられる者は犠牲者にすらなれなかった。名前が与えられたことで(DV、依存、虐待...)ようやく被害者は被害者として、加害者に責任追及できるようになる。

でも、自分がどれだけ相手を害しているか理解しない加害者は多い。加害者に責任を取らせることの難しさは、以前『言葉を失ったあとで』(著/信田さよ子・上間陽子)を読んだときにも語られていた。それでも暴力を振るう者が振るわなくなることで「家族」の形をギリギリ維持できる。

崩壊寸前の「家族」を見て見ぬふりして、うちの国家は『古き良き日本の家族』的なものを再生させるべくせっせと広報に励む。夫婦別姓とか同性婚とか夢のまた夢じゃないの、などとおもった。

『デ・トゥーシュの騎士』
著/バルベー・ドールヴィイ
訳/中条省平

19世紀のフランスが舞台。幽閉された騎士を助けるために派遣された12人の戦士の闘いを描いた小説。

作者も19世紀の小説家のためか、文体がすごく回りくどいというか、聞き馴染みのない比喩表現が大量に出てきて面白かった。読んでいるとしばしば眠くなったけれど。

塔に幽閉されているのが女性と見紛うほど美人の男性騎士で、語り部はかつての12人の戦士のうちひとりにして若いころから男性に混じって剣を振るってきた女性、という、ちょっと変わった構成だった。一応騎士物語だと思うので普通は逆なんじゃないだろうか。三人称の小説だったはずなのに語り部がいきなり自我を出してきたりと、色々と不思議な小説だな~と思いながら読んでいた。分からないことはありつつ、筋自体は、騎士奪還に至るまでの回想、という感じなので迷子にならず読めたけれど。

性別をひっくりかえしたような登場人物がたくさん出てきたので、ちゃんと分析して読めたらめっちゃ面白いんじゃないだろうか。翻訳者の本で『最後のロマン主義者―バルベー・ドールヴィイの小説宇宙』があるのでこちらも読んでみたい。

『誓願』

著/マーガレット・アトウッド
訳/鴻巣友季子

『侍女の物語』の続編、独裁国家・ギレアデ共和国滅亡の物語。前作は最初から最後までずっと息が詰まりそうな閉塞感を感じて、読むのが本当につらく、全然読み進められなかったのだけれど、続編の本作は爽快な冒険活劇、失われた過去を憐れみ懐かしみながら書き記す回顧録、ユーモアの中に復讐心渦巻く策謀の書、といった感じでとても楽しく一気に読んでしまった。虐げられた女性たちの勇気と連帯で国家転覆の野望を成し遂げる様は痛快だったし、希望にあふれていた。

が。

アメリカでは中絶が禁止され、日本でも代理母法制化がささやかれる昨今、私達はもう「ギレアデ」の内部に足を突っ込んでいる。保守的な意見は根強くはびこり、「女」の扱いは昔と変わらないどころか逆行しているところもある。そんななな、この希望の書に描かれていたような勇気と連帯を、今を生きる我々は示すことができるのだろうか。私はとても難しい気がする。

でも、それでも。

訳者あとがきによると、原題の「The Testaments」は「神と人との契約」「裁きの場での誓言」「遺言」という意味があるらしい。願いが無ければ叶わない。ならば私も祈りたい。私の選び取る道が私の娘に少しでも善い未来をもたらすように。

『シェイクスピア劇を楽しんだ女性たち 近世の観劇と読書』
著/北村紗衣

シェイクスピア劇が今に残る古典となるまでには、大勢の無名の人々が劇を鑑賞し、脚本を読み、感想を述べ、二次創作(!)し、コスプレしてフェスに参加(!!)した。当然女性も。残された資料から、16~18世紀頃の女性達がどのようにシェイクスピアを楽しんできたのかを検証した本。

想像していたよりも10倍ぐらい「お堅い」専門書だったので読み通せるか不安だったものの、中盤位からノッてきて最後まで読めた。索引と参考資料で本の1/4程を占めていたのが凄かった。

シェイクスピアをどう解釈するかで自らの言論の正当性を主張しようとした女性達の試みが興味深かった。例えば、シェイクスピアの学歴は高くなく、作品も英語で執筆されていることから、英語でも戯曲は書けるのだからラテン語の教養はなくてもいいのだという主張は、女性は教育をうけられなかったためラテン語の教養がなかったことに由来する、とか。今も昔も女性の発言や作品の受容の仕方は「正当ではない」と言われるものなんだなあと思った。

どんなやり方であれ、作品を愛するファンがいた。いまもいる。その中には私も含まれている。16世紀の女性達に、なんだか少し勇気を貰った気がする。

『布団の中から蜂起せよ アナーカ・フェミニズムのための断章』
著/高島鈴

”生き延び、抗い、何度でも会おう。”
私がこの本を手に取って序章を読んでいた2023年7月12日、芸能人の自殺報道があった。今こそ読むべき本だと思った。

この本の文章は、なんかすごくぐちゃぐちゃしていて血がだくだく流れている。読んでいると血の生暖かさを感じてゾクゾクする。熱くなる。生きている。なんかこれはすごくいいな。好きだ。いや、でもできれば血とかは流れないほうがいいし、私は誰かや自分が痛い目に遭うのは嫌いなので、やっぱり血を流させるこの社会がクソなんだけど。

世界、明日爆発しないかな。昔の私はずっとそう願っていた。地震とか疾病とか、色々と無茶苦茶なことが起こって、いろんなものがマジで「爆発」したけれど、世界はどうにもならなかった。

生き延びよう、と何度も何度も呼び掛ける本のラストには、死者たちについての章が収められている。生と死の境界線の向こう側にいる、いまはもう見えなくなった人たち。絶対に会えない「死者=他者」の声を聞き、血を流しながらこのクソみたいな社会に居続けること。

生き延びること。それこそが抵抗であり革命だ。だったら、私でもその革命になら参加できそうだよ。皆、一緒に生きようね。

『社会契約論ーーホッブズ、ヒューム、ルソー、ロールズ』
著/重田園江

『社会契約論』を、その原初である450年前の思想家から現代の哲学者にわたって解説した本。読み始める前は人名も単語も具体的にどういうものかはまったく理解していなかったのだけれど、お〜〜〜もしろかった〜〜〜!巻末の読書案内もふくめて、手元に置いて道しるべにしたくなる一冊。

ルソーの章ででてきた6の字の歴史認識がおもしろかった。ルソーとロールズめっちゃ好きになったのでもう少し何か読みたい。

小さくて無力な個人が、生きている間には絶対に関わり合えない、想像すらもできない圧倒的な他者と、おなじ社会で生きる者としてどうあるべきか、なにができるのか、これからどうすればいいのかを考えるための思想。いまこそちゃんと考えなくちゃいけないことが詰まっていた。

人間は自分自身の身分や地位を知らない状況では、自分が不利にならないよう、結果的に「みんなに公平で有あるような」ルールを制定する…という解説には納得なのだけれど、それでも、読みながら私は「自分が働けなくなったら生活保護を受けるかもしれないのに、なぜ生活保護受給者が糾弾されるのか?」みたいなことを考えていた。でもおそらく、それにはまた別の解説が必要なのだとおもう。

『ハムネット』
著/マギー・オファーレル
訳/小竹由美子

息子を喪った父親は、息子の名前を戯曲に冠する。父親の名前はシェイクスピア、その戯曲とは『ハムレット』――という史実から着想を得た物語。なお主人公はシェイクスピアの妻。

森の草木や薬草に精通し、鷹を飼いならし、不思議な力で未来を予見する女性・アグネスの生き方が魅力的。浮世離れした彼女が自分の世界を保ったまま、同じく浮世離れしていてまだ何者でもないシェイクスピアと恋に落ちていくのがロマンチックに描かれていてとてもよかった。

題材から何が起こるかは予測していたものの、子供が辛い目に遭うのを読むのはしんどい。その後の主人公とその家族を襲う悲しみの嵐には何度もため息がでた。

それぞれの傷口はいつまでも癒えず、なぐさめあう方法もわからず、誰もがいつもどこかにいなくなったあの子の影を探している。それでも季節をやり過ごして、各々のやり方で折り合いをつけ、少しずつ生をとりもどしていく。それはある意味哀しいことでもあるけれど、他の誰かでお手軽に埋めてはいけないんだな、とおもった。血は今も滴るけれど、それでも生きていく。

ずっと淡々とした描写がなされている小説だったけれど、森や野花が色鮮やかで、草の葉が匂い立つような本だった。

『どれほど似ているか』
著/キム・ボヨン
訳/斎藤真理子

韓国SF短編集。不思議な読み心地。社会派なお話のほか、言語学や認知や宇宙を扱ったごりごりのSF的な話もたくさん入っていて読み応えがあった。特にジェンダーや年齢を扱ったものが読み応えがあって好きだった。

短い文章にすごく独特な味わいがあって、ずっと浸っていたくなるような本だった。

韓国女性作家のSFは『千個の青』や『わたしたちが光の速さで進めないなら』を読んだ。少し不思議で、少しで悲しくて、少し優しくて、愛おしい。どれも自分とは異なる存在にむかって少しだけ踏み出す話だったな、とおもう。

『どれほど似ているか』に収録の小説はハッピーなものばかりではなく、社会や政治を映し出したような苦い作品も多い。でも、どれも根っこには作者の希望があって、人間は愚かで非合理的だけどきっと明るい方に歩いていけるはずだという、希望というか、想像力への信頼が込められているような気がした。

日本の若手女性SF作家の本をあまり知らないんだけど、あるなら読み比べてみたいな。

『ヴィネガー・ガール』
著/アン・タイラー
訳/鈴木潤

シェイクスピアの『じゃじゃ馬ならし』翻案。面白くて一気読みしてしまった。登場人物たちの心情や行動がとても細やかで、ああいるよねこういう人、と思えて楽しかった。特に29歳の主人公には(当たり前だけど)一番共感した。私も酸っぱい系の《娘》だったので。

永住権獲得が目的の偽装結婚が、やがて相手と自分を少しだけ開放するための手段になって、本当の意味で愛しあうふたりになっていく過程がとてもよかった。本当に小さなことで揺れ動く心の描写は読んでいてキュンキュンした。いいラブコメだった。

個人的には妹ちゃんの最後の台詞もよかったな。あれはあれで正しいとおもう。登場人物たちが全員どこか滑稽で愛しくなった。あと台詞回しや仕草が映画のようで面白かったし役者が演じると映えるとおもうのでぜひ映画化してほしい。

原作の『じゃじゃ馬ならし』のあらすじにざっと目を通したら、DV男が妻を暴力で従順にさせる話だったのでウゲ…となった。原作は読まなくてもいいかな…。

『決定版 快読シェイクスピア』
著/河合隼雄・松岡和子

お~~~~~~もしろかった!400年間も生きた物語は、人の心を鮮やかに映し出して、多彩に読み解くことができるんだな。

シェイクスピアは『リア王』の文庫本が自宅にあるのと、野田秀樹版の『真夏の夜の夢』を読んだのと、1968年の映画『ロミオとジュリエット』と、去年アトウッドの『獄中シェイクスピア劇団(テンペストのリブート)』を読んだくらいで、しかもどれも記憶がおぼろげなのだけれど、ちょっとちゃんと読みたくなった。

繰り返し語られる「シェイクスピアは女性嫌い」という説、後半のキリスト教的考え方でやっと多少理解はできたけれど、この本を読む限りはよく分からなかった。でも400年もそう言われているならそれが定説なんだろうな。

『同志少女よ、敵を撃て』
著/逢坂冬馬

圧倒的なスケールと検証で紡がれる、ソ連の女性狙撃兵たちの闘い。一応あらすじは知っていたけれど、戦場という極限状態のなかでうまれる物凄く濃密な女性たちの連帯《シスターフッド》の物語だった。戦うか、しからずば死か。主人公は戦うことを選んで生き延びる。終盤、選択の外にあったものに気づく展開が熱い。

登場人物ひとりひとりも個性豊かで魅力的、ラノベだったら速攻でアニメ化(豪華声優陣!美麗作画!迫力の戦闘シーン!)されただろうなとおもう。ていうかそのうちされるとおもう。

これはこの物語の良し悪しとは全く関係のない問題で、私はこの物語は女性と戦争についてかなり気をつけて書かれた話だとおもうけれど、誤読や曲解のリスクは常に発生するんだろうなと感じた。たとえば『この世界の片隅に』を見て「慎ましやかに暮らした戦時中の人は偉かった」という感想を抱く人が存在するように、『同志少女〜』を読んで「祖国のために銃を持って戦う女性たちの逞しさに感動」する人はいるわけで。だから、『火垂るの墓』みたいに嫌な気持ちになる作品って大事なんだなとおもった。

変な感想で申し訳ない。小説は本当に面白くて夢中で読み切った。でも私はその「面白さ」自体を危ういと感じているのかもしれない。

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